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11月1日(土) 晴

午前中。妻は病院へ。おれはパソコンの前で仕事をする。
午後、家を出て、名駅へ。カフカ『城』(池内紀訳 白水社)の続きを読む。450ページ、読了。

カフカの小説を読むことは、統合失調症になるレッスンをしているようなものなのだ、と思う。
カフカの小説の世界では、風景も、人物も、自分自身すら、一貫した性格をもたず、世界は輪郭を失い、流動化し、文章は、その流れの感触だけをリアルに描き出していく。風景や人物は、不意に現れ、気づくと変貌を遂げており、しかし、それが夢のように強度のリアリティを保ちつづける。

とりあえず、カフカの長編三部を読んだので、来週は、短編とノートを読み、つづいて、残雪のカフカ論にとりかかろうと思う。ベンヤミン、アドルノがあらためて読みたくなる。さらに、フロイト、ラカンも。ブランショ、ドゥルーズ=ガタリのカフカ論も、もういちど読み直してみよう。

夜は、テレビを眺めたり、ぼんやりして過ごす。
夜中の2時過ぎ、ベッドの中で、水木しげる『猫楠』(角川ソフィア文庫)を読んだ。南方熊楠を主人公にした伝奇マンガ。南方熊楠もまた、統合失調症的な知性を生きた人である。
熊楠は「脳力が上がると、生死の境界を超える高次元を感知できるようになり、幽霊と出会うこともできる」という意味のことを言っている。これは比喩ではなく、熊楠にとっての実感であり、熊楠はこうした現実を生きていたのである。
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by daiouika1967 | 2008-11-02 12:26 | 日記  

10月31日(金) 曇

今日は月末。月末は、いつも、数社のホームページの更新作業、レポートの作成作業などがあって、すべてルーティンの仕事ではあるのだが、さくさく消化しないといつまで経っても終わらない。

仕事には、夕方から取り掛かることにして、まずは図書館へ。
図書館のソファーに深くもたれて、一時間くらい、泥のような眠りをむさぼり、ぼうっとする頭のまま、いよいよカフカ『城』(池内紀訳 白水社)を読み始めた。
『失踪者』『審判』はわりとはっきり筋を覚えていたが、『城』は、ほとんどまったく覚えていなかった。たぶん、何度読んでも筋は覚えられないような気もする。それくらいディティールが“強い”。250ページほど読み進んだ。
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by daiouika1967 | 2008-11-01 20:43 | 日記  

10月28日(火) 晴

午前中から午後にかけて、カフカ『審判』(池内紀訳 白水社)を読んだ。

夕方、<三省堂>で前から読もうと思っていた松岡正剛『誰も知らない世界と日本のまちがい ―自由と国家と資本主義』(春秋社)を買う。
夕方から、夜にかけて、ずっと読み耽った。380ページまで読み進んだ。

《カフカが描いたことは、「世界とのかかわり」は説明できないということです。「世界の枠組み」なんてあやしいもんだということです。
また、自分のことも説明できないという状景を書いている。そこにはなんらかの「変化」はあるけれど、それが社会的な意味をもつとはかぎらない。自分の実存はあるけれど、それしかないということです。》


第一次大戦後のドイツで、文学においては、カフカやトーマス・マン、ブレヒトらが表現し、哲学・思想においては、フロイトやハイデガー、アドルノを初めとするフランクフルト学派が表現した、ひとつの思考形態がある。
《第一に、近代社会は人間の「心理」という領域を侵していたということです。
第二に、しかし、人間は世界の全体を理解したり了解したりしきれないんではないかということです。それならむしろ、世界を理解しきれない「存在」や「実存」という視点から出発して、さまざまな「現象」に向かうべきだろうということです。
第三に、このようなことを確認する方法は、哲学でも文学でも美術でも音楽でも可能だろうということです。けれども、その表現は、従来の芸術を一変してしまうような様相になる可能性がある。それがカフカやブレヒトの表現になったということですね。
第四に、世界も社会も自分も、安易な「中心」をもつべきではないということです。いったん中心から離れてみてはどうかという提案です。グレゴール・ザムザは悲しい姿にはなりましたが、それによって家庭や社会の中心から「脱自」することができたんです。
第五に、存在や意識を見つめるためには、そこにまつわる夾雑物を捨てなさいということですね。存在が当初からまとうつもりもなかったものが、たくさんくっついているからです。しかし、そういうシャツを脱ぐには、そもそも空間や時間のなかに挟まれている自分というものを、その自分の場からはずしてかからないと、何も始まらないということでした。》


