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2010_05_22 土

今日の名古屋は晴れのち曇り。朝は晴れてたけど、午後から曇って、湿気のある風が吹き始めた。明日は雨になるようだ。夜になって、ますます湿気が高くなってきた。
結婚してから、連れ合いが、しきりに「名古屋の夏は不快で消耗する」と愚痴る。たしかに彼女が住んでいた早稲田のマンションは、夏でも乾いた風が吹き渡り、気持ちのいい部屋だった。
あの部屋に通っていた夏が懐かしい。



今日は一日音楽を聴きながら街をぶらついていた。何十年もずっとそんなふうだけど、ここ数ヶ月はおれにしては忙しく仕事をしている。
仕事をこなしながら、次の仕事の企画を考えていて、考えるのにはキリがないから、むりやり「時間を割って」、自分を仕事から切り離さないと身がもたない。
おれはヒステリー体質のようで、疲れが溜まると、すぐに症状となって身体に出る。だから、無理はきかないけれど、決定的に病むこともない。



ベランダのプランターへの水遣り。朝飯に、キャベツと胡瓜のサラダをボール一杯、おからを茶碗一杯。連れ合いは朝から病院に行った。このところ毎日通っている。妊娠しようとしているらしい。来週のどこかでおれも病院に行き、精子を提出しなければならないらしい。



食後、家を出て、名駅の喫茶店へ向かう。アイスコーヒーを頼んで、昨日三省堂で見つけた原武史編『明示学院大学国際学部付属研究所公開セミナー2 「知」の現場から』(河出書房新社)を読んだ。
明治学院大学で行なわれた一年分のトークライブの記録だが、とくにはっきりしたテーマがあるわけではないようで、参加者も、高橋源一郎、内田樹、島薗進、川上弘美、青山七恵、酒井順子、斎藤環、福岡伸一、姜尚中、坪内祐三と特に思想的、分野的な傾向もなく、ただおれの好奇心をそそるメンバーではある。

内田樹、川上弘美、青山七恵が、それぞれ「どのように“書き始める”に至ったのか」というテーマをめぐって話していた。

内田樹は、自分の好奇心のあり方をして、とてつもなく「広く浅い」のだと言う。あるとき、その「独特の広さと浅さ」は、自分の個性だと思うようになったのだそうだ。
≪これだけ薄いと、わずかな記憶の断片をなめるように玩味するようになるわけですよ。たとえば、小学校の何年生のときにこんなマンガを読んだとかいう記憶がみなさんにもあると思います。そのことについて、たいていの人は、「このマンガを読みました」って言っておしまいだと思うんです。けれど僕は、どういう状況で、どんな気分であのマンガを読んで、そのときに自分が何を考えていたのか、そのマンガを読むことを通じて自分はどんな社会的能力を育んだだろうかと考えだす。友だちのうす暗い物置で、『少年』を、友だちのお母さんに「あんた帰んなさい」って言われても読み続けたということを思い出して、なんで自分はあんなに必死になって『少年』を読んでいたのかしら、と考える。「子どもはマンガを好きだから」という単純な理由だけでは納得しない。「いやいや、もっと他にも理由があるんじゃないかな」って考えだす。そういうわずかな断片的記憶からいろんなものがずるずるずるずる出てくるわけ。コアになるような、きっかけになるような記憶の断片がそこらじゅうに転がっていて、生まれてからこれまでに溜まったそういう記憶の薄片をなめていると、蚕が糸をはくようにそこから想念がずるずると出てくる。≫

川上弘美は、小説が書きたくても書けなかった時期、「普通の生活をしていたのが(小説を書けるようになるために)大きかった」と話していた。普通の生活をすることで、わけのわからない澱のようなものが溜まる。その澱のようなものが溜まらないと、小説は書けなかっただろう。



昼飯は最近気に入っている名駅地下の定食屋で日替わり定食。コロッケと白身魚フライと肉団子、あさりの味噌汁。ごく普通の日替わり定食なのだが、味噌汁とご飯がしっかり美味しい。最近は、こういう普通の定食屋も少なくなり、普通ということが贅沢に感じられる。



午後は亀島のアジトに行く。幼馴染の悪友達何人かと家賃を出し合って借りている事務所だ。土曜はいつも誰もいない。雨風が窓からそよいでくる。本を読み継ぎ、すこし昼寝する。



夕方、ジュンク堂に行き、坂本龍一×中沢新一『縄文巡礼聖地』(木楽舎)が出ているのを見つける。アラン・リクト『サウンド・アート -音楽の向こう側、耳と目の間』(フィルムアート社)と2冊買った。
中古レコード屋の69にも寄った。ザ・シー・アンド・ケイク『カー・アラーム』、トータス・アンド・ボニー・プリンス・ビリー『ザ・ブレイブ・アンド・ザ・ボールド』とジョン・マッケンタイア関係2枚と、スリーピー・ジョン・エスティス+ハミー・ニクソン+憂歌団『ブルース・イズ・ア・ライヴ』を買う。



本陣のマクドナルドまで歩いて、夜飯はクォーターパウダーチーズ、ポテト、コカ・コーラゼロのセット。ガラガラの店内でモソモソ食べながら、『縄文聖地巡礼』を読んだ。

中沢新一≪いまのシステムを解明するだけじゃなくて、システムが生まれた瞬間をつかまえるという方法。これをもっと柔軟につくりかえて、いろんなところで実践していく必要があると思うんです。≫

坂本龍一≪人類はいまぼくたちに見えている現代文明へと必然的に至ったわけじゃなくて、ほかの可能性もあったわけで、その可能性をいま取り出してこないと、デッドエンドになるぞという危機感がありますね。≫

中沢新一≪循環的な世界を見直すというのは、前近代に戻って、電気もガスもないところで暮らすということじゃなくて、人間の心の基点を、旧石器時代につくられて、そのままずっとかたちも変えないで利用され続けている無意識の構造に据え直してみようということです。そうじゃないと、世界は完全に行きづまってしまう。≫

坂本龍一≪それには「死と再生」の「死」が必要。生産だけじゃダメで、破壊神シヴァが必要ですね。何を破壊するのかというと、われわれのもっている認識の壁。それを破壊するってことです。≫

中沢新一≪熊楠は、人間というものを、動物や植物と区別できるものではないと考えていたのだと思います。人間のなかには、たまたま思考や記憶や想像の領域が開かれているけれども、その本質は、もともと自然のなかに隠れていたものが、脳の部分にあらわれているにすぎないというふうに、彼は考えていたのでした。≫

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by daiouika1967 | 2010-05-23 13:35 | 日記  

11.20 金 晴

内田樹『日本辺境論』(新潮新書)読む。

日本、日本人は、つねに自らを、「中心」ではなく「辺境」に存在する、という自己意識を持ってきた。「中心」は、つねに外部にあった。その自己意識が、日本人に、どんな考え方、態様、性格を与えてきたのか。

