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6月30日(木) 晴

朝、妻が具合が悪くなり、しばらくアイスノンで頭を冷しながら添い寝して、看病してから家を出る。
今日も暑い。
一日パソコンの前にすわって仕事する。首から肩にかけての辺りが張ったようになって、不快だったが、夜には緩和した。
月末なので、店により、ホームページの更新用データをもらって帰る。高島屋のデパ地下で、豆打のわさびいなりと鳥の唐揚げを買って帰った。9時過ぎから、ホームページの更新。いつもだいたい一時間くらいの作業。
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by daiouika1967 | 2011-06-30 23:11 | 日記  

6月28日(水) 晴

昼、仕事の合間に車を置きに家に寄り、昼ごはんのおにぎりを食べる。外は熱暑だが、家の中は換気がよく(換気扇を回し、扇風機をつけっぱなしにしてある)、涼しい風が吹いて、ずいぶんと過ごしやすい。妻はどこかに出かけていていなかった。テレビを点けると、大画面から放射される熱で暑くなるので、点けないまま、猫を眺めて、30分ほどまどろむ。

今日も11時前には就寝する。
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by daiouika1967 | 2011-06-30 23:02 | 日記  

6月27日(火) 晴

暑い。それでもクーラーなしでも何とかなるものだ。クーラーどころか網戸すらないのだが、換気扇を回しっぱなして、扇風機をつけ、部屋の空気を攪拌し、ベッドの上に冷却マットを敷き、アイスノンで頚動脈を冷して横になれば、さほど寝苦しくもない。
聖書をすこし読み継ぐ。バテ気味だったので、11時前には眠りに就いた。
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by daiouika1967 | 2011-06-29 22:30 | 日記  

6月26日(月) 晴

今週は仕事が詰っているんじゃないか、となんとなくせわしなく、具体的にリストアップしてみるとそうでもないことがわかる。ただ、構成を練ったり、文章を書いたりといった、クリエイティブ系の仕事が多くて、こうした仕事はなかなかキリがつかなくて、休んでいるときも頭のどこかで仕事が持続するので、なんとなくせわしないような気がしたのだろう。
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by daiouika1967 | 2011-06-29 22:24 | 日記  

6月26日(日) 曇

午前中、妻と明治村に行く。前回妻が最後までゴールできなかったスフィンクスコードⅣの続きをやりにいく。2時間で何とかゴール。食堂でガンボライスを食し(妻はジャンバラヤ)、一年間のフリーパスを買って、1時過ぎには帰路に就いた。
スーパーで買い物をして帰り、午後から夜はずっとテレビを眺めて、ぼやんと過ごした。
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by daiouika1967 | 2011-06-27 00:17 | 日記  

6月25日(土) 晴

午前中、大谷純『摂食障害病棟』(作品社)を読む。3時間読み耽り読了する。著者は心身医学者。著者のことは知らなかったが、植島啓司の推薦文に惹かれて読んだ。後書きを読むと、著者は大学で植島啓司の同僚であったということだ。

午後、福田和也『現代人は救われ得るか ―平成の思想と文芸』(新潮社)を読む。4時間で読了する。扱われている作家は野村秋介、村上春樹、舞城王太郎、佐藤友哉、保坂和志、島田雅彦、長島有、堀江敏幸、川上弘美、江國香織。

≪さまざまな他者との接触、親交、対立などをつうじて、人格なり見識なりを育んでいけるような「社会」などというものは、もはや、存在しないのかもしれない。すくなくとも一部の人々にとっては。それはただ、社会的訓練が出来ていないなどと非難される若い人たちだけのことではないだろう。市場とネットワークに適応し、分かりやすい成果を追求する人々にとっても社会などないのかもしれない。いわゆる経済小説のたぐいに、市場の幻影以外には人らしい人が出てこないことを考えれば、舞城作品は、むしろ「社会」の不在を忠実に表現しているともいえる。
すくなくとも舞城王太郎は、自作の幼児性については、意識的である。それはいわば作り込まれた幼児性であり、成熟の不可能性を認識するはるか以前、ただ子供として癒され、慰められ、満足させて貰うことを求めている、そういった欲望しか抱きえない存在として「俺」は造形されている。しかしまた、同時に「俺」は、それが安っぽくなさけないことだということを熟知している。≫

