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9月10日(水) 晴

●秋晴れ。
からっと晴れて気持ちがいい。朝のうちに、パソコンに向かって、仕事を済ませ、昼前に家を出た。

古井由吉『野川』(講談社文庫)のつづきを読む。読了。
この小説には「何が」書かれているのか。「事件」や「個人」のことではなく、「存在」するとはどういったことなのか、そのことが確かめられるように書かれている。
「存在」は、非存在、死、に照り返されて、初めて、その在りようを露にする。いや、露にするのではなく、“揺らぐ”。自明だと疑っていなかった「存在」は、揺らぐことで、自らの無根拠を露呈するのである。
存在するものはすべて、ある時空の中で、“仮に”そのような形をとったものであるのに過ぎないかのごとくに思われてくる。

適当に任意な箇所を引用する。
《過労がある境を超えると爽快感に似たものに変わる。私などは過労がさらに過ぎるほどに仕事の捗ることもなく、忙殺の高揚を互いに煽り立てる職場もない境遇だが、多少は身に覚えがある。膝がだるくて心臓が重く感じられる、そんな状態も過ぎた頃のことだ。全身がどこかふわふわして、意識が澄明なようになる。主観のことかと本人も疑って、用心は怠らないが、やることに一々、間違いをやったかと寒さが走る。しばしば恣意の感じにつきまとわれ、持ち切れなくて投げ出す自分をもう思いながら、結局はまず穏当に始末している。誤差のひそむのばかりが見えて、それにかえって誘われて紙一重でやり損なうようで、さしあたり失錯は露われない。これがいつまで続く、と溜息をついて次の片づけにかかる。ビルの建築現場に関係した人の話したところでは、転落事故は午前中に起こりやすいものだが、朝方の集まりの時に、顔に焦燥や激昂の跡のあらわな者もさることながら、眼が妙に澄んで左右に振れない者のほうが要注意だという。そういう者が、しっかりと量った動作から、ちょっと首をかしげて、足場をふみはずすことがある。故意とは取れないが、まるで逆らわずに堕ちて行く。世の経済のまだ上昇期の話だ。》

川上弘美『風花』(集英社)を読み始める。
120ページほど読み進んだ。

●居酒屋でビール、おつまみに鶏のせせり、コロッケ、味噌煮込みうどん。
夜、幼馴染の腐れ縁Tと、もうひとり幼馴染(こちらは子供の頃はほとんどつきあいはなかったが)のやくざのTさんと、少女Aと、4人で会合した。
腐れ縁TとやくざTさんは、9時過ぎにしか身が空かないということだったので、まずおれと少女Aのふたりで居酒屋に入った。

少女Aと互いの近況などを話した。
彼女は、最近、昼キャバに勤めているのだそうだ。昼キャバは客層が若くて、おじさん受けのいい少女Aは、いまひとつ浮いているらしい。客席に着くと、いきなり「ミニモニじゃんけん」ゲームが始まるのだそうだ。
「つきあいきれないっすよ、じっさい」
「そりゃそうだろ。ミニモニじゃんけんゲームがどういうのか知らないけど」
「踊るんですよ」
「踊るの?」
「踊っちゃいましたよ」
「うわあ。よく分からないけど寒そうなのは伝わってくるよ」
「凍え死にです」
少女Aは最近彼氏が変わって、いまは「やってやってやりまくる時期」なのだそうだ。「すごくカラダの相性がいいんですよね。もうかなりディープにはまってます」ということである。
しかし、そんなに「ディープにはまってる」彼氏にも、自分が昼キャバに勤めていることは秘密にしているらしい。ティッシュ配りをやっていることにしているのだそうだ。
相手が大好きな彼であっても、嘘をつくということには何の罪悪感もないんだねえ、と、そう指摘すると、「そうなんですよねえ、わたし。おかしいんですかねえ」と考える様子をしていた。

9時過ぎに、場所をファミレスに移し、腐れ縁TとやくざのTさんと落ち合った。
やくざのTさんが絡んだやくざ絡みの仕事ではあるものの、仕事の内容はしごくまっとうなもので、ダークなところはどこにもない。
最近は、やくざは、警察の目が厳しくて、あまり非合法なことはできないのだそうだ。非合法なことをやるためには、やくざをやめた方がいい。やくざをやっているかぎり、できるだけ身をクリーンに保っておかないといけないということである。
ある程度話を詰め、少女Aが終電に間に合うように、11時半には解散した。
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by daiouika1967 | 2008-09-12 09:20 | 日記  