「たとえば、私たちのほとんどは、外国の人から、『日本の二十一世紀の東アジア戦略はどうあるべきだと思いますか?』と訊かれても即答することができない。『ロシアとの北方領土返還問題の「おとしどころ」はどのあたりがいいと思いますか?』と聞かれても答えられない。尖閣列島問題にしても、竹島問題にしても、『自分の意見』を訊かれても答えられない。もちろん、どこかの新聞の社説に書かれていたことや、ごひいきの知識人の持論をそのまま引き写しにするくらいのことならできるでしょうけれど、自分の意見は言えない。なぜなら、『そういうこと』を自分自身の問題としては考えたこともないから。少なくとも、『そんなこと』について自分の頭で考え、自分の言葉で意見を述べるように準備しておくことが自分の義務であるとは考えていない。『そういうむずかしいこと』は誰かえらい人や頭のいい人が自分の代わりに考えてくれるはずだから、もし意見を徴されたら、それらの意見の中から気に入ったものを採用すればいい、と。そう思っている。
そういうときにとっさに口にされる意見は、自分の固有の経験や生活実感の深みから汲みだした意見ではありません。だから、妙にすっきりしていて、断定的なものになる。
人が妙に断定的で、すっきりした政治的意見を言い出したら、眉に唾をつけて聞いた方がいい。これは私の経験的確信です。というのは、人間が過剰に断定的になるのは、たいていの場合、他人の意見を受け売りしているときだからです。
自分の固有の意見を言おうとするとき、それが固有の経験的厚みや実感を伴う限り、それはめったなことでは『すっきり』したものにはなりません。途中まで言ってから言い淀んだり、一度言っておいてから、『なんか違う』と撤回してみたり、同じところをちょっとずつ言葉を変えてぐるぐる回ったり……そういう語り方は『ほんとうに自分が思っていること』を言おうとじたばたしている人の特徴です。すらすらと立て板に水を流すように語られる意見は、まず『他人の受け売り』と判じて過ちません。」

「自分の存在の起源について人間は語ることができません。空間がどこから始まり、終わるのか、時間がどこで始まり、終わるのか、わたし達がその中で生き死にしている制度は、言語も、親族も、交換も、貨幣も、欲望も、その起源を私たちは知りません。私たちはすでにルールが決められ、すでにゲームの始まっている競技場に、後から、プライヤーとして加わっています。私たちはそのゲームのルールを、ゲームをすることを通じて学ぶしかない。ゲームのルールがわかるまで忍耐づよく待つしかない。そういう仕方で人間はこの世界にかかわっている。それが人間は本態的にその世界に対して遅れているということです。それが『ヨブ記』の、広くはユダヤ教の教えです。
ふつうの欧米の人はこういう考え方をしません。過ちを犯したので処罰され、善行をなしたので報酬を受けるというのは合理的である。けれども、処罰と報酬の基準が開示されておらず、下された処罰や報酬の基準は陣地を超えているというような物語をうまく呑み込むことができない。どうして、私たちが『世界に対して遅れている』ということから出発しなければならぬのか、と彼らは反問するでしょう。まず、われわれが『世界はかくあるべき』という条件を決めるところから始めるべきではないのか、と。不思議なことに、ヨーロッパ人には呑み込みにくいらしいこういう考え方が私たち日本人には意外に腑に落ちる。
ゲームはもう始まっていて、私たちはそこに後からむりやり参加させられた。そのルールは私たちは制定したものではない。でも、それを学ぶしかない。そのルールや、そのルールに基づく勝敗の適否については(勝ったものが正しいとか、負けたものこそ無垢の被害者だとかいう)包括的な判断は保留しなければならない。なにしろこれが何のゲームかさえ私たちにはよくわかっていないのだから。
日本人はこういう考え方にあまり抵抗がない。現実にそうだから。それが私たちの実感だから。ゲームに遅れて参加してきたので、どうしてこんなゲームをしなくちゃいけないのか、何のための、何を選別し、何を実現するためにゲームなのか、どうもいまひとつ意味がわからないのだけれど、とにかくやるしかない。」

「私たちは辺境にいる。中心から遠く隔絶している。だから、ここまで叡智が届くには長い距離を踏破する必要がある。私たちはそう考えます。それはいいのです。でも、この辺境の距離感は私たちにあまりに深く血肉化しているせいで、それが今まさにこの場において霊的成熟が果たされねばならないという緊張感を私たちが持つことを妨げている。霊的成熟はどこかの他の土地において、誰か『霊的な先進者』が引き受けるべき仕事であり、私たちはいずれ遠方から到来するであろうその余沢に浴する機会を待っているだけでよい。そういう腰の引け方は無神論者の倣岸や原理主義者の狂信に比べればはるかに穏当なものでありますけれど、その代償として、鋭く、緊張感のある宗教感覚の発達を阻んでしまう。
辺境人は外部から到来するものに対して本態的に解放性があります。これはよいことです。けれども、よいところは必ず悪いところと対になっている。遠方から到来する『まれびと』を歓待する開放性は今ここにおける霊的成熟の切迫とトレードオフされてしまう。
今、ここがあなたの霊的成熟の現場である。導き手はどこからも来ない。誰もあなたに進むべき道を指示しない。あなたの霊的成熟は誰の手も借りずにあなた自身がなし遂げなければならない。『ここがロドスだ。ここで跳べ』。そういう切迫が辺境人には乏しい。」

「日本に限らず、あらゆる文化はそれぞれ固有の二項対立図式によってその世界を秩序立てます。とりあえず、それぞれのしかたで世界を対立する二項によって分節する。『昼と夜』、『男と女』、『平和と戦争』、こういう二項対立のリストは無限に続けることができます。ラカンは対立による秩序の生成について、こう書いています。
『これらの対立は現実的な世界から導き出されるものではありません。それは現実の世界に骨組みと軸と構造を与え、現実の世界を組織化し、人間にとって現実を存在させ、その中に人間が自らを再び見出すようにする、そういう対立です。』
その店では、私たちがしてきたこともそれほど奇矯なふるまいではありません。ただ、私たちは華夷秩序の中の『中心と辺境』『外来と土着』『先進と未開』『世界標準とローカル・ルール』という空間的な遠近、開化の遅速の対立を軸として、『現実の世界を組織化し、日本人にとって現実を存在させ、その中に日本人が自らを再び見出すように』してきた。その点が独特だったのではないか。そういうことだと思います。それが『いい』ということでもないし、それだから『悪い』ということでもない。こういう二項対立は世界標準に照らして変だから、これを廃して、標準的なものを採用しようという発想そのものがすでに日本人的な二項対立の反復に他ならないということです。」


■仕事の帰り、<サウンドベイ>に寄ると、コシミハルの『tutu』『パラレリズム』が二枚組、リマスターされて再発されていた。『Epoque de Techno』。二枚ともレコードで持っていて、くりかえし聴いたアルバムである。迷わず手に取る。お。ムーンライダーズの新譜も発売されたか。『Tokyo7』。前作はすごく良かったからな。これも迷わず手に取る。勢いがついて、ついでに、買いそびれていたコーネリアス『CM3』も買う。名駅まで歩き、<シックスナイン>に寄る。モーリッツ・フォン・オズワルド・トリオ『ヴァーティカル・アセント』、プラスティックス『オリガトウ』を買う。ここしばらくCDをまったく買っていなかったので、ついまとめ買いしてしまった。
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by daiouika1967 | 2009-11-21 23:29 | 日記  