≪いかに独自な議論であっても、大声で発せられ市場で売られるのであれば、結局「正しい」ものでしかない。万人の正義でしかない。哀しいかな文芸は、万人の正義の側にではなく、ひとりぼっちの消沈にしかないだろう。「道徳」は、日とを元気にさせ、人を興奮させるが、「いい加減で、無責任」であることは、呆れられ、馬鹿にされるのみだ。けれども、非常時において「いい加減で、無責任」であった作家たちによってこそ、戦後文学が可能であったことを私たちは知悉しているはずではなかったのか。戦前において、ちゃらんぽらんであるということは、ただ時流との距離からだけで計られているのではないだろう。必然でなく、選択でもない、使命としての無責任こそがかけがえがない。≫

≪堀江作品の登場人物たちは、先見的に魅入られている。音に、響きに、直接的でありまた微妙にして深淵なトーンとニュアンスに憑かれている。けれど、その追求と固着について、人物の人格なり、境遇なり、背景なり、人生といったものは何の関係もない。ただ、「彼」は、そういう存在なのだ。≫
≪たしかに堀江作品の、静かで穏かで注意深い人たちは、みな市井で生活する者として描かれている。けれども、本質的に「趣味」に、響きと彩りのなかに生きている彼らの家計簿は、どうしたって黒字には見えない。「趣味」を追求するためには、もとより生計の杖とはなり様のないものを背負うにあたっての、悪戦苦闘なり、屈託なりがあるはずだが、そうしたバランスシートは、堀江作品のなかからは排除されている。というよりも一顧だにされていない。≫
≪堀江敏幸を、その非人間的な審美主義において、平成の川端康成と規定した。だが「仏界易入、魔界難入」と語った川端が、市民社会どころか人間たちの世界からもはみ出していたのに対して、堀江はあきらかに市民社会のなかにいる。ある視覚から見れば、堀江は魔界のものであった審美主義を市民のものにしたともいえるだろう。堀江作品は、穏健な生活をする読書好きの人々に強く支持されている。だが、人間的感情にほとんど関心をもたない審美主義に根ざす堀江作品の甘美さは、それほど安全なものなのだろうか。むしろそれは善良な人々の、自らを善良と思い、他人からも善良と思われている人々の、温度が低いがゆえに根強く、意識すらされないがゆえに際限のない、邪悪さを肯定している。≫

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by daiouika1967 | 2011-06-27 00:14 | 日記  

6月23日(木) 曇

暑気にやられて電車で意識が遠のく。うつらうつらとまどろむ。いい気分だ。訪問先の担当者が若い女の子で楽しかった。穏かな気分。
夕方、雑賀恵子『空腹について』(青土社)を読み継ぐ。読了。

≪つまり、こういうことだろう。わたしたち、の<わたし>というのは外部にぴっちりと貼り付いて生きているように思っているけれども、そうではない。その意識された<わたし>ではなく、身体としての丸ごとの<自己>は、<わたし>が意識するよりもはるかに多くの情報をピックアップして動いているのである。そして、入力された情報を処理しながら身体としての丸ごとの<自己>は運動しているのだけれども、<わたし>は<わたし>が意志決定をして身体としての<わたし>を運動させている、<わたし>は身体丸ごとの<わたし>である、と思いこんでいる。≫

≪日稼ぎの人間にとって、家賃は大きな負担で、月極であっても概して実際は日掛けで集められている。四畳半に二畳の小座敷があるようなのは上等の部類で、日掛け四銭、これは稀である。長屋で畳三枚、露天で膳椀を洗い、厠は共同、仕切りと言っても天幕のようなのが日掛けニ、三銭、さらに月四、五十銭くらいのものもある。日掛け三銭以上になると負担が大きく、襤褸師と屑屋、縁日小細工人は呼び売り商人と、日雇い稼ぎは車夫土方というふうに同業が呼び集まって同居している。一ヶ月十円の収益を得るものは五円が飲食費関連、残りで住居、被服、寝具、什器、履物、その他の日用諸雑品の費用でぎりぎりに生活しており、全くの余裕がなく、不慮の出費が必要になると対処のしようがない。大半はこれ以下の生活だが、車夫は一日の労銀三十銭で豊かな部類に入る。ただ、営業諸経費が日に十銭以上になるので、体力のある成年男子であれば二十二、三銭を得る土方日雇い人と結局のところ変わらない。≫
≪車夫たちが食べるものは、松原の筆によると尋常人の目には不思議に映るものである。丸三蕎麦とは、小麦の二番粉と蕎麦の三番粉を混ぜた粗製のもので、擂鉢型の丼の山のように盛り出して、一銭五厘。深川飯はバカ貝のの剥き身に葱を刻み入れて似たものを丼に盛った白飯にかけたもので、やはり一銭五厘だが、尋常のひとには磯臭くて食べられた者ではない。馬肉飯は、深川飯と同じ調理法で、種は馬肉の骨付きをこそげ落としたものであり、一杯一銭、脂の匂いが強く鼻を突いて食べられたものではないが、労働者は三四杯をかき込む。煮込みは労働者の滋養食で、屠牛場の臓腑、肝、膀胱、舌筋などを買い出して細かく切ったものを串刺しにして、醤油と味噌を混ぜた汁で煮込んだもの。一串ニ厘で、嗜み食うものは立ちながら二十串を平らげたが、生臭さが鼻の辺りまで漂い、味も異様でとても常人の口にするものではない。さらに、その調理法は不潔な汁に血液を混ぜて煮出したもので、籠城で飢えた兵士が人肉を屠り煮ているように見えてしまう。≫

