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6月8日(水) 曇

昨日とは打って変わって仕事がはかどった。午前中資料作成、午後プレゼン、夕方制作ミーティング、夜マーケティング戦略会議。すべて、よどみなく、迷いなく、さらさらと消化する。

今日は音楽も聴かず、本も読まず、夜までフラットな時間がつづいた。

夜、妻が、急遽東京に行くことになった、というので、車で名古屋駅まで送る。

眠る前、ベッドのなかでちょろちょろと読み進んでいた島尾敏雄夫人、島尾ミホの回想録『海辺の生と死』(中公文庫)を読み了えた。
文章の端々から奄美の風光がきらめきたつようで、けっして安穏としたことばかりが書かれているわけでもないのだが、読んでいると南島特有のおおらかで包容的な時間に包まれる心地になる。寝る前には、ちょうどいい読み物になった。
解説は吉本隆明。昨日読んだ大澤信亮の柳田国男論で、しばしば吉本が引用されており、ちょうど吉本の文章が読み直したくなっていたところだった。この本の解説が吉本だとは知らなかったので、シンクロニシティの感を覚える。
大澤信亮の文章を読んで、私は柄谷よりむしろ吉本を読み直したくなった。大澤信亮の文章からは過剰に受苦的な感性が感じられたが、こうした感性の持ち主が感応する吉本(抽象力で人間の「起源」「原型」「普遍」に遡行していこうという強い意志を持つ思想家としての)に、私は強く惹かれる。80年代、栗本慎一郎もまた同じく受苦的な感性の持ち主だったが、思えば、私が最初にのめりこんだ吉本の著作は、栗本との対話『相対幻論』だった。『共同幻想論』『心的現象論』といった主要著作群も、しばらくは栗本による「読み」をなぞるようにして読んでいたのだった。
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by daiouika1967 | 2011-06-09 23:17 | 日記  

10月9日 金 晴

台風も過ぎ、昨日の午後から晴天。

川端要壽『堕ちよ!さらば ―吉本隆明と私』(河出文庫)読了。後半は、著者が競馬にのめりこんでいく後半生が描かれる。自らの裡にあった禁忌をついに破り、吉本隆明に金を無心するくだりが、この小説の最終章の山場になるが、そこで著者が吉本から言われる言葉が、「なあ、佐伯。人間はほんとうに食うに困った時は、強盗でも、何でもやるんだな」というものである。
小説には吉本の今井正監督「純愛物語」の批評、さらにその内容を凝縮した高村光太郎についての講演のあるくだりが引用されている。二箇所を孫引きしておく。
―「私は、人間は食えなくなったら、スリでも、強盗でも、サギでもやって生きるべき権利をもっていると、かねてからかたく信じたいと思っているが、この映画の主人公貫坊と恋人の不良少女ミツ子は、まさしく、そういうモラルの実践者なので、わたしが狂喜したのは云うまでもない」。
―「人間をはかる価値基準というものを考えていきますと、善だから価値があって、悪だから価値がないというようなことはいえないし、また、道徳的だからよろしくて、背徳的だから悪いということもいえない。ひじょうに折り目正しく礼儀正しいから、真実だから、それが価値があるというふうにもいえない。また、狡猾であるから、またどう猛であるから、それが価値がないということもいえないということです。(略)ほんとうに価値があるということは、そこに作為あるいは外界に対する配慮というものがまったくなく、やることが<自然>であるならば、つまり、やることになんら作為がないならば、狡猾であろうとどう猛であろうと、価値があるんだという考え方です。」

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by daiouika1967 | 2009-10-10 21:33 | 日記  

10月6日 火 雨

今、これを書いているのは、8日(水)の深夜なのだが、テレビでは台風18号のニュースがやっている。二年ぶりの日本上陸だそうだ。かなり強い台風らしい。
今日(6日、火曜日)も、一日台風前の不穏な天気だった。時々雨のぱらつく曇天。