10月3日 土 曇りのち晴

朝はまだすこし曇っていたけれど、午後になって急速に雲が散り、晴天になる。一週間ぶりのぴーかん。風が爽快。めっきり秋だ。

先週はほとんど本を読まなかった。昨日くらいから活字に飢えていて、思わず三省堂で新刊書を三冊衝動買いする。茂木健一郎『あなたにもわかる相対性理論』(PHPサイエンス・ワールド新書)、植島啓司・九鬼家隆・田中利典『熊野 神と仏』(原書房)、菊地成孔・大谷能生『アフロ・ディズニー』(文藝春秋)。合計4500円。
PHPサイエンス・ワールド新書の第一回配本の著者は、茂木健一郎のほかに、養老孟司、日高敏高、池田清彦、志賀浩二。全部買ってもいいような面子である。

とりあえず茂木健一郎『あなたにもわかる相対性理論』(PHPサイエンス・ワールド新書)を読む。アインシュタインの業績、そしてその驚嘆すべき業績を残したアインシュタインという人間の精神のありようについて、とてもわかりやすく、また熱っぽく語られた語りおろしである。

天才は、現実を越えた真理のヴィジョンを、現実よりずっと強く把捉する。そのため、彼や彼女にとっては、現実の個々の物事は取るに足らない些事の連鎖に過ぎず、そのヴィジョンに形を与えることだけに価値を感じるようになる。彼や彼女は、しばしば俗世の価値観を否定しているように見えるが、そうではなく、それらは否定に値するものとすら感じられていない。
―「アインシュタインはよくヴァイオリンを弾きながら考えていたと言う。そのように、音や行動で外からの情報を遮断することで、内側にある情報に目を向け、整理し、ひらめきを待つのである。脳の中には、何もしていない時に活動する『デフォルト・ネットワーク』と呼ばれる回路があることがわかっている。特に何かをするというわけでもなく、ぼんやりとものを考える時に、デフォルト・ネットワークが働き、うまく『ひらめき』の種を拾うことができるのである。
目に見えないものを頭の中に描き、内からの情報を大切にする。そこにはインターネットに頼っていては絶対に経験できないほどの豊かな世界が広がっている。」

たまたま同日に読んだ内田樹のブログでも、この「デフォルト・ネットワーク」の考えに類することが書いてあった。内田樹は、「こびとさん」と、“それ”を名指している。“それ”は、例えば、栗本慎一郎―マイケル・ポランニーが“暗黙知”と名指したものと同じものを指している。
―「真の賢者は恐ろしいほどに頭がいいので、他の人がわからないことがすらすらわかるばかりか、自分がわかるはずのないこと(それについてそれまで一度も勉強したこともないし、興味をもったことさえないこと)についても、「あ、それはね」といきなりわかってしまう。だから、自分でだって「ぎくり」とするはずなのである。何でわかっちゃうんだろう。そして、どうやらわれわれの知性というのは「二重底」になっているらしいということに思い至る。私たちは自分の知らないことを知っている。自分が知っていることについても、どうしてそれを知っているのかを知らない。私たちが「問題」として意識するのは、その解き方が「なんとなくわかるような気がする」ものだけである。なぜ、解いてもいないのに、「解けそうな気がする」のか。それは解答するに先立って、私たちの知性の暗黙の次元がそれを「先駆的に解いている」からである。私たちが寝入っている夜中に「こびとさん」が「じゃがいもの皮むき」をしてご飯の支度をしてくれているように、「二重底」の裏側のこちらからは見えないところで、「何か」がこつこつと「下ごしらえ」の仕事をしているのである。
そういう「こびとさん」的なものが「いる」と思っている人と思っていない人がいる。「こびとさん」がいて、いつもこつこつ働いてくれているおかげで自分の心身が今日も順調に活動しているのだと思っている人は、「どうやったら『こびとさん』は明日も機嫌良く仕事をしてくれるだろう」と考える。暴飲暴食を控え、夜はぐっすり眠り、適度の運動をして・・・くらいのことはとりあえずしてみる。それが有効かどうかわからないけれど、身体的リソースを「私」が使い切ってしまうと、「こびとさん」のシェアが減るかもしれないというふうには考える。「こびとさん」なんかいなくて、自分の労働はまるごと自分の努力の成果であり、それゆえ、自分の労働がうみだした利益を私はすべて占有する権利があると思っている人はそんなことを考えない。けれども、自分の労働を無言でサポートしてくれているものに対する感謝の気持ちを忘れて、活動がもたらすものをすべて占有的に享受し、費消していると、そのうちサポートはなくなる。「こびとさん」が餓死してしまったのである。知的な人が陥る「スランプ」の多くは「こびとさんの死」のことである。「こびとさん」へのフィードを忘れたことで、「自分の手持ちのものしか手元にない」状態に置き去りにされることがスランプである。スランプというのは「自分にできることができなくなる」わけではない。「自分にできること」はいつだってできる。そうではなくて「自分にできるはずがないのにもかかわらず、できていたこと」ができなくなるのが「スランプ」なのである。それはそれまで「こびとさん」がしていてくれた仕事だったのである。
私が基礎ゼミの学生たちに「自分の知性に対して敬意をもつ」と言ったときに言いたかったのは、君たちの知性の活動を見えないところで下支えしてくれているこの「こびとさん」たちへの気遣いを忘れずに、ということであった。」


最後、茂木自身の探求するクオリアについて語られている箇所を、引用しておく。
―「さらに私は、脳科学においても、相対性理論における『E=mc2』のような数式が成立するのではないかと考えている。
エネルギー『E』の代わりに、クオリアの『Q』が入る。『Q=』のあとに何が入るのかに強い関心がある。それまでまったく別物と考えられていた質量とエネルギーが等価であったように、クオリアと何かが等価なのではないかと考えている。
私たちは、人間の体や脳を特別な存在のように考えがちだが、ともに物質でできており、自然法則に従うという意味では、空気や土、草や鳥と同じだ。宇宙の中の万物と何ら変わることはない。
すなわち、心も自然現象の一部であり、自然法則の記述の対象となると思っている。だとすれば、アインシュタインが宇宙の法則を簡潔な言葉と数式で描き出したのと同じように、脳や心についても簡潔な言葉や数式で描き出すことができるのではないだろうか。
アインシュタインの理論が私たちに与える感銘は、まさにその認識論と存在論が交錯する場所にある。心と脳の関係という人類に残された第一級の謎を解く鍵は、かつてアインシュタインがやったように、私たちがごく当たり前だと思っている認識上の前提を問い直すことの中にあるのだろう。」