文学、思想、美術、音楽といった表現のジャンルを横断して、ある強力な思考形態、思考を促す磁場が働いている。
もっとも、同時代において、この磁場にあくまでも鈍感な表現も数多くあったに違いない。
あるいは、こうした思考の磁場に鈍感な表現の方が、量としては多かったのかもしれない。
現代産出される様々な表現においても、時代の現実に開かれた、それに触れることで思考の磁場に誘われるタイプの表現と、そうした磁場に鈍感な、むしろ思考の広がりを封殺するようなタイプの表現とがあるように思う。
そして量としては、圧倒的に、後者のタイプの表現が多く、優れた表現は少数でしかない。
例えば、文学においても、まるでカフカやカミュなど存在しなかったかのように書かれている作品が、いかに多いことだろう。

今日は終日読書だった。
夜、ワインを一本、風呂に入れて、ワイン風呂に入った。けっこう高級なワインで、もったいない気もしたが、どうせ飲まないのだから、取っておいても冷蔵庫の場所塞がりになるだけなのだ。
強烈な酒の匂いが立ち込める浴室で、ゆったりと浴槽に浸かる。浴後、肌がテカテカになっていた。
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by daiouika1967 | 2008-10-29 09:34 | 日記  

10月25日(土) 曇

午前中、カフカ『失踪者』(池内紀訳 白水社)の残り半分を、ようやく読む。
カフカの魅力のひとつに、ほとんど背景の一部分として書かれているような、その場限りの登場人物にも、奇妙なくらいのリアリティが備わっている、ということがあるように思う。精密な描写がされているわけではなく、ある意味類型的な像が描かれているだけのようにも思えるのに、不思議である。
それから、世界が、どうしようもない力に支配された場所であり、個々人の意志がそのまま通ることは決してないのだ、という感触(こういうのを「不条理感覚」と呼べばいいのだろうか)。……

午後、<ジュンク堂>で、細野晴臣・鎌田東二『神楽感覚 ―環太平洋モンゴリドユニットの音楽世界』(作品社)、カフカ『審判』『城』(池内紀訳 白水社)を買う。
図書館、伏見の喫茶店と歩いて、『神楽感覚』を読んだ。対談の冒頭で、細野晴臣の原風景ならぬ“原音景”とでも言うべき、音楽体験のことが書かれている。二箇所、抜粋する。
《終戦直後っていう感じですから、東京も焼け跡があったんでしょうね。家が少なかったわけです。ぼくが子どもの頃は車が三十分に一度通るか通らないかって静けさの中で暮らしてました。ですから、夜寝ていると目黒駅から電車の音が聴こえてくるんです。当時ぼくの祖母なんかは省線っていってたんですけど。その音がなかなか良かった。それがぼくの音楽体験の原型なんです。》
《ぼくの祖父というのはピアノの調律をやっていたんです。組織の属さず独立してやっていたので、家にごろごろピアノの古いのが運ばれてきては一日じゅう調律をやっていて、それがまたいい音で。(中略)しかも隣が材木工場だったんです。ドリルの音のキーンという音が一日じゅう鳴っている中に、ピアノの音が聴こえてくるという。僕の音楽の原型っていうのはそういうものです。》

