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7月1日(金) 晴

夕方1時間、喫茶店で、中原昌也『死んでも何も残さない ―中原昌也自伝』(新潮社)を読む。
中原昌也の文章を読むといつも元気になる。現在が「絶望的な状況」であるという晴れ晴れしい認識に、血が熱くなる。
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by daiouika1967 | 2011-07-03 09:08 | 日記  

11.21 土 曇

■今日は喫茶店で、本を読みながら、ひたすら昨日買った音楽を聴く。コシミハルは、今聴いても、やはりいい。富岡多惠子『隠者はめぐる』(岩波書店)を読む。本居宣長、契沖、橘曙覧、淡島寒月、折口信夫、鴨長明、西行らをめぐって、彼ら「隠者」の、俗世との交通を含めて、その人となり、在りように近づいていく。
読みながら、ある人を知る、とはどのようなことなのか、その人のことを知りたいと欲するとはどういうことなのか、考える。
その人の言動を追う。その人の周り、家族や人脈をめぐる。その人が生きた時代を知る。そうして、その人の気配が起ち上がるのを待つ。
気配。もはやいないその人の、その不在を感じとる、ということである。

■<ジュンク堂>に行くと、中原昌也『12枚のアルバム』(boid)が出ていた。
中原昌也がゲストを呼び、それぞれ一枚のレコードを持ち寄って、そのレコードについて対話するというイベントがあったようなのだが、その記録をまとめた本である。
さっそく買って三分の二くらい読む。対話で出てくる固有名詞はほとんど知らないのだが、それでもおもしろく、中毒性がある。

■<ブックオフ>で、青木淳悟『このあいだ東京でね』(新潮社)、玄侑宗久『アミターバ -無量光明』(新潮文庫)、山口猛編『松田勇作、語る』(ちくま文庫)を買う。
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by daiouika1967 | 2009-11-22 23:26 | 日記  

6月7日(土) 曇、夜になって雨

10時過ぎまで、たっぷり眠る。眠りすぎて眠いような朝。
11時頃、家を出て、<三省堂>で、高橋源一郎・山田詠美『顰蹙文学カフェ』(講談社)、町田康『破滅の石だたみ』(角川春樹事務所)が出ているのを見つけ、買う。
喫茶店で、さっそく『顰蹙文学カフェ』を読み始める。高橋源一郎と山田詠美がホスト役で、毎回がひとりずつゲストが招かれ(ゲストは、島田雅彦、中原昌也、車谷長吉、古井由吉、瀬戸内寂聴の5人)、「文学」談義が展開されている。
3時からK君と待ち合わせ、クライアントの会社に向かい、打ち合わせをひとつ済ませる。2時間話す。なあなあになっている担当者なので、話の半分くらいは無駄なおしゃべりになる。
夕飯は、妻が拵えたチキンライス。美味い。
夜は、『破滅の石だたみ』を半分くらい読んでから、妻とWiiマリオカートで遊んだ。まだコントローラーが思うように制御できない。夜、夢を見た。車を運転しているのだが、ハンドルがうまく使えず車が制御できない。ああっと思っているうちに、池に落ちたりするのだが、不思議と次の場面では再びその車を運転していて、でもやっぱりうまく運転できずに、今度は畑につっこんだりする。という、ものすごくわかりやすい悪夢である。ゲーム体験が身体に与える影響は侮れないなぁと思う。

●文学者は世間にも文壇にも「顰蹙」を買うくらいじゃなきゃいけない、
いや、そもそももはや文学などというものをやっていること自体が、世間的には顰蹙ものになってるんじゃないのか、
顰蹙を買うほどに、「若者・ばか者・よそ者」(©田中康夫)、
つまり、存在しているだけで我々を取り巻く現実を異化してしまうようなはぐれ者こそが、
本質的な文士であり、
「文学」はそうした文士の書く言葉のなかに継承されているはずであり、
またそうした文士の佇まい(それは、「ダサくてかっこわるい」姿だろう)に顕現しているはずである、
というのが、この本での高橋源一郎と山田詠美の間のコンセンサスになっているようだ。