仕事の合間に、川端要壽『堕ちよ!さらば ―吉本隆明と私』(河出文庫)を読み始める。
「典型的な戦中右翼」であった吉本が、敗戦という「挫折」をいかにヘヴィに受け止め、その負の体験から自らの思想を鍛え上げていくか。その辺りの思想的なドラマは、吉本自身の回顧的な語りに詳しい。
敗戦を経る前の青年期の自身については、吉本自身は「傲倨に満ちた青年期」と、その自らの在りようを否定的に提示するのみだが、この小説には、そうした否定的な自画像とは違った、著者のような近しい者だけが描くことのできる、いわば「魅惑的なカリスマ」としての吉本隆明が活写されている。
逆に、敗戦後、吉本の内面で展開される「思想的なドラマ」については、著者はそれを共鳴的に追跡しうる資質の持ち主ではないようだ。著者は、自ら、こう書いている。
―「所詮、吉本が苦悩した敗北と挫折に比較するならば、私の挫折など物の数ではなかった。つまり、私には敗北とか挫折などと意識の深層で現実を把握するほどの能力もなければ、資質もなかったのだ。だから、吉本が苦境の時代を見事に再結晶させたにもかかわらず、私は再結晶させるスベも知らず、そのままズルズルと泥沼にのめりこんでいくように、居心地のよい人生の裏街道を突っ走ってしまったのである。」なるほど、思想家としての資格をもつ者とは、「意識の深層で現実を把握」し、自らの「苦境の時代を再結晶」させる資質の人間なのである。それは、吉本自身に言わせれば、ある種の病的な人間の
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by daiouika1967 | 2009-10-08 00:41 | 日記  

4月25日 雨

終日雨。終日睡魔に襲われる。心身鈍重。
三省堂の新書棚で鈴木英生という人の『新左翼とロスジェネ』(集英社新書)というタイトルが目に留まり、目次を見ると、新左翼の運動と、現在のいわゆる「ロスジェネ」世代の「左翼的運動」、ざっくりとその流れをおさらいしてある本のようだった。今日は頭も働かないし、何かそれほど頭を使わずに読める読み物が欲しかったので、買うことにする。
地下の喫茶店はどこも湿気っぽく、混んでいる。傘をさして外に出て、名駅の地下街から5分くらい歩いたところにあるドトールに行くと、予想通り、店はガラガラだった。コーヒーとホットドッグを食べながら、さっき買った新書をサラサラ読む。途中、睡魔に身をゆだね、15分くらい仮眠をとった。
新左翼も、現在のロスジェネ世代の問題も、社会的な構造を変革しようという運動であるとともに、その運動の動機として、当人の「実存的」な問題が混入していることで共通している(もちろん「運動」とは多かれ少なかれそうしたものだろうが)。
吉本隆明は、たとえば派遣村などの現象に見られる今の「貧困問題」についてどう思うか、という質問に対し、いや、「貧困問題」というが、戦後すぐの一時期のように、本当に食えないという状況になっているとは思わないと答えている。ここで云われているのは、戦後すぐの一時期は、「飢えをどう解消するか」ということが中心の問題になり得たが、今の「貧困問題」の中心は「飢えの解消」というところにはない、ということのように思う。だからダメだ、と吉本は云っているのではない。だから、問題の解消が困難なのだ、と云っている(ように思う)。それでは、そもそも、そこでは「何が」問題になっているのだろうか。
鈴木英生は、新左翼の源流のひとつブントについて、西部邁の回想録を引きつつ、こう書いている。
-「革命を目指す組織には、革命のための理論が必要というのが、それまでの常識だ。大学生中心のブントは、独自の理論家を擁しているわけもなく、既存の哲学者や経済学者の議論、あるいはスターリンと対立したトロツキーの革命論に頼った。だが、西部によれば「ほとんどなんものをも信じていないという点で、ブントほど愚かしくも傲慢な組織は他に例がない」。西部が語るブントは、「自分の虚妄(注:掲げている理念や理論の空虚さだろう)については鋭敏」、つまり覚めていた。にもかかわらず、「明るく頑固に自己を肯定しようとしていた」、つまり虚妄をそれとして押し通したのがブントだ。八十年代に流行った言葉を使えば、「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」のがブント流だったとでもいえようか。」
「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」というのは、浅田彰の書きつけた言葉で、そんなふうに「人生」をカモフラージュして生きる様が、当時のおれにはとてもかっこよく映った(いまでも、おれは、そんなふうに「人生」に対峙している)。
ブントに始まって全共闘へと継承される新左翼、そのブントにも立ち会った柄谷行人、『批評空間』や「NAMの運動」で柄谷と「共闘」した浅田彰を経て、ロスジェネへと流れる、「左翼的心性」。「実存的」な。……
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by daiouika1967 | 2009-04-27 10:17 | 日記  

9月17日(水) 晴のち雨

金井美恵子『小説論 ―読まれなくなった小説のために』(朝日文庫)を読む。

小説を読むためには、五感の鋭敏な、両性具有の身体をもたなければならない。
そのような身体で、物語にも意味にも収まることのない、多様な語りのざわめきのなかを、きわどく彷徨うような体験が、「小説を読む」という体験なのである。