9月9日(火) 晴

●身体が心地よく疲れていて、断続的にとろとろとした眠気に襲われる。昨日の岩盤浴の余韻が残っているのだろう。特に昼前後が眠たかった。
眠気をこらえて、古井由吉『野川』(講談社文庫)を読み始める。途中うつらうつらしつつ、250ページほど読み進んだ。

●以前、どこかで、古井由吉が「小説は、書くことが何もなくなったというところから、ようやく書き始められる」という意味のことを語っているのを読んだことがある。
何も書くことがない。その場所に立って初めて、言葉の自律した運動を捉えることができる、ということだろうか。
『野川』には、どんな「事件」も、どんな「個人」のことも描かれてはいない。ただ言葉が言葉を生んでいくそのプロセスだけがそこにあって、その言葉の運動が、人間が存在するというそのこと自体が孕むドラマを映し出している。

●<ブックオフ>で、川上弘美『風花』(集英社)、せきしろ『不戦勝』(マガジンハウス)、片岡義男『白い指先の小説』(毎日新聞社)、磯崎憲一郎『眼と太陽』(河出書房新社)、新藤兼人『ひとり歩きの朝』(毎日新聞社)を買って帰った。

●夜は、パソコンに向かって、企画書をひとつ拵える仕事にかかった。最近なかなか仕事に着手できないので、朝、家を出るとき、机の周辺を片付けて、すぐに仕事にかかれる準備だけはしておいた。時間にすれば15分くらいのことなのだが、その作業が障害となって、億劫な気分が醸成されてしまう。
気の進まない仕事をこなすときには、①仕事にかかる準備をする、②とりあえず仕事にかかるが、その時点では、完成するまでやらなくてはならないという気持ちは捨てる(やれるところまでやる、という気持ちをもつ)、③仕上げの作業をして、フィニッシュ。という三段階くらいに分割して考えると、抵抗なくスムースに仕事をこなすことができる。
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by daiouika1967 | 2008-09-11 01:39 | 日記  

3月12日(水) 晴

9時過ぎ、起床。今日は10時から美容院を予約している。卵かけご飯とインスタント味噌汁、サラダの朝食を取り、シャワーを浴びて、歯を磨き、家を出た。
美容院は歩いて10分くらいの距離。今週になってから一気に暖かくなった。今日も春めいたいい陽気。
美容院に来るのは2ヶ月ぶりくらいか。ぼさっと伸びた髪の毛を短く刈ってもらい、ヘッドスパをやってもらった。カレーの匂いのするオイルを頭髪にまぶし、撫でるようにやさしく揉み解してくれる。施術してくれた美容師の女の子がとても可愛い子だったので、なんだか得したような気分になった。

いったん家に戻り、鞄を持って、12時前にふたたび家を出た。名駅の喫茶店を何軒かハシゴして、内田樹『女は何を欲望するか?』(角川新書)を読んだ。単行本の新書化だが、大幅に加筆修正が施してあるらしい。内田樹の著作は8割方読んでいるのだが、これは読んでいなかった。フェミニズム批判の書である。
「批判」であって、「否定」ではない。むしろ、内田樹は、一部のフェミニストたちの、卓越した知性によってオルタナティブな関係性の可能性を志向した、そのこと自体については、共感と敬意を抱いているように思われる。この本は、しかしやはりフェミニズムには「理論的瑕疵」があると論じ、「どうしてこのような理論的瑕疵が知的に卓越したフェミニストたちによってさえ組織的に看過されたのかという『フェミニスト・ブラインドネス』の問題」に照準を合わせている。そのようなフェミニズム批判の書である。