中原昌也がゲストの回で、
中原昌也はあいかわらず「小説なんか書きたくない」という話を語っていて、
ホストのふたりが「でもべつにやりたくなきゃやらなくていいわけだから、そんなこといいながらほんとうは小説書きたいんでしょう?」と、
誰もがそう思うだろうというツッコミを入れ、その攻防(?)が執拗につづけられるのだが、
そのなかで、中原昌也が言っていたことに、なるほどな、と腑に落ちるところがあった。
《とにかくこういうことなんですよ。物を書いている自分は、自分が好きじゃない自分なんですよ。徹底して自分が好きじゃない自分に落ちないとできないっていう……。》
これは、「徹底して自分が好きじゃない自分に落ち」た、その“最底辺”でようやく小説が書ける、ということが言われているのであって、
だから、中原昌也は、“小説を書くために”その“最底辺”まで自ら落ちていきながら、
しかし、そんなことをしなきゃならない自分の境遇に、じっさいにほんとうに腹を立てているのである。
ただ、しかし、「そんなことしなきゃならない」のは、中原昌也が訴えるように、「手に職も無いし小説を書くことくらいしか身を立てる術がない」という「境遇」の問題ではなく、
やはり彼が本質的な文士であるという、その「業の深さ」の問題なんじゃないか。
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by daiouika1967 | 2008-06-08 18:11 | 日記  

4月10日(水) 雨、降ったり止んだり

4月9日(水) 雨、降ったり止んだり

とりあえずいつものように昼前に家を出た。今日は何も予定がない。
歩きながら坂本龍一『音楽図鑑』を聴いた。1984年発売。当時何百回聴きかえしたか知れない。超名盤。最近CDで買いなおした。十何年ぶりに聴いても、すべての楽曲のディティールに至るまで、はっきり覚えている。しかし、それでも聴き飽きない。とてもいい。
行くあてもなかったので、まず<ジュンク堂>に向かった。『中原昌也 作業日誌 2004→2007』(boid)が出ているのを見つけた。中原昌也の3年半分の日記。さっそく手に取る。
ついで鶴ヶ谷真一『月光に書を読む』(平凡社)を発見。この人のエッセイは、以前に『書を読んで羊を失う』を読んだことがある。素敵な余韻の残る味わい深い文章だった。そして、この人の本はいつも、タイトル、装丁のセンスがいい。
2冊購入して、大名古屋ビル地下の<アルアビス>に行き、昼飯にカジキフライを挟んだパニーニを食べながら、『中原昌也 作業日誌 2004→2007』を読み始めた。レコード、CD、DVDを買う、聴く、観る、映画の試写に行く、観る、イベントに行く、友人たちと呑む、金がなくなる、文章を書きたくない、部屋に籠もって鬱々と過ごす、……というくりかえし。中毒性のある日記で、読んでいるとあっという間に時間が過ぎる。
読みながら聴いていたのは、これも最近買い直したPROPAGANDA『OUTSIDE WORLD』。トレバー・ホーンのZTTレーベルのなかでもPROPAGANDAは当時から一番好きだった。ベタなロマンティシズムにぐっときたのだろう。久しぶりに聴いてみて、やはり満たされるものがある。80年代回顧というだけではなく。

午後。栄まで歩き、<バナナレコード>で、WIRE『Live at The Roxy,London-April 1st &2nd 1977』(WIREの2枚組ライブアルバム)、Sylvian/Fripp『damege』(デビッド・シルビアンとロバート・フリップのライブアルバム)、『THE POST PUNK SINGLES vol.3』(THE POP GROUP、PIL、DIE KRUPPS、THE SLITS、SWANS、EDDIE MAELOV & SUNSHINE PATTESONらのコンピレーション)の3枚を購入した。
曇った空の下、傘をさしたりとじたりしながら、電気グルーヴの8年ぶりのニューアルバム『J-POP』を聴いて歩いた。サンプリングがほとんど使われていない、アナログシンセのシンプルでソリッドなテクノポップ。懐かしいような、でも確実に“いま”の、とても気持ちがいい音だ。
夕方。駅西の<69>で、細野晴臣のクラウン時代のCDBOX、『HARRY HOSONO CROWN YEARS 1974-1977』が落ちているのを見つけた。クラウン時代の2枚のアルバム、『トロピカルダンディ』『泰安洋行』に加え、1976年5月8日に行われたハリー細野&Tin Pan Alleyの中華街レストランでのライブ、それから当時の映像を集めたDVDの4枚組CDBOXだ。買おう買おうと思いつつ躊躇していたものだったので、迷わず手に取った。