《城殿「金井さんは、描写と映像の関係について、作家や批評家が一般に抱きがちな錯覚を、ご指摘になってらしたことがございますよね。つまり、細かく書けばそれが映像的になるのだという、言葉と映像の関係を短絡した単純な思いこみがまずあるのだとすれば、それに対して、「言語の線条性」は本来映像とは相容れないものだから、むしろ細密な描写を重ねるほど、文の中に時間的な遅延が生じてしまい、言葉はかえって対象から遠ざかるばかりなのではないかという、やはり紋切り型の批評が一方にあります。」
金井「仮にそうだとしても、私は全然かまわないんですけれど(笑)。そういう部分のない文章は、批評の場合でも嫌いですね。描写というのはすればするほど対象をかえって曖昧にしてしまう、ちょっと気違いじみたところのある欲望なんですね。適度な描写なんか、他人の文章を読んでいても苛々して、書き直してやりたくなる。鏡花や谷崎を読んでいても、時々そう思う(笑)。ただし、過剰に書くというのは、これはとても緊張感を強いる書き方で、とても疲れますね。それと、小説は詩ではないので、俗悪で通俗的なことを、いろいろと書けるという大変な強みがあって、それが私を小説につなぎとめていると思います。」》


●<三省堂>で、養老孟司・竹村公太郎『本質を見抜く力 ―環境・食料・エネルギー』(PHP新書)、村田喜代子『名文を書かない文章講座』(朝日文庫)を買う。
養老孟司・竹村公太郎『本質を見抜く力 ―環境・食料・エネルギー』を読み始め、170ページほど読み進んだ。

人間は、自然と交換することなしに、生命を存続することはできない存在である。
だから、人間の社会、文明を見るとき、まずその基盤となるモノとの関係において見なければならない。
《養老:モノから考えるというのは基礎から考えるということです。そうしないと人間はふらふら動き出してしまう。この対談を石油の問題で始めたのは、モノを見ればわかるということを示したかったからです。しかし、ここまで来ないとそれがわからないということは、そこが隠されているということですね。
バブルのときに、どうして経済が右肩上がりで成長するのかと言われたでしょう。いつまでも右肩上がりのはずがないと。それが実質的に何を意味していたかというと、石油はいつか切れるということを意味していたのです。》

この対談で語られるモノとは、具体的には石油と水、そして食料である。人間の歴史をこうした資源の争奪戦として捉える視線が、具体的な情報(これがじつにエキサイティングなのだが)に基づいて提示されている。

●<ブックオフ>で、横尾忠則『導かれて、旅』(文春文庫)、洲之内徹『帰りたい風景 ―気まぐれ美術館』(新潮文庫)、本谷有希子『生きてるだけで、愛』(新潮社)、車谷長吉『四国八十八ヶ所感情巡礼』(文藝春秋社)を買う。

●『吉本隆明50度の講演』から、「フーコーについて」を聴く。
国家は社会を包括するものでなく、国家と社会は分けて考えられるというのが、ヘーゲル-マルクスの国家論の眼目である。この考え方をとれば、国家は歴史のなかで必要に応じて発生したものであり、だからいずれ歴史のなかで解消に向うのだということがはっきりする。
国家の前段階あるのは法であり、法の前段階にあるのは宗教である。

●夜、荒俣宏『荒俣宏の裏世界遺産1 ―水木しげる、最奥のニューギニア探検』の続きを読む。
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by daiouika1967 | 2008-09-19 08:52 | 日記  

9月6日(土) 晴ときどき雨

●ジメジメジトジトの鬱陶しい天気。今週はずっとこんな調子だった。いつまでつづくのか。いいかげんにしろ、という気分だが、自然に文句言っても詮無い。

町田康『宿屋めぐり』(講談社)を読み継ぎ、読了する。
近代文学、いわゆる「文学らしい文学」は、「人間関係」を書く。「人間関係」という織物の綾が、いかに細密に的確に描かれているかが、「文学らしい文学」の「本当らしさ」、すなわち「リアリズム」の基準になる。
しかし、自分がじっさいに生きている、いま、この場所で起こっていること、「ほんとうのリアル」を見据えて描こうと思ったとき、こうした「リアリズム」はまったく役に立たないのだということがわかる。
現代において、「リアリズム」はもはや「リアル」を書くことができない。