≪貧困を語るとき、なによりもまず節制を保たなければいけないことは、それが抽象物ではなく、個別具体性を伴ったものであるということである。
あらゆる人間の営為は、物質の動きによって表現される。
たとえば、愛。触れ合う唇の湿り具合。絡み合う指の温度。鼓動の響き。肌の触感。あどけない笑顔からこぼれる生えかけの小さな歯。抱いたときの心地よい重み。日向くさい頬に透ける血管。留守電話に残された「お休み、いい夢を」という囁きを反芻するせつなさ。熱で苦しんでいると、ひたとも動かず凝っと見守り、時々冷たい手の肉球を唇や頬にあててくれて鼻先を近づけそっと嘗める猫の潤んだ瞳。
そういうものの積み重ねであり、個別の他者の持つ個別の記憶に支えられている。
たとえば、傷つくということ。直接受ける暴力。ひき倒され、声も出ないほどこわばった喉。皮膚を破って侵入してくる異物。信頼を預けていた人からの思いも掛けない裏切りの発覚。人前での侮辱。確かに視線は私の姿を捉えているのに、微かな筋肉の動きさえ認められない、冷ややかな無視。手酷い失恋。欺瞞。喪失。こびりついて消えない映像。
なにかが誰かに為すこと。すべては、個別の顔を持った他者とのやりとりであり、現象としてたち現れる。
ただ貧困と表象される状態も、その状態におかれていると描写されるところでは、固有の人間たちが、固有の生をそれぞれの場所で生きているのである。
朝目覚め、なにかを口にし、あるいは口に出来ない。排泄し、あるいは必要な栄養分まで消化できないまま垂れ流す。労働する、あるいは、労働の機会を奪われている。寒さや雨風、照りつける熱射を耐え、あるいは耐え得るだけの覆いを持たずに眠る。どのようなものであれ、日常行為を積み重ねつつ、ひとは孤独に死んでゆく。どれだけ統計数字の中に埋葬されようとも、数字を構成する何百万分かの一、何千万かの一は、それぞれの顔を持ち、ものを食べ、服を着、他者と交流し、笑い、怒り、涙を流し、死ぬその瞬間まで生きている何百万かの一なのである。≫

≪五~六十億人のその中で、ホームレス一億数千万人、飢餓状態にいる人八億数千万人、井戸や水道設備が整っておらず安全な水がのめない人十三億人。二千二十五年には、水不足の人口は十八億人、さらに世界人口の三分の二は日常生活に支障をきたす水ストレス下におかれる、という予想がある。絶対的貧困層は、十億人と言われている。生存に必要な最低限の衣食住を確保し得るだけの現金・現物収入を得られない層を絶対的貧困層というが、その中の三分の二は十五歳以下であり、貧困世帯の三分の一は五歳未満で死亡する。世界全体で下痢による脱水症状で一日に約七千人の乳幼児が死亡している。毎日、二万四千人が飢餓や貧困が原因で死亡している、といわれる。これは、三・六秒に一人の割合。
全世界で労働するこどもは約二億数千万人と見積もられている。労働の内容には、農園や鉱山での過酷な肉体労働はもとより、兵士、売春(男女にかかわらず)、ゴミ拾い、もの乞い、掏りやかっぱらいなども含まれる。一日の収入が五十セント(約六十円)未満の人は、一億六千万余。一ドル以下の人は十二億人以上。≫