活字への飢えがスウーッと癒され、鬱っぽかった気分が、軽い攻撃性をはらんだ軽躁状態に回復した。

今日はお彼岸。夜は満月がきれいだった。

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by daiouika1967 | 2009-10-05 22:24 | 日記  

12月5日(金) 雨のち曇

朝起きると、もう8時を過ぎているのに外が暗くて、しばらくベッドのなかでぼんやりしていると、窓に稲光が光った。次いで、ゴロゴロゴロゴロ、と、猫が喉を鳴らすような音。朝から珍しいな、と思っていると、Pが枕元にやってきた。おれが目覚める気配がすると、Pは必ず近寄ってくる。
しかしそれにしても、べつに音を立てているわけでもないのに、なぜPには、おれが目を覚ましたことが分かるのだろう。瞼の開く音がするのだろうか。まさか。
Pに餌をやって、英語の勉強を1時間くらいやって、卵かけご飯とインスタント味噌汁の朝昼兼用の食事をとった。

午後、名駅の喫茶店で、松岡正剛『白川静 ―漢字の世界観』の残りを読みきった。
読後、ジュンク堂に行き、白川静の本をさがし、何冊かあるなかから、まずは『文字逍遥』(平凡社ライブラリー)を選んだ。いっしょに、木田元『なにもかも小林秀雄に教わった』(文春新書)も買った。
小雨がぱらつくなか、図書館まで歩き、一階のデスクで、木田元『なにもかも小林秀雄に教わった』を読む。途中、30分くらい、机につっぷしてうつらうつらする。どうもやはり、慢性的に睡眠が足りていないようだ。

内田樹は、「白川静から学んだ2、3のことがら」というエッセイ(『昭和のエートス』(basilico)所収)のなかで、『白川先生の漢字学は、古代中国において、地に瀰漫していた「邪悪なもの」を呪鎮することが人間たちのおそらく最初の知的営為であったという仮説の上に構築されている』と論じている。
―『おそらく古代の人々は中国でも、あるいは万葉古語の日本列島でも、身体を震わせ、足を踏み鳴らし、烈しく歌い、呪い、祝ったのであろう。そのようにして人々は生命力を賦活し、減殺するために死力を尽くした。そのときに人々が発していた言葉はほとんど物質的な持ち重りと手触りを持っていたはずである。それは観想的主体の口にする「われ思う」という言葉の透過性、無重力性、非物質性、中立性と、考え得る限りもっとも対蹠的なところにある言葉である。
言葉がそれだけの重みを持った時代がかつてあった。それは白川先生のロジックを反転させて言えば、人間がそれだけの重みを持った時代があったということでもある。人間の発する烈しい感情や思いや祈念が世界を具体的に変形させることのできた時代があったということである。そして、そのような時代こそは白川先生にとって遡及的に構築すべき、私たちの規矩となるべき「規範的起源」だったのである。』


言葉は世界を分節する原理だが、その分節を促す力能の根源には、人間の抱える「呪われた部分」が存在する。
人間の知的営為は、すべて、この「呪われた部分」と、どのように折り合いをつけるのか(「身体を震わせ、足を踏み鳴らし、烈しく歌い、呪い、祝う」)という動機に基づいてなされるのである。
白川静の漢字学は、おそらく、つねにこの「根源」を見つめて構築されたものなのだろう。

そうした観念が頭にあって、木田元『なにもかも小林秀雄に教わった』を読んでいたら、「言葉は存在の家である」というハイデガーの言葉が出てきて、そこでさらに思考にドライブがかかった。
ハイデガーはこう言っている-『人間は、単に他のさまざまな能力と共に言葉をもっている一個の生物といったようなものはない。むしろ言葉は存在の家なのであり、人間はそこに住みながら、おのれの外に出で立ち、……存在の真理に帰属しているのだ。』
このことについて、木田元による解説的な文章があるので、その箇所を引いておく。
―『一般に動物は、多少の幅はあるにしても<現在>だけに生きている。しかし、神経系の分化が進み、ある域を越えると、その<現在>のうちにあるズレが生じ、<過去>や<未来>と呼ばれることになる時限が開かれ、いわば時間化が起こる。
そうなると、現に与えられている環境構造に、かつて与えられたことのある環境構造や与えられるであろう環境構造が重ね合わされ、それらがたがいに切り換えられて、そこに複雑なフィードバック・システムが形成される。
こうして、現在与えられている環境構造をおのれの可能な一つの局面としてもちはするが、けっしてそれに還元されてしまうわけではない<世界>というもっと高次のこうぞうが構成されることになる。このとき、単なる生物学的環境を越え出て、この<世界>に反応して生き、いわば<世界内存在>する現存在(人間)が誕生するのである。
それと共に、一般の動物のように、環境のうちに現に与えられている刺戟やその代理刺戟つまり<信号>にだけ反応するのではなく、そうした信号を足場にしてさらに高次の記号つまり<シンボル>を構成し、それによって行動を起したり、続行したりするシンボル行動ができるようになる。シンボル操作としての言語活動もこの段階ではじめて可能になるのである。そのシンボルとしての言語の自己分節が、世界を分節し、分化していくのだ。
<存在了解>も同じ事態に結びつく。ハイデガーは<存在了解>を<存在企投>と呼ぶこともあるが、こちらの方が分かりやすいかもしれない。<存在企投>とは、現存在が生物学的環境を<超越>して、つまりほんの少しそこから脱け出して、<存在>という視点を設定し、そこから自分がいつも生きている環境を見なおすことだと考えてよい。』


ドライブのかかった思考は、さまざまな固有名に伸び広がり、読みながら、この本に登場する、小林秀雄、保田與十郎、ランボー、リルケ、ニーチェ、ハイデガー、ドストエフスキー、キルケゴール、そしてさらにこの本で取り上げられているわけではないが、バタイユ、ブランショ、レヴィナス、そして、白川静、折口信夫といった人たちの著作を、片っ端から読みたくなる。
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by daiouika1967 | 2008-12-06 11:32 | 日記  

10月9日(木) 晴

秋晴れの、気持ちのいい陽気がつづく。気持ちがいい。

11時過ぎ、朝昼兼用のお茶漬けを二杯分くらいの分量、食べて、家を出た。
名駅の喫茶店で、F・フェルマン『現象学と表現主義』(木田元訳 講談社学芸文庫)を読んだ。
「訳者あとがき」に、原著者本人による内容紹介が載っている。
《この学際的な研究においては私は、1913年の『イデーン』において盛期に達するエドムント・フッサールの現象学の観念論と、文学上の表現主義とを共通の思考形態に帰一させようと試みる。それは、第一次世界大戦直前の時代の精神史的―社会史的問題状況への応答として、この時代の現実性の概念を造形した<脱現実化的実在化>という弁証法的思考形態である。フッサールの現象学的還元の理論は、この現実性の概念の哲学的方法論への翻訳にほからない。これを証示するために私は、フッサールの思考をもっとも広義の表現主義的作家たち―フーゴー・フォン・ホーフマンスタール、ロベルト・ムージル、カジメール・エートシュミット、ヴィルヘルム・ヴォリンガー、マックス・ピカート、カール・バルトら―の思考と結びつけている構造上の類縁性を跡づける。最後に私の思考形態分析は、現象学を終局的にもう一つの大きな精神的運動、つまりジークムント・フロイトの精神分析に近づけることになった還元思想の変容を追跡する。》