そもそも「リアリズム」において書かれる「人間関係」とは何なのか?石川忠司は『現代小説のレッスン』(現代講談社新書)のなかでこう言っている。
《文学作品と実生活とを問わず、一般に「人間関係」とは、「告白」や「心理分析」などの言語活動が当事者たちの間で沈殿、腐敗し、お互いがお互いの勝手な理解とか(相手に対する)結論に到達した挙げ句、それが彼ら(彼女ら)を予定調和的に縛って作られる実に嘘くさい「文学」的構築物だ。》

町田康の小説で、「告白」や「心理分析」が出てくるとすれば、その「告白」や「心理分析」は、あらかじめ間違ったものとして、つまり、「誰かの思い込み」でしかないことが明白な形で提示される。
ただし、町田康の小説では、その「誰かの思い込み」が、過剰なまでに丁寧に描写されていて、読んでいるとふと、自分自身もまた何らかの「思い込み」のなかに生きているのではないか、いや、そもそも「思い込み」の外部、つまり「客観的」な世界に生きている人間なんて存在しないのではないか、という気分、というか認識に襲われる。

誰もが「間違った思い込み」のなかにいる。
「間違った」世界のなかで、「間違った」自分を生きている。
そこには、「予定調和」をもたらすような統括的な視点は存在せず、したがって「人間関係」は書かれ得ず、「人間関係」のないところでは「自分」もまた確固としたアイデンティティをもったものではなくなる。
「自分」は、そこで起こる事件や登場する他者に触れて、いかようにも変態、変身しうる、なんだかぐにゃぐにゃしたものになるだろう。
そうなれば、その「自分」を通してしか描かれ得ない「世界」もまた、ぐにゃぐにゃした時空のなかにただよう、なんだかはっきりしないものになるはずだ。

しかし、おれたちは、じっさいに、そんな「自分」のまま、そんな「世界」に彷徨っているのである。

●歩きながら、吉本隆明『50度の講演』、「親鸞の造悪論」を聴いた。
録音が悪くて、最初、言葉を聴き取るのに苦労したが、しばらくするとすぐにそんなことが気にならなくなった。それくらい熱の入った講演で、オウム事件について語る吉本隆明のアグレッシヴな語り口には、大げさに言えばすこし畏怖の感を抱かせるくらいの迫力を感じた。

物事を考えるのなら、自分の頭で、根源的なところまで考えていかなければ、なんにもならない。
そうして「自立した思想」を獲得するのでなければ、最初から何も考えないのと同じこと(いやもっと悪い)だ。
それは、容易になしうることではない。自立した思想の言葉は、すさまじいたたずまいをしている。

●夜、DVDで『7月24日通りのクリスマス』。吉田修一の原作は、通俗的なラブストーリーになるところを、きわどいところでもちこたえているような小説だったが、映画の方はまるでダメだった。シナリオもダメ、演出もダメ。ちょっとひどすぎて、何がどうダメなのか言葉にする気力もない。
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by daiouika1967 | 2008-09-07 12:34 | 日記  

9月5日(金) 曇ときどき雨

●蒸し暑い、鬱陶しい天気だ。気温はさほど高くもないのに、胸元に汗がジトジトと滲む。
今日は、打ち合わせがふたつ。午後、ひとつと、夕方ひとつあった。ヒルトンのロビーで一本目の打ち合わせを終え、<くねくねラーメン>でにんにくたっぷりのベトコンラーメンを食べて、<三省堂>へ歩く。

●<三省堂>では、町田康『宿屋めぐり』(講談社)を買った。600ページの分厚さ。夕方の打ち合わせまで3時間ほど時間があったので、喫茶店に入り、さっそく読み始めた。100ページ目くらいで完全に作品の世界に没入し、250ページまで読み進んだところで時間になった。作品の感触としては、しりあがり寿『真夜中の弥次さん喜多さん』に近いような…、という漠然とした感想をもつ。

●大須を抜けて上前津の事務所まで歩き、今日二本目の打ち合わせに入る。すこし長引いて、4時間強かかった。家に帰ると夜11時前になっていた。なんだか変に神経がピリついていた。打ち合わせで話しすぎたせいか、蒸し暑さのせいか、昼食べたベトコンラーメンのせいか。
神経を鎮めるために、ユーカリの香りのするバスソルトを入れたぬるめの風呂にゆったりと浸かった。