夜。昨日録画しておいた「K-1 MAX」を観ながら、最近妻が買った足踏みマシーンをやった。10分も踏むと、太腿の筋肉が張って、全身暑くなってくる。腹筋、腕立てもやった。
なかなか眠たくならない。今日録画しておいた「アメトーク」を見て、3時過ぎに就寝した。
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by daiouika1967 | 2008-04-11 11:54 | 日記  

3月15日(土) 晴

9時過ぎ、起床。パンを齧り、インスタントスープを飲む。10時過ぎ、家を出た。
郵便局に行き、確定申告の用紙を区役所宛てに送り、銀行に行き、カードの支払い15万円をおろした。
大名古屋ビル地下の<アルアビス>で、コーヒーを飲みながら、『新潮』4月号から、山田詠美×島田雅彦、保坂和志×岡田利規の対談を読んだ。保坂×岡田の対談はおもしろかった。
―「岡田:僕の芝居では、ある話題について、自分のことではなく、誰々さんの出来事として伝聞で話すということをよくやります。つまり、舞台上のAが舞台上のBに向かって話す内容が自分(A)のことではなく、第三者(C)のことである―すなわち、役者Aは『役者Aを演ずる』のではなく、『役者Cを演ずる役者Aを演ずる』というような状況です。これはブレヒトの手法で、簡単に言うと『自分に与えられたセリフの最後に、『……と、彼(彼女)は言った』と心の中で言う』というものなのですが、実際に試してみるとすごく使える。でも、最初は、その位客観的に演じる方がうまく見える、としか思っていませんでした。それが、リハーサルを重ねていくうちに、同じ内容を話しても、主格を『彼女』にする場合と『私』とした場合では、『彼女は……』と話す方が、その対象となる人物に迫真できることに気づきました。俳優にとっては、『彼女』のこととして話す時よりも『私』のこととして話す方が、よりその人物を自分に近づけなければならないように感じると思うのですが、実際には『彼女』として想定した距離よりも近い距離というのは、存在しないんじゃないかと最近は思っています。『彼女』として話した距離と同じ距離で『私』を扱う」。
虚構の登場人物を、俳優―作者は、どんな距離で捉えるのが適切なのか―「実際には『彼女』として想定した距離よりも近い距離というのは、存在しないんじゃないか」―つまり、自分も含めて第三者として見る視点が必要だということ、そして、「彼」や「彼女」もまた「第三者としての自分」と同じ平面で捉えることのできる距離感覚が必要となる。

昼過ぎ、<ジュンク堂>へ。ジュヌヴィエーヴ・ブリザック『フラナリー・オコナー 楽園からの追放』(香川由利子訳 筑摩書房)、中原昌也『ニートピア2010』(文芸春秋)を買った。
喫茶店で、ジュヌヴィエーヴ・ブリザック『フラナリー・オコナー 楽園からの追放』から読み始める。今日は寝不足なのか、やたらと眠たい。読んでいる途中二度、眼を瞑り、15分程度の仮眠をとった。眠気を堪えて読んでいたせいか、なかなか文章のリズムにのることができなかった。
フラナリー・オコナーの小説は、まだひとつも読んだことがない。しかし、読めばおそらくのめりこむだろう、という直観がある。その直観がどこから来たのかは覚えていないが、たぶん、誰かの文章に彼女の言葉の断片が引用されているのに触れて、ビッときたのだろう。
―「作家は何も理解する必要はないし、そもそも、異常な感情より普通の感情のほうがよく理解できるなどということはない、と彼女は説明している。それに自分には鋭敏さもなければ記憶力もない、と彼女はすぐに自慢する。
感情というものを表現するのに、その感情を感じる必要はありません。見つめるだけでいいのです。それはその感情を理解するということではありません。言い換えれば、自分が理解できないということを理解することなのです」。
―「『小説における現実は明晰で神秘的なものでなければならない。』
『芸術には、内面と外面という二つの世界が微妙に組み合わさる必要がある。二つの世界が、互いを通してありのままに透けて見えるように。』