1919年にクルト・ピントゥスは、『未来への発言』という論文のなかで、こう述べている―《というのも、諸君が現実と呼んでいるものは、実は現実ではないからである。ましてや思想家ならばだれしもがこのいわゆる現実なるものの実在性に疑いをもったのである》。
同時代、フッサールは、『デカルト的省察』において、現象学についてのこんな定義のしかたをしている―《普遍的な自己省察によって世界をふたたび手に入れるために、われわれはまずエポケーによって世界を放棄しなければならない》。
このふたつは、同じ時代の気分、同じ精神の在りようから発せられた言葉である。著者は、ここにある時代の気分、同じ精神の在りようの内容を、「異議申し立てと黎明」とまとめている。
《この異議申し立ては、一方では、十九世紀によって生み出された社会的世界が非現実的なものだという経験となり、他方では、欺瞞的とも抑圧的とも感じられた教養俗物たちへの伝統へ向けられることになる。黎明という気分のほうは、過ぎ去った前世紀を内的に克服することが可能なのだという一般的な信念に、フォン・カーラーの適切な表現に従って言い換えるなら「戦前の社会状況から解放されようとする」衝動に、根ざしている。》

現象学も表現主義も、その時代のいわゆる「現実」なるものを、皮相なもの、非本質的なものと感じとり、それを超える方途を探っていた。
(《仮象であり現象であるような現実を突破することによって、もっと奥深いもの、いわば<その背後>にあるもの、つまりまだ隠されており、時として突発的にしか近づきえないような真の本来的な現実に達することになる。それは、古い実在からいまようやく解放されるべきある<新たな>実在なのであり、多くのばあいそれには<本質>という概念が与えられえる。したがって、欺瞞的で硬直した、単に皮相なものでしかない、あるいは無内容なものになってしまった現象が、この真なる本質に対立することになる。表現主義者は、言ってみれば実在のプラトン的なイデアを捜しもとめているのである。》)。
現実から逃れるのではなく、現実を超え、真の現実へと至ろうとする、弁証法的でもあり、神学的(否定神学的)ともとりうる探求。この探求の形が、著者のいう、現象学と表現主義に共通する「脱現実化的実在化」という「思考形態」であるということになる。

<ジュンク堂>で、鷲田清一・内田樹『大人のいない国 -成熟社会の未熟なあなた』(PRESIDENT PINPOINT選書)、宇野常寛『ゼロ年代の想像力』(早川書房)を買う。
喫茶店で、鷲田清一・内田樹『大人のいない国 -成熟社会の未熟なあなた』を読んだ。115ページの薄っぺらい本だったので、喫茶店一軒で読了する。

夕方、スーパー銭湯<喜多の湯>へ。山王の駅まで、普通電車の一駅分を歩く。青柳拓次『たであい』を聴きながら、線路のある高架に沿った道を、歩いた。
『たであい』の柔らかな音像に、時折、電車が過ぎる音が混入してくる。
風呂に浸かったときのように、お茶を一服したときのように、気持ちがほぐれてゆき、路傍の植え込みのある土に、オオバコがたくさん生えているのを見つけ、昔買っていたウサギの記憶が甦った。
食が細ウサギで、ニンジンなどを与えてもあまり食べないのに、オオバコだけはよく食べたので、弟とよくオオバコを捜しに行った。オオバコはどこにでも生えているので、遠出をせずとも、雑草が生えているようなところなら、どこでも見つかった。
そんなことを思い出していると、似たような髪型をしたおしゃれな女の子の集団が、前方から近づいてくるのに、目を奪われた。近くに美容専門学校があるので、そこに通う生徒だろう。
5時過ぎに、<喜多の湯>に着いた。

岩盤浴で寝転び、いろいろなことを構想する。想像がどんどん伸びていき、軽い全能感がわきあがってくる。
ハーブの部屋に40分、ゲルマの部屋に40分、岩塩の部屋に10分。サラサラした汗が全身を覆う。氷の部屋に入ると、全身から湯気が立ち上った。露天風呂に入って、体を洗い、食堂で夕食をとる。まぐろの山かけ定食を食べた。
妻と並び、家まで歩いて帰った。岩盤浴の後はいつもそうなのだが、体がとても軽く感じられる。秋の夜気が心地いい。
妻は家に帰り着いて、すぐに眠ってしまった。おれはパソコンを起動し、ウェブを周回していたら、気づくと3時過ぎになってしまった。

鷲田清一・内田樹『大人のいない国 -成熟社会の未熟なあなた』(PRESIDENT PINPOINT選書)からの引用。

《働くこと、調理をすること、修繕をすること、そのための道具を磨いておくこと、育てること、教えること、話し合い取り決めること、看病すること、介護すること、看取ること、これら生きてゆくうえで一つたりとも欠かせぬことの大半を、ひとびとはいま社会の公共的なサーヴィスに委託している。社会システムからサーヴィスを買う、あるいは受けるのである。これは福祉の充実と世間ではいわれるが、裏を返していえば、各人がこうした自活能力を一つ一つ失ってゆく過程でもある。ひとが幼稚でいられるのも、そうしたシステムに身をあずけているからだ。
近ごろの不正の数々は、そうしたシステムを管理している者の幼稚さを表に出した。ナイーブなまま、思考停止したままでいられる社会は、じつはとても危うい社会であることを浮き彫りにしたはずなのである。それでもまだ外側からナイーブな糾弾しかしない。そして心のどこかで思っている。いずれだれかが是正してくれるだろう、と。しかし実際にはだれも責任をとらない。》(鷲田)

《今の日本における「未成年者」は、現実の年齢や社会的立場とは無関係に、「労働し生産することではなく、消費を本務とする人」というふうに定義できると思うんです。労働を通じて何を作り出すかではなく、どんな服を着て、どんな家に住み、どんな車に乗って、どんなレストランで食事をするか……といった消費活動を通じてしか自己表現できないと思っている。》(内田)

《自立しているというのは決してインディペンデント(独立的)なのではない。インターディペンデント(相互依存的)な仕組みをどう運用できるか、その作法を身につけることが本当の意味で自立なんじゃないかな。》(鷲田)

《「あなたがあなたの意見に固執している限り、あなたの意見はこの場では絶対に実現しないけれど、両方が折れたら、あなたの意見の四割くらいは実現するよ」と説明してみるんですけれど、どうもそれではいやらしい。自分の考えが部分的にでも実現することにより、正論を言い続けて、話し合いが決裂することのほうがよいと思っている。
和解することと屈服することは違うのに。世の中には「操作する人間」と「される人間」の二種類しかいないと思っている。》(内田)