●今日もよく歩いた。一万三千歩歩いた。歩いている間に、吉本隆明『50度の講演』から、「苦難を超える ―『ヨブ記』をめぐって」を聴いた。

いいことは真にいいことなのか、悪いことは真に悪いことなのか。
いいことをすればいい報いがあり、悪いことをすれば罰せられる。その倫理観念は、正しいのであろうか。現実にはどうなのだろう。
例えば、大地震に襲われれば、個々の人間の善悪など何の関係もなく、ある人間が死に、ある人間が生き延びる、その運命を分かつのは、偶然によるものでしかない。
人間は、人間のもつ倫理観念などにはいかなる関係ももたない、自然という環境のなかに棲んでいる。自然との交換なしには、人間の生は一分たりとも立ち行かない。
そのような存在条件をもつ人間にとって、倫理観念は、ある区切られた範囲でのみ通用する暫定的な取り決め以上のものではない。
善悪の区別は、どこまでも相対的にしかなしえない。絶対的に正しいこと、絶対的に間違っていることなどは、この世には存在しない。

人間は“神”の前では、いかなる決定権をも持たない、卑小な存在でしかないのだ。
自分はいいことをしている、―そう思っている人間は、“神”にその傲慢さを罰せられることなるだろう。
いいことをするときは、なるべくひっそりと、むしろそのことを恥じつつ行なわなければならない。

あるいは“神”とは、人間が、自らの卑小さを照らし出すために創造した観念であるのかもしれない。
そこで通用している倫理観念が、偶々そうであるものであるものに過ぎず、なんら絶対的なものではなく、だから変革も可能であるようなものでしかない、ということ。
“神”とは、人間が自らの存在の卑小さを自覚することで、逆説的に変革の可能性を開くための、狡知に長けた人間が創造したひとつの観念なのかもしれない。
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by daiouika1967 | 2008-09-06 08:31 | 日記  

9月2日(火) 曇ときどき雨

●企画書をひとつ書き上げなくてはならない。簡単なやつだ。2時間もかかりきれば済む。しかしそれがなかなか手につかない。仕事にかかるというマインドセットができないのだ。最近ではこういうことはめずらしい。淡々と仕事にかかることができたのが、今日はどうもダメだ。

●やんなきゃな、と思いつつ、雨がやんだので、“とりあえず”散歩に出る。吉本隆明の講演「中原中也と立原道造 ―自然と恋愛」を聞きながら、ぶらぶらと歩いた。
吉本隆明の言葉は臓腑に響いてくる。『吉本隆明50の講演』を買って、その語りを耳で聞くことが多くなって、改めてそのことを実感した。
吉本隆明は、「言葉に価値というものがあるとすれば、それは、コミュニケーションの量によってではなく、沈黙の量によって高められる」というような意味のことを言う。「沈黙の量」とは、つまり、あるひとつの言葉に、自分自身との対話の時間がどれだけ含まれているのか、ということだろうと思う。「それはどれだけ考えぬかれた言葉なんだ?」ということが問われているのだと言ってもいいかもしれない。
その声を聞いていると、吉本隆明の言葉は、どれも考えぬかれて発せられたものであるように感じる。だから臓腑に響くのである。

●人間は五感だけではなく、主に内臓感覚において自然と感応する。だから、例えば人間にとってなぜ緑が大切なのかといえば、それは人間にその緑と感応する内臓というものがあるからだ、ということになる。
大正の終わりから昭和の初めにかけて、人間のもつ自然への感応を詠じた詩人たちが多数輩出した。自然への感応を、五感から内臓感覚までを総動員して、そのあらゆる階梯を表現した詩人たちが、その一時期になぜか多数現れた。中原中也と立原道造もまた、そうした「自然詩人」たちのひとりと位置づけられるだろう。…講演はそんな語りから始められ、彼らの表現が、同時代の西洋のアバンギャルド(ダダやシュルレアリスムなど)とどのように共鳴し、そのことがどのように、それまで日本には存在しなかった「言葉の組み合わせ・扱い方」を産んでいくことになったのか、実作の例を挙げながら進められていく。…

●ツインタワーの<三省堂>まで足を伸ばし、ゲッツ板谷『インド怪人旅行』(角川文庫)、日本経済新聞社編『インド 目覚めた経済大国』(日経ビジネス文庫)を買う。
喫茶店で、『インド 目覚めた経済大国』を読み始める。序章、第一章を読む。読みながら、インドが中国と大きく違うのは、インドは「世界最大の民主主義国家」ってところなんだな、とあらためてそう気づいた。
民主主義国家、ということは、選挙を睨んだ政策が実施されるということである。インドは現在、税金を納めていない貧しい農民層が国民のマジョリティを占めている。だから選挙で彼らの票を取るためには、彼らの生活を向上させるような、「底上げ政策」をとらざるを得ないということになる。中国のように一党独裁の中央強権国家とは、そこが違う。短期的な経済の成長速度だけを考えると、中国の方が有利であるようにも思うが、中長期的にみれば、インドの方が着実であるようにも感じる。