≪重要なのは抽象化された大問題ではなく、それぞれの個人がいまここに在るということであり、どの個人(たち)と共に立つかということである。sympathy Midleidとは他者の不快や苦しみを共にする、つまり共苦することを根源的に意味している。もとより他者の苦しみや不快そのものを請け負い、理解することは不可能である。
では、いかなる手段において?
わたしはわたしの不快や苦痛を身体を通して感じる。この不快や苦痛がいかなるものかを知ること。ためらい戸惑いつつ、言語化し、すでに記述された言語を分節化し、ときほぐし、異化し撹乱していくこと。
慎ましくも必要とされるのは道徳(モラル)ではなく個人の倫理(エチック)である。正義の軸を設定し神殿に納めそれに拝脆して異教審問の過程で排除項を生み出していくのではなく、不快さを不快であると叫び続けること。システム内に繋留された倫理=道徳から身を引き剥がし、個人の身体感覚から不快を問い続ける倫理(エチック)から想像を他者に投げかけること。
そうしたエロスの投網によって他者の苦痛を新しく見いだす営みを持続させること。
それが知るということである。
他者を理解することはできない。しかし……他者を理解しようとするその試みこそが、人間の営為なのである。≫

≪コイノニア。
分け前にあずかり、共に在ること。交わり。
しかし、このことばの動詞形コイノーは、共有する、という意味のほかに、汚す、汚れるという意味をも含んでいる。
身体をもった人間の、たしかにそれは、物質として在るのだから、他者と交差し、交通し、干渉し、衝突し、そのなかで、変形し、傷つき、汚れ、汚れに塗れ、ほかならぬこのわたしとひとしく、ほかならぬこのものとしてたちあらわれてくる他者の、剥き出しにされた絶対の他者性に凍りつきながら、ときには他者が存在するということそのものの脅迫に後じさりし、ときにはなにをするか理解できるはずもない他者のなにひとつも信頼できないまま、立ち竦み、怯え、あるいは踏み出し、賭けようともし、ただ生きる、呼吸を止めることなく、生きる意志、ここに生の場所を確保すること、そのことは、絶対の他者と共に在ることであり、共に在らねばなしえないことであり、選択し、判断し、行為するなかから、いま、ここに、生きる場所に、それぞれの行為のやりとり、往還運動から、泡立ち、生起してくる、生きる仕方、共に生きる仕方。
分け前。
それは、ほかならぬこのわたしたちの生から、生きようとする意志のなかから、共に生きる仕方から、迸る恩寵、悦ばしさ、なのである。≫

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by daiouika1967 | 2011-06-24 22:53 | 日記  

6月22日(水) 晴のち曇のち雨

今日も蒸し暑い。朝、時間があったので、二時間読書。『前田愛対話集成Ⅱ 都市と文学』(みすず書房)を読み継ぐ。
午後もすこし時間ができた。雑賀恵子『空腹について』(青土社)を読み始める。
夜はアイスノンで頚動脈を冷しながら眠る。飼い猫二匹も、椅子の脚(鉄パイプ製で冷たい)を抱くようにして、頚動脈を冷して寝ていた。
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by daiouika1967 | 2011-06-23 23:10 | 日記  

6月21日(火) 雨のち晴

関東では35度の猛暑だったらしい。世間は節電流行で、暑さに強い体をつくり、できるだけ冷房を控えて夏を乗り切ろう、という風潮。偶々エアコンがない部屋に引っ越して始めての夏。今年は金がなくてエアコンは買えないから、たまたまだが世間の風潮に合わせることになる。いや、エアコンもどうにかすれば買えるのだろうが、冷房に浸ることのない夏を過ごしてみたくもなっている。隣に大きな公園がある一階の部屋だから、暑気がこもってどうしようもない道路沿いのマンションよりは過ごしやすいはずだ。

夜、youtubeでナオミ&ゴローを聴く。布施尚美の柔らかくてウェットな声にやられる。聴きながら、『前田愛対話集成Ⅱ 都市と文学』(みすず書房)を読み始めるが、眠たくて、1時間ほどしか読めなかった。
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by daiouika1967 | 2011-06-23 00:14 | 日記  