以上がオコナー的幾何学の二原則だ」。
―「私たち南部のカトリック信者に言わせれば、間違いはすべてを人間の規模に還元してしまうことにあります、と彼女は説明する。なぜならば、そうすることによって人は、すべてを還元しようとするこの人間という感覚そのものを、次第に失っていくからです。私たちにとって、人間は堕落しているのです。自由主義者の目から見れば、人間は堕落したことなどなく、原罪も犯したこともないから、ひとりで切り抜けられるのです。こうした観点から見ると、悪は住宅や、衛生や、健康の問題に限定され、いつかすべての神秘が消えてしまうでしょう。最後の審判はもはや存在理由を持たなくなります。人間には責任はないのだから。もちろん微妙な違いはあるにしても、現代社会が進み始めているのはこの方向なのです。
懐疑的態度と、不条理と、自由主義的不信仰の支配する世界で書いている、というこの確信は、オコナーの二つの前提の基盤となっている。
こういう状況なので、いっそう強く叫ばなければならないし、特徴を強調して、歪曲し、誇張しなければならないのだ。

洗礼が筋の山場となる小説を書くとき、私は大半の読者にとってはそれが無意味な儀式であると強く意識しているので、読者が感動に揺すぶられ、洗礼に意義を見出さなければならなくなるほどに、苦悩と神秘にあふれたものとなるように気を配らなければならないのです。歪曲は手段であり、誇張は意図されたものだ。誇張は真理を啓示する」。

今日は、7時から、接待がある。栄で待ち合わせをしているので、栄のどこかの喫茶店で、本を読み継ごうと決める。栄まで歩いた。そういえば今日は土曜日で、栄の街は平日よりずっと人出が多かった。空いている喫茶店を捜してしばらく彷徨い、<オアシス>の公園でベンチに座って、しばらくぼうっとした。もうすっかり春めいた陽気ではあるものの、じっと座っているとまだすこしだけ寒い。30分も座っていると体もすっかり冷えてしまった。立ち上がって、<中日ビル>に入っている喫茶店<サンモリッツ>で時間を潰すことにする。
ショートケーキと紅茶を頼んで、中原昌也『ニートピア2010』を読み始めた。
読んでいると、ノイズミュージックを聴いているかのような、過剰な圧がかかってくる。例えば、「誰が見ても人でなし」という短編に、
―「ヘアスタイルは人目につくタイプのものが好まれる/怒声とともに破損された街灯の放置/緊急事態につき自宅の表札を外すよう警告/必死に旗を振る無駄/人生成功の機会永遠に与えられず/飼い猫を白い壁に叩きつける業務/便所の大々的偽装工事/誰の関心も引かぬ手書きの死亡記事/高速道路の中央分離帯に長時間潜む女/陰気な公共建設物の無人落成式/歴史上の偉人らが陽気に復活して通行人から軽蔑の眼差し/繁華街での強制脱糞/死体を使った嫌がらせパレード/自殺者急増地帯拡大の見通し/流行室内装飾が身体に悪影響/性器にカラフルな電飾取り付け手術代行/近隣雑木林が主なペットの墓場/深夜に恐慌状態の盲学校/顔面を傷つけるタオルの絵柄に採用/公園での性犯罪オリンピック開催/……」とこんな文章が延々とつづくくだりがある。この調子が5ページにわたって続いていくのである。
あまり長時間は読み続けられないが、しかし、読んでいると止められくなるような中毒性もある。
245ページまで読み進んだところで、7時になった。

K君とクライアントの3人で、久屋大通にある、ちょっとオシャレ目の居酒屋へ向かった。クライアントはちょっとオタクっぽい、おとなしい人である。このメンバーだと、おれが話題を切り回す役柄になる。その役柄を、適当にそつなくこなし、10時過ぎに解散した。
11時過ぎ、帰宅した。テレビを眺め、Pと遊んで、1時過ぎ、就寝。
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by daiouika1967 | 2008-03-17 09:50 | 日記