フェミニストは、しばしば、私たちは自分たちの言葉(女の言葉)を持っていない、他者の言葉(男の言葉)しか与えられていない、だから、他者の言葉(男の言葉)で思考し、発話しなければならない私たちは、つねに疎外されている、と語る。しかし、内田樹はそうしたフェミニストの主張に、「他者の言葉しか与えられていない」というのは、「女であるから」ではない、それは男女問わず人間に普遍的な事況なのであると反駁する。
「『私』が『私の外』へ出て振り返りつつ、『ああ、あれこそ私だ』と確信するとき、そう確信している『私』と、その確信を基礎づけた『あれ』と遠称で呼ばれる『私』のあいだには、あきらかに超えることのできない乖離が存在する。そして、人間は実際には、この乖離につねに苦しめられることになるのである。
このような人間のあり方をラカンは『根源的疎外』と名づけた。『根源的疎外』とは、人間は自分がほんとうに考え、感じていることを決して言葉にすることができないという宿命的な事況のことである。
私たちは言葉を使って自分の『内面』や『心』や『思い』を語ろうとする。だが、経験的に熟知されているように、その言葉はつねに『言い過ぎる』か『言い足りない』かどちらかであって、私の『言ったこと』と私に『言おうとしたこと』が過不足なく合致するとうことは決して起こらない」。
フェミニストが「男の言語」と名指したそれは、じっさいには「中性の言語」であるにすぎない。そして、「中性の言語」は、女にとってだけでなく男にとってもまた「他者の言語」なのである。言語は、人間にとって、つねに「他者の言語」として存在するのだ。だから、フェミストは、「私たちの言語」=「女の言語」を創造しなければならない、と唱えるが、人間が「私たちの言語」などというものを手にすることは、決して起こりえないのである。
つまり、フェミニストが「男(社会)のせい」だとする自分の疎外状況は、じつのところ、(自分が)「人間であるせい」でしかない。
となれば、フェミニストが攻撃を向ける対象は、「男(社会)」ではなく、「人間の在りよう」ということになるのではないか。
しかしそうなれば、それはもはやフェミニズムの枠組みには収まらなくなるだろう。
フェミニズムは、そこで、批判的に乗り越えられなくてはならない。

フェミニズムには、「単一の原理」に対抗するために、世界に「複数の視点」を導入する、という含みがある。
内田樹は、テクストの読みについて、そこに働く「政治的」な力について、こんなふうに語っている。
「読み手は、個人的な『懇請』に駆動されて読む。それは言い換えれば、都市に街路に生産に教育に、あるいはおのれ自身の欲望に語法に介入されつつ読むということである。完全に無垢で、透明な読み手というようなものは存在しないし、仮に存在してもそのような読み手はテクストを一字として読むことができないだろう。『リテラシー』とは読み手の経験のことであり、実人生のことであり、『汚れ』のことだからである。
私たちが(フェルマンとともに)照準しようとしているのは、ある読み手のリテラシーにはどのような状況的与件がどのような仕方で関与しているか、という政治の問題である。
レヴィナスはそこに『イデア中心主義』を検出し、バルトは『ヨーロッパ中心主義』を検出し、フェルマンは『女性嫌悪』を検出する。それぞれの分析はそれぞれに説得力がある。そういう場合のいちばん常識的な対応は、たぶんそういったものは全部私たちの読みに関与していると考えることだろう。
さまざまな要素が私たちのリテラシー(先ほども言ったようにそれは『汚れ』のことだ)の形成に参与している。人種、性差、階級、信仰、政治的立場、国籍、職業、年収、知能程度、家庭環境、病歴、性的嗜癖……などなどさまざまなファクターが私たちの読みには関与している。そのうちの一つだけが決定的なファクターであり、あとは論ずるに足りないと言い切るためには、かなりの傲慢さと鈍感さが必要であろう。
複数のイデオロギー的バイアスが読みには加圧されており、そのバイアス圧の強弱や濃淡の布置は一人ひとり違う。私はそのように考える。
しかし、そう考えることはフェミニストには許されない。私の考えを認めると、『すべての人はそれぞれ固有の仕方で(言い換えれば、それぞれ固有のイデオロギー的バイアスの下で)テクストを読む』ということになり、『女性だけが固有の仕方でテクストを読むことを許されていない』という議論の前提が崩れてしまうからである」。

3時頃、読み終え、次に古井由吉『ロベルト・ムージル』(岩波書店)に取りかかる。栄から名駅まで喫茶店をハシゴしつつ、6時前までに、130ページ読み進んだ。
夕方、ビックカメラに寄り、黒沢清監督『cure』のDVDを買った。前にVHSで持っていたのだが、DVDで買いなおした。ポイントが溜まっていたので、支払いはなしですんだ。
7時、帰宅。夕飯はレトルトのカレー、サラダ。食後にカステラを4切れ。10時まで、テレビを点けて、パソコンの前で仕事をし、10時から『cure』を観た。
今日は、Pがやたらと鳴声を上げる。ヒモを振ってじゃらしたりしながら宥めてやったが、なんだか終始目つきが落ち着かない。何かに興奮しているようだった。
1時過ぎ、就寝。
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by daiouika1967 | 2008-03-13 12:23 | 日記