6月20日(月) 雨

朝、鬱。しのつく雨で空気が湿っている。蒸し暑い。傘をさして歩くと手が塞がって不自由。鬱陶しい。
恨み僻み嫉みの雲が頭にかかる。すべてのどうでもいいどうしようもないことが降り注ぐ。妄想の傘をさして歩く。音楽が耳に入ってこないのが寂しい。
適当にだましだまし自分の状態に折り合いをつけているうちに、夕方。喫茶店でスーザン・ブラックモア著『「意識」を語る』(山形浩生/守岡桜訳 NTT出版)を読み継ぐ。1時間半没頭。鮮やかな知的高揚で、抑鬱感が晴れた。
夜。佐藤愛子『今は昔のこんなこと』(文春文庫)を読み継ぐ。読了。


スーザン・ブラックモア著『「意識」を語る』(山形浩生/守岡桜訳 NTT出版)
スーザン・ブラックモアによる「意識」をテーマにしたインタビュー集。
インタビュイーはネッド・ブロック、デイヴィッド・チャーマーズ、パトリシア&ポール・チャーチランド、フランシス・クリック、ダニエル・デネット、スーザン・グリーンフィールド、リチャード・グレゴリー、スチュワート・ハメロフ、クリトフ・コッホ、スティーブン・ラバージ、ケヴィン・オレーガン、ロジャー・ペンローズ、ヴィラヤヌル・ラマチャンドラン、ジョン・サール、フランシスコ・ヴァレラ、ダニエル・ウェゲナー。

≪デイヴィッド・チャーマーズ:脳プロセスだけの説明では、どんなものでもそこから意識の存在を導出できない。世界についての物理的な事実をすべて知った人がいても、やっぱり意識のことはわからないと思う。だから脳プロセスと意識体験との関係が還元的なものでないなら、いったい何なの?明らかにかなり密接な相関や結びつきはあるはずだ。意識の科学に必要なのは、その橋渡しを体系化することだ。
これは形而上学的な深い問題を引き起こす。世界には何があるんだろうか?世界の基本的な構成要素とは何だろうか?物理では、これはしょっちゅう起こる。だれも、たとえば時間や空間を、時間や空間よりもっと基本的なもので説明しようとはしない。質量や電荷でも同じだ。結局どこかで、何かを根本的なものとして受け入れることになる。ぼくの見方は、一貫性を持つためには意識についても同じことを言わなきゃいけないってことだ。もし意識についての事実が、すでにぼくたちの持っている根本的な物理的性質-たとえば、時間、空間、質量、電荷とか-から導出できないのであれば、一貫性のあるやり方は「オッケー、だったら意識は還元されるべきものじゃないんだね。還元不可能なんだ。根本的ななんだ。それは世界の基本的あ特性の一つなんだ」と言うことだろう。
だから意識についてやるべきことは、それが世界の根本的な特性だってことを認めて-時間と空間並に還元不可能なものだと認めることなんだ。そしたら、それを統べる法則を見て、主観的体験の一人称データと、三人称的な客観的物理特性との関連性を見ることになる。いずれ、その関連性を支配する根本的な法則群ができるんじゃないかな。物理で見られる単純な根本的な法則と似たような形でね。≫

≪フランシス・クリック:ダニエル・ウェゲナーは、起こっていることのほとんどは意識されていないとうまい説明をしている―在る意味で自由意志は付帯現象だと。そのとおりで、かれの説明は正しいとわたしは思う。有効な現象だ。毎回何が起こっているか正確に教えてはくれないが、物事の起こり方の記録みたいなものは与えてくれる。ダン・でネットは長々とした本を書いて延々と述べ立てたが、ウェゲナーの方がはるかに的を得ていると思う。≫

≪ダニエル・デネット:人は、自分が実際よりはるかに意識的だと思っている。そして、意識が実際には持っていないような性質さえ持っていると思いがちだ。もしそういう性質を意識が持っているなら、ありゃりゃ困ったぞ、意識を説明するのはずっとむずかしくなっちゃうんだ。だからまずやるべきことは、この現象をしぼませて、それが思ったほどとんでもなくすごいもんじゃない―とてつもなく謎めいたもんじゃない―というのを理解することだ。そうなれば、なんというか手なずけられる。そうなったら説明できる。≫

≪リチャード・グレゴリー:さて、思うに人は今の瞬間を生きなければならない。人は死なずに道を横切らなきゃいかんわけです。だから信号が今この瞬間に赤か青かというのはほんとに大切なんですが、知覚の処理は時間軸に広がっている。ではあなたは今現在の瞬間をどう見つけましょうか?それは意識によって標識づけまたはフラグ立てされとるんだ、というのがわたしの提案です。クオリアの驚くべき鮮やかな感覚が得られるのは、つねに今の瞬間に当てはまることなんです。≫