《阪大で同僚の平田オリザさんが(劇作家)が「『ディベート(議論)』と『対話』は正反対」と言っておられた。ディベートは話し合う前と後で考えが変わったら負けなんですが、対話は前と後で変わっていなければ意味がない。自分をインボルブ(巻き込む)しないと意味がないんです。ところが、対話と言いながらディベートばかりしている。》(鷲田)

《学校に来るクレーまーのうち最悪のパターンは両親が口を揃えて怒鳴り込んでくるタイプだそうです。昔は、父親が学校に怒鳴り込むと、母親がすがりついて止め、母親が激昂すると、父親がそんなに熱くなるなよと諌めるというふうに、学校のありようについての親たちの考え方の差が抑制的に機能していたけれど、今は両親の価値観が揃ってしまっている。異性の親の間にさえ価値観の葛藤がない。それでは子どもに成熟のチャンスがなくなるのは当たり前です。
核家族であっても、せめて母性原理と父性原理がきちんと機能していて、そこに価値観の「ずれ」があれば、子どもにもある程度の葛藤は担保されます。でも、たとえば一家が一丸となっての「お受験」体制なんかでは、子どもはもう葛藤のしようがない。完全に家族の価値観に同化するか、それを全否定するか、どちらかを選ぶところまで追い詰められてしまう。》(内田)

《人が成熟するというのは、編み目がぴっしりと詰って繊維が複雑に絡み合ったじゅうたんのように、情報やコンテンツ(内容)が詰っていく、ということです。それなのに今の世の中、ジャーナリズムも単次元的な語り口でしょう。すぐに善悪を分けたがる。》(鷲田)

《肉親でも知友でもなく、私と意見を共有するわけでもなく、コミュニケーションもおぼつかなく、それどころか私の自己実現を妨害し、私の幸福追求の障害となりかねないこれら「不快な隣人たち」を国民国家の振るメンバーとして受け容れること。それが現代に残された唯一の愛国心のかたちである。
現代における国民的統治とは均質集団を作り出すことではない(それは必ず国民分断を結果する)。国民を統治しようと望むのであれば、それを等身大の親密な感情や温かい共感の上に基礎づけることをどこかで断念しなければならない。
だから、愛国心を持つことは、現代においては少しも快適なことではないし、いささかの精神的高揚ももたらしはしない。それは「私人としての不快」を押し殺して「公民としての義務」に従うことだからである。》(内田)

《「自由」の概念は、社会の因襲的なくびきから解放された「リバティ」の意識として歴史的には深い意味があったが、「自由」にはもうひとつ、「リベラリティ」という言い方がある。「気前のよさ」という意味だ。「じぶんが、じぶんが、……」といった不自由から自由になることと言い換えてもよい。「自己実現」とか「自分探し」というかたちで、より確固たる自己を求めるひとが、同時にひりひりととても傷つきやすい存在であるように見えるのは、無償の支えあいという、この「気前のよさ」へと放たれていないからかもしれない。「自立」がじつは「孤立」としてしか感受しえないのも、「支えあい」の隠れた地平、つまりは家族や地域といった中間世界がこの社会で確かなかたちを失いつつあるからかもしれない。》(鷲田)

《人々がその「かけがえのなさ」に気づかず、蔑しているものに注意を促し、その隠されていた価値を再認識させる言葉の働きを古い漢語では「祝」と呼ぶ。(中略)
歌うことによって、その対象が潜在させている霊的な力を増幅させるとき、歌い手が「誰であるか」ということには副次的な重要性しかない。というのは賦活された霊的生命の恩沢は周囲全域に漲るからである。自分のなした「祝」の効果であるから、その恩沢は私ひとりが独占すべきものである、というような排他的な心ばえのものはそもそも「祝」とは無縁である。
ネット上に行き交っているのは、残念ながら、そのような「祝」の言葉ではない。それは、「祝」とは逆に、人々がたいせつに思っているもの、敬慕しているもの、価値ありと信じているものを「貶下(へんげ)」することをめざしている。お前たちが拝んでいるのは「鰯の頭だぜ」という「恐るべき真実の暴露」をすぐれて「知的に価値ある情報」とみなし、それを不特定多数の人々に、無償で宣布している自分の努力をみずから多としているのである。
このような言葉のありようを名づけるやはり古い漢語がある。ご賢察のとおり、「祝」と同語源の「呪」というのがそれである。
「不当な利益を占有している」他者が、その不当に占有しているもの(健康、家族、財力、権勢、名誉、才能などなど)を失うことを強く念じること、それが「呪」である。》(内田)

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by daiouika1967 | 2008-10-10 23:57 | 日記  

4月15日(火) 晴

内田樹『街場の現代思想』(文春文庫)が文庫になっていたので、単行本は以前に読んだのだが、購入し再読した。論旨はだいたい覚えていて、スラスラと2時間弱で読了した。

結婚について、内田樹は、結婚を「不快」の体験である、と断言し、「だからこそ結婚には価値があるのだ」と論を展開する。おれは、この文章を単行本が発売された時点、つまり自分の結婚前に読んでいる。結論部分だけを引こう。
「結婚は快楽を保証しない。むしろ、結婚が約束するのはエンドレスの『不快』である。だが、それをクリアーした人間に『快楽』をではなく、ある『達成』を約束している。それは再生産ではない。『不快な隣人』、すなわち『他者』と共生する能力である。おそらくはそれこそが根源的な意味において人間を人間たらしめている条件なのである。
結婚を『快楽』の多寡で数えれば間違いなく『損』である。それは認めよう。しかし結婚を『得か損か』のタームで考えるということは、『快楽』の貨幣でしかものごとの軽重がはかれなくなっている『近代の病徴』なのだということには、そろろろ気がついてもよいと私は思う。人間を真に『人間的』なものたらしめているのは快楽ではない。『受難』である」。
結婚とは、ここで内田樹が言うように、「不快な隣人」(これは相手の家族のことであり、ふたりの子どものことであり、あるいはまた、相手そのもののことである)への絶え間のない配慮に、自らの身を置くという経験にほかならない。恋愛のプレイヤーと結婚のプレイヤーとでは、そこで要請される能力はまったく質の異なるものなのである。
今から結婚しようというカップルで、こうした事態を正しく予想して、「私はそのような『受難』を求めよう」という崇高な志を持っている人間が、はたしてどれだけいるのだろうか。いや、現代の日本人のほとんどは、結婚を決めるとき、たぶん、さまざまな事情の成り行きに流されているにすぎないのではないか(その「事情」のなかには、もちろん「恋愛」も含まれる)。でも、おれは、結婚前に、内田樹のこの文章に激しく打たれていたのである。つまり、おれは積極的に「結婚という受難」を受け入れようという「崇高な意志」をもって結婚したのである(本当かよ?)。