遠い木霊のような電車の音。機械的なノイズのなかに浮かんでは消える断片的な旋律。
鎌田東二が、この話を受けて、「カオスとコスモスが同居しているような世界」と言い、細野晴臣の音楽世界そのものですね、と感想を言っている。
おれの幼時の体験にも、同じような体験がある。
幼い頃、寝ていると、ときどき、遠い電車の警笛のような音が聴こえることがあった。じっさいに聴こえていたのか、幻聴なのかも、もうよく分からない。布団の中でその音が聴こえると、ひどく寂しいような気持ちになったことは、はっきり覚えている。しかし、ただ寂しいだけではなく、その気持ちの中には、なにか甘い懐かしさのようなものもかすかに混じっていた。
それから、おれの実家の隣りが印刷工場で、その工場に窓一枚で面していた部屋に行くと、印刷機の回るカシュッカシュッという音が、常に聴こえてきて、その音を聞きながら、よくうつらうつら昼寝していた。曇り窓から午後の気だるい陽光がさしこんでくる、その明るさをよく覚えている。
おれは、YMOの『テクノデリック』というアルバムが大好きで、何百回か、もしかすると千回くらいはくりかえし聴いているかもしれない。このアルバムの最後に収録されている「プロローグ~エピローグ」という曲があるのだが、この曲にサンプリングされている機械音が、おれの“原音景”の音に似ているのだ。それで、聴くたびに、どうしようもない郷愁が喚起されるのである。

『神楽感覚』には、付録でDVDが付いていた。環太平洋モンゴロイドユニットの演奏を収めたDVDである。夜、12時頃から、ソファーに座って、観ていたら、すごく気持ちが良くなって、そのままソファーで眠ってしまった。
2時頃、はっと目が覚め、ベッドに入った。
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by daiouika1967 | 2008-10-27 00:35 | 日記  

10月22日(水) 曇

昼、平出隆『遊歩のグラフィスム』(岩波書店)の残り半分を読む。読了。
「遊歩」というテーマに沿って、河原温、正岡子規、川崎長太郎に付きつつ、ベンヤミン、バシュラールなどのことばを援用しつつ、吉行淳之介、澁澤龍彦も登場し、このエッセイ自体が「遊歩的」に書き進められていて、最後まで「拡散的な集中力」を喚起させられ、まったく飽きない。

仕事で人と会う。いまどき金のローレックスをギラギラさせて、見るからに田舎のヤクザだが、れっきとした悪徳弁護士である。久しぶりに会うと、彼も、悪人特有のエッジ感が薄れ、人のいい田舎の成金やくざといった風情をしている。昔、この悪徳弁護士の傘下で悪事を働いていた小悪党だったおれも、いまやすっかり日々の平穏をだらだらむさぼる中年太りのおっさんである。
いっしょに悪事を働いていた頃、ある小さな宗教団体を潰すという仕事をやったことがある。こうした仕事は、いろいろと面倒な後処理があって、それをいまだに引きずっているのである。仕事の話といっても、その後処理についての打ち合わせで、これから金になる話ではない。彼は弁護士だけあって、仕事は終わるまできっちりと遂行する。おれは、もう金にならないとなると、普段にもまして適当になるので、話していてもものすごく温度差がある。

午後、石川ひとみを聴きながら、<ジュンク堂>まで歩いて、カフカ『失踪者』(池内紀訳 白水社)を買う。
カフカは大学の頃、全集を読んでいるので、すべての文章を読んでいるはずなのだが、読み出してみると、やはりまったく覚えていない。
しかし、それにしても、おもしろい。大学生の頃のおれは、このおもしろさを、どれだけ味わえていたのだろうか。それでも全集を読破しているから、強く惹かれるものはあったのだろうが。
200ページほど読み進んで、夕方。家路を歩く。

夜。木田元『反哲学史』(講談社学術文庫)を読み始める。80ページまで読み進んだ。
12時にはベッドに入る。うつらうつらしながら、なかなか寝付けず、寝返りばかり。
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by daiouika1967 | 2008-10-23 21:41 | 日記