≪スチュワート・ハメロフ:基本的には、クオリアや意識体験には二種類あると思います。一つは創発です。つまり、脳はいろいろ複雑な情報処理をするので、その複雑性の中から新しい性質がもっと高次で出現するというもの。(中略)
もう一つの見方は、意識、または何か原意識のようなものが、宇宙にとって根本的な存在なんだというものです。それはスピンとか質量とか電荷と同じように、現実の一部なんです。つまり物理学にはいくつかの還元不能なものがあって、それはとにかく「あれはそこにあるんです」と言うしかない。意識もそういうものなんです。≫
≪心臓停止、あるいは死などで微小管の量子コヒーレンスが失われると、頭の中のプランクスケールの量子情報も、宇宙のプランクスケール全体に放出され、漏れ出します。存命中に意識や無意識を構成していた量子情報は完全には放出されませんが、それが残るのは量子からみあいのためです。
量子重ね合わせ状態にとどまり、量子的な状態還元や収縮を起さないので、無意識のような、夢のような状態になっています。そしてプランクスケールでの宇宙は非局所的なので、それはホログラフ的に永遠に存在し続けます。
これは魂かって?そうかもしれませんよ。≫

≪スティーブン・ラバージ:アイデンティティというのが、雪の結晶の違いのようなものだということを実感すること。われわれが個々の雪つぶで、個別の結晶形態を持っているとします。もちろん雪つぶごとに違いはあります。構造が違っていますから。そしてここで、その一粒が海に落ちようとしています。雪粒は何を恐れるでしょうか?「自分は消滅しようとしている、自分は消滅する、消え去って、無になる」と思うかもしれない。でも実際に起こるのはひょっとしたら―そしてこれは、死や悟りのメタファーです―無限の拡張かもしれない。自分がただの凍った水の一粒ではなく、自分が水そのものであるということを思い出すのかもしれない。だからこの本質のメタファーは、別のレベルでは、形態と同時に存在しているんです。区別は消えるわけじゃない。ただそれは単なる形態でしかない。本質は統一性なんです。≫

≪ヴィラヤヌル・ラマチャンドラン:下等動物―下等動物と言うべきではないですね、一般の動物、人間を除く高等霊長類でさえ持っているのは―むき出しの背景認識だけ。ただメタ知覚という特別なものが備わっていないのです。
さて、これは粗っぽく言うと寄生性の脳みたいなもので、「第一」脳の出力を入力として使っています。別の言い方をするなら最初に情報処理があり、後索系のおこなうさまざまな自律運動の類があって、それから進化の過程のどこかで表象の表象がほかの目的のために作られた。問題はほかの目的とは何か、ということです。
冗長ではないかと言われるかもしれません。なぜ表象のこれまた表象を作るのか?その答は、それが冗長ではないということです。新たな計算上の必要を満たすためにそうしているのです。頭の中のオープンエンドな符号処理。これをわたしたちは思考と呼んでいます―これらの符号をやりくりして、想像でできた風変わりな予想を出すこと。そこに深く結びついているのが言葉の発生です―こういった発想、意図、思考を他人に伝達できること、そして他人の心の理論を構築すること。これらすべてが進化の過程でほぼ同時に起こったのですが、それが類人猿の心の飛躍的進歩だったのです。≫

≪ね、おかしな問題ですよ。自分が知っていると知らなくちゃ、知ることはできないわけですから。これが一番重要なところです。だから知っていると知っている、あるいは赤を見ていると知っている自己感が必要なのです。
でもこれは無限後退ではありません。「あなたはわたしがあなたの奥さんと浮気していると知っているのを知っていますね」とは言えても「わたしが知っているとあなたが知っているとわたしが知っていることをあなたが知っていると私は知っています」というと山びこのようで話の筋がわからなくなってきます。脳が処理できる手続きは自己感に適切な数に限られているのです。だからこれは無限後退ではなく別の脳構造で、小人などいないのです。≫

≪すべてを預かる超越者ではないと考え出すと「ああどうしよう、死んだらもういなくなってしまうだ」と言って、死ぬのがこわくなる。でも宇宙の盛衰の一部だと思えば、この世を観察するやがて消されてしまう孤立したちっぽけな魂などないと思える。≫

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by daiouika1967 | 2011-06-21 22:14 | 日記