夕方。小島信夫『アメリカン・スクール』(新潮文庫)から、「汽車の中」「燕京大学部隊」の2編を読んだ。小島信夫の初期の短編集である。

栄向の<ブックオフ>で、古谷兎丸『少年少女漂流記』(集英社)『自殺サークル』(ワンツーマガジン社)、穂村弘『短歌の友人』(河出書房新社)を買った。
夜、古谷兎丸の漫画2冊を読んだ。古谷兎丸は「冷たい現実のなかで友愛や夢といった『キレイなもの』が失われていく切なさ」を描くのが巧い。
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by daiouika1967 | 2008-04-16 10:31 | 日記  

3月12日(水) 晴

9時過ぎ、起床。今日は10時から美容院を予約している。卵かけご飯とインスタント味噌汁、サラダの朝食を取り、シャワーを浴びて、歯を磨き、家を出た。
美容院は歩いて10分くらいの距離。今週になってから一気に暖かくなった。今日も春めいたいい陽気。
美容院に来るのは2ヶ月ぶりくらいか。ぼさっと伸びた髪の毛を短く刈ってもらい、ヘッドスパをやってもらった。カレーの匂いのするオイルを頭髪にまぶし、撫でるようにやさしく揉み解してくれる。施術してくれた美容師の女の子がとても可愛い子だったので、なんだか得したような気分になった。

いったん家に戻り、鞄を持って、12時前にふたたび家を出た。名駅の喫茶店を何軒かハシゴして、内田樹『女は何を欲望するか?』(角川新書)を読んだ。単行本の新書化だが、大幅に加筆修正が施してあるらしい。内田樹の著作は8割方読んでいるのだが、これは読んでいなかった。フェミニズム批判の書である。
「批判」であって、「否定」ではない。むしろ、内田樹は、一部のフェミニストたちの、卓越した知性によってオルタナティブな関係性の可能性を志向した、そのこと自体については、共感と敬意を抱いているように思われる。この本は、しかしやはりフェミニズムには「理論的瑕疵」があると論じ、「どうしてこのような理論的瑕疵が知的に卓越したフェミニストたちによってさえ組織的に看過されたのかという『フェミニスト・ブラインドネス』の問題」に照準を合わせている。そのようなフェミニズム批判の書である。

フェミニストは、しばしば、私たちは自分たちの言葉(女の言葉)を持っていない、他者の言葉(男の言葉)しか与えられていない、だから、他者の言葉(男の言葉)で思考し、発話しなければならない私たちは、つねに疎外されている、と語る。しかし、内田樹はそうしたフェミニストの主張に、「他者の言葉しか与えられていない」というのは、「女であるから」ではない、それは男女問わず人間に普遍的な事況なのであると反駁する。
「『私』が『私の外』へ出て振り返りつつ、『ああ、あれこそ私だ』と確信するとき、そう確信している『私』と、その確信を基礎づけた『あれ』と遠称で呼ばれる『私』のあいだには、あきらかに超えることのできない乖離が存在する。そして、人間は実際には、この乖離につねに苦しめられることになるのである。
このような人間のあり方をラカンは『根源的疎外』と名づけた。『根源的疎外』とは、人間は自分がほんとうに考え、感じていることを決して言葉にすることができないという宿命的な事況のことである。
私たちは言葉を使って自分の『内面』や『心』や『思い』を語ろうとする。だが、経験的に熟知されているように、その言葉はつねに『言い過ぎる』か『言い足りない』かどちらかであって、私の『言ったこと』と私に『言おうとしたこと』が過不足なく合致するとうことは決して起こらない」。
フェミニストが「男の言語」と名指したそれは、じっさいには「中性の言語」であるにすぎない。そして、「中性の言語」は、女にとってだけでなく男にとってもまた「他者の言語」なのである。言語は、人間にとって、つねに「他者の言語」として存在するのだ。だから、フェミストは、「私たちの言語」=「女の言語」を創造しなければならない、と唱えるが、人間が「私たちの言語」などというものを手にすることは、決して起こりえないのである。
つまり、フェミニストが「男(社会)のせい」だとする自分の疎外状況は、じつのところ、(自分が)「人間であるせい」でしかない。
となれば、フェミニストが攻撃を向ける対象は、「男(社会)」ではなく、「人間の在りよう」ということになるのではないか。
しかしそうなれば、それはもはやフェミニズムの枠組みには収まらなくなるだろう。
フェミニズムは、そこで、批判的に乗り越えられなくてはならない。

フェミニズムには、「単一の原理」に対抗するために、世界に「複数の視点」を導入する、という含みがある。
内田樹は、テクストの読みについて、そこに働く「政治的」な力について、こんなふうに語っている。
「読み手は、個人的な『懇請』に駆動されて読む。それは言い換えれば、都市に街路に生産に教育に、あるいはおのれ自身の欲望に語法に介入されつつ読むということである。完全に無垢で、透明な読み手というようなものは存在しないし、仮に存在してもそのような読み手はテクストを一字として読むことができないだろう。『リテラシー』とは読み手の経験のことであり、実人生のことであり、『汚れ』のことだからである。
私たちが(フェルマンとともに)照準しようとしているのは、ある読み手のリテラシーにはどのような状況的与件がどのような仕方で関与しているか、という政治の問題である。
レヴィナスはそこに『イデア中心主義』を検出し、バルトは『ヨーロッパ中心主義』を検出し、フェルマンは『女性嫌悪』を検出する。それぞれの分析はそれぞれに説得力がある。そういう場合のいちばん常識的な対応は、たぶんそういったものは全部私たちの読みに関与していると考えることだろう。
さまざまな要素が私たちのリテラシー(先ほども言ったようにそれは『汚れ』のことだ)の形成に参与している。人種、性差、階級、信仰、政治的立場、国籍、職業、年収、知能程度、家庭環境、病歴、性的嗜癖……などなどさまざまなファクターが私たちの読みには関与している。そのうちの一つだけが決定的なファクターであり、あとは論ずるに足りないと言い切るためには、かなりの傲慢さと鈍感さが必要であろう。
複数のイデオロギー的バイアスが読みには加圧されており、そのバイアス圧の強弱や濃淡の布置は一人ひとり違う。私はそのように考える。
しかし、そう考えることはフェミニストには許されない。私の考えを認めると、『すべての人はそれぞれ固有の仕方で(言い換えれば、それぞれ固有のイデオロギー的バイアスの下で)テクストを読む』ということになり、『女性だけが固有の仕方でテクストを読むことを許されていない』という議論の前提が崩れてしまうからである」。

3時頃、読み終え、次に古井由吉『ロベルト・ムージル』(岩波書店)に取りかかる。栄から名駅まで喫茶店をハシゴしつつ、6時前までに、130ページ読み進んだ。
夕方、ビックカメラに寄り、黒沢清監督『cure』のDVDを買った。前にVHSで持っていたのだが、DVDで買いなおした。ポイントが溜まっていたので、支払いはなしですんだ。
7時、帰宅。夕飯はレトルトのカレー、サラダ。食後にカステラを4切れ。10時まで、テレビを点けて、パソコンの前で仕事をし、10時から『cure』を観た。
今日は、Pがやたらと鳴声を上げる。ヒモを振ってじゃらしたりしながら宥めてやったが、なんだか終始目つきが落ち着かない。何かに興奮しているようだった。
1時過ぎ、就寝。
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by daiouika1967 | 2008-03-13 12:23 | 日記  

3月6日(木) 晴

9時半頃、起床。卵かけご飯と焼き海苔と塩昆布、インスタントの味噌汁「あさげ」を湯で溶いて、朝食にする。
パソコンを起動し、日記をつけ、いつもの周回コースをまわった。内田樹先生が、ブログで、男女関係を「理解と共感」の上に基礎づけようとすることの誤りについて書かれていた。いつものように、たいへん明晰かつ説得的な議論である。
人間の共同体は個体間に理解と共感がなくても機能するように設計されている」と構造主義者の内田先生は云う―「そのために言語があり、儀礼がある。親子であれ配偶者であれ、『何を考えているのかよくわからない』ままでも基本的なサービスの供与には支障がないように親族制度は設計されている」のだと。
しかるに、「成員同士が互いの胸中をすみずみまで理解できており、成員間につねに愛情がみなぎっているような関係の上ではじめて機能するものとして家族を観念する」という誤った理念が蔓延したことによって、家族を形成している人間が、本来なら要らぬ不満を抱えるはめになった。「家族間に理解がない、愛がない、共感がない、価値観が一致しない、美意識が一致しない、信教が一致しない、政治イデオロギーが一致しない・・・だから『ダメ』なんだ」ということになれば、「この世に幸福な家族がひとつとして存在しなくて当たり前である」。
「ほんらい家族というのはもっと表層的で単純なものである。成員は儀礼を守ることを要求される。以上。」だと、内田先生は言い切っている。愛だの理解だの共感だの、そんなものは、もともと、家族というシステムにおいては本来的なものではない。「家族の条件というのは家族の儀礼を守ること、それだけである。それがクリアーできていれば、もうオッケーである。朝起きたら『おはようございます』と言い、誰かが出かけるときは『いってきます』『いってらっしゃい』と言い、誰かが帰ってきたら『ただいま』『おかえりなさい』と言い、ご飯を食べるときは『いただきます』『ごちそうさま』と言い、寝るときは『おやすみなさい』と言いかわす。家族の儀礼のそれが全部である。それができれば愛も理解も要らない」。

11時前に家を出て、名駅の喫茶店まで歩き、前田塁『小説の設計』(青土社)を読み始めた。前田塁という人がどういう人なのかは知らないが、帯に、「誰もが、この一瞬を長らく待ち望んでいた。前田塁のしたたかな『読み』によって、文学の批評が、いま、嘘のように息を吹き返したのである」という蓮見重彦の推薦文が載っていたのが目に留まり、手に取ってみた。目次を覗いてみると、取り上げられている小説家は、川上弘美、多和田葉子、小川洋子、西原理恵子、松浦理英子、中原昌也の6人。とりわけ中原昌也の名前が気にかかった。中原昌也の小説について「本質的な批評がされているような気がする」という直観が働き、それで読んでみる気になった。
喫茶店を移動しつつ、3時頃までかかって読み了えた。
前田塁は、言葉のはらむさまざまな位相における伝達不能性を丁寧に挙げていき、それでも、“「読む」ことの可能なテキストがそこに存在している(「読むことが可能」といっても、それはすべて「誤読」のヴァリエーションにすぎないという但し書きが付されるのだが)”ということへの驚異を表明する。こうした「テキストの物質性」への感性は、たとえば蓮見重彦にも通じるものであろう。
―「『小説』という限定を解除してそもそも言葉という手段自体、その物質性を忘却したならば、口当たりだけはよくそのじつ役立たずの間接民主制と本質において共通してしまう、表象=代行制度にほかならない。かつて『表象』をめぐる思考がひとびとに歓迎されたのは、『なにかの表現』である以前に厚みを欠いた表面そのものであることの喚起が、嘘くさい『本質』への信仰(ないしは、本質を過不足なく言表可能であるという虚構)を相対化できたがゆえであった。にもかかわらずそこから四半世紀を経てなお私(たち)は、ともすれば(中略)、『紛れもない現代の光景の一つ』などといったものを、あたかもただしく表出可能であるかのように思いがちである。それがあくまでも表象=代行でしかありえない以上、一篇の作品があるひとりの読み手の目にそのように映ったとしてそれは、彼ないし彼女があらかじめ期待もしくは想像する『現代の光景』とそこに書かれた(とそのひとが読みとった)『光景』とがほどよく調和したという、よく言って偶然、悪しざまに言うならば『意図せざる共犯関係』でしかないことなど、あらためて確認するまでもないのだが、四半世紀という時間がそのことをすっかり忘却させてしまうに十分な時間であったといううんざりするような事実もまた、あまりに明白だったわけだ。
ともあれ、そうした愚かしさがいつどのように悪しく機能するかは別記することとして、いまここから読み進めてゆくのは、そうした言葉の表象=代行制度に疑いを持ち続けつつ、しかし書かずにはいられない語り手の物語である」(「中原昌也の…。小説を書きたくない小説家と、小説を書かねばならぬ哲学者がいるのはなぜか?」より)。

3時過ぎから、絲山秋子『イッツ・オンリー・トーク』(文春文庫)を読んだ。絲山秋子は初めて読む。この本は彼女のデビュー作で、おれは、この小説を原作としてもつ廣木隆一監督『やわらかい生活』を、以前DVDで観ている。
映画が素晴らしかったので、小説を読んでいても、主人公は寺島しのぶ、44歳ニートの従兄弟は豊川悦治、鬱病のやくざは妻夫木聡、ジェントルな痴漢は田口トモロヲ、都会議員は松岡修三といったように、具体的な役者をつい思い出して、そのイメージを付けて読んでしまう。「イッツ・オンリー・トーク」「第七障害」の2篇、5時過ぎに読了した。

地下街の小さな新刊書店に寄って、山本英夫『ホムンクルス』(小学館)の9巻が出ているのを見つける。鈴木カツ『こだわりアメリカン・ルーツ・ミュージック辞典 ~先駆者60人の軌跡』(NHK出版生活人新書)も見つけ、2冊購入した。
今日は6時から、あるクライアントの接待の仕事がある。待ち合わせまで30分あったので、喫茶店に入り、『ホムンクルス』9巻を読んだ。
6時に待ち合わせ場所へ。接待といっても、べつに、さほど気をつかわなければならないような相手ではない。軽く寿司でもつまんで、あとは、クラブにでも連れて行って、女の子をあてがい、勝手に飲ませておけばいいというだけのことだ。
6時間騒いで、12時半頃、お開き。付き合って飲んでいたら、すこし飲みすぎてしまったようだった。涼しい風が気持ちよかったので、フラフラとした足取りで歩いて家に帰った。
テレビを点け、「アメトーク」で、M2芸人祭り(ブレイクしそこなった35歳以上の中年芸人たち)を見て、エヘラエヘラ笑い、2時過ぎに就寝した。
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by daiouika1967 | 2008-03-07 11:13 | 日記