●夜、9時過ぎに、ようやく仕事にとりかかる。特に「さあ始めるぞ」と力をこめたわけではなく、なんとなくパソコンに一行、文章を打ったら、そのままその一行に引きずられてずるずると仕事に入ってしまい、最初の見当どおり二時間後には企画書ができあがっていた。
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by daiouika1967 | 2008-09-04 10:57 | 日記  

8月15日(金) 晴

終戦記念日。北京オリンピック開催中。新聞の一面には「北島康介が2大会連続金メダル2個の快挙」と大きく載っている。おれは、格闘技以外のスポーツ観戦の趣味がないので、オリンピックの報道を読んでも、別の国同士の戦争のように遠い出来事のようにしか感じられない。今回のオリンピック、世間でも何となく盛り上がりに欠けているように思うのは、気のせいだろうか。おれが世間と没交渉で過ごしているからそんなふうに感じるだけなのだろうか。

おれにとって目下の関心は、中国ではなく、インドである。今日は終日、中谷美紀『インド旅行記』(冬幻舎文庫)の、2、3、4巻を読んで過ごした。2巻は南インド編、3巻は東・西インド編、4巻は1~3巻までの旅程で中谷美紀が撮った写真を編んである。

<ジュンク堂>へ行き、関口真理編『BRICs』の一角で注目される インドのことがマンガで3時間でわかる本』(アスカ)、渡辺京二『アーリイモダンの夢』(弦書房)、『論座』(鷲田清一のインタビュー、浅尾大輔による吉本隆明へのインタビュー、夏目漱石の大連での幻の講演などが目当て)、『新潮』(水村美苗の「日本語が亡びるとき ―英語の世紀の中で」、青木淳悟「このあいだ東京でね」、保坂和志の新連載「Kの眠り、ビュルゲルの情熱 ―カフカ『城』ノート」、前田塁「探偵の物語2008 ―平野啓一郎『決壊』をめぐって」、吉田修一「やつら」等が目当て)を買う。

喫茶店でさっそく『論座』を開き、鷲田清一のインタビュー、浅尾大輔による吉本隆明へのインタビュー、杉田敦へのインタビューを読む。
浅尾大輔による吉本隆明へのインタビューでは、吉本隆明がいわゆる労働運動の「現在」についてどんな可能性を見ているのか、ということが興味があった。浅尾大輔は、いわゆる教条的な共産党員とは違って、労働問題において、現在何が「問題」であるのか、その現実を捉えるアクチュアルかつ柔軟な眼差しを持った人であるように思う。労働運動の「現在」について、吉本隆明へのインタビューできる、最適の人選であると思う。
浅尾大輔の「運動と文学をやっている」という言を受けて、吉本隆明は「文学はやめないほうがいいです、文学をやめると物事を理解する頭が単純になって、それで誤ってしまう」というような意味のことを語っていたのが印象に残った。
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by daiouika1967 | 2008-08-17 11:03 | 日記  

7月19日(土) 晴

からっと晴れた。気温は高くなったが、湿気はあまりなく、乾燥していて、過ごしやすかった。

柄谷行人『増補 漱石論集成』(平凡社)を読む。357ページまで読み進んだ。
“夏目漱石週間”ということで、4週間(24日間)にわたって、夏目漱石の小説、評論、講演録、夏目漱石についての批評などを読んできたが、今週でいったん切りをつけることにする。

吉本隆明講演録、今日は1988年に行なわれた日本経済についての講演を聴いた。1988年といえばバブル経済真っ只中である。現在とはまったく状況が違う。しかしその時代の違いを越えて、吉本隆明の話は、現在までその射程が届いている。つまり、それだけラディカルなのである。その時代特有の現象を話題として取り上げつつ、その掘り下げ方に、常に「普遍」を考える眼差しが注がれている。だから、吉本隆明の言葉というのは、取り上げたトピックが解消してしまえばそれで意味がなくなってしまうような内容ではない。

<ブックオフ>で、水木しげる『異悦録 ~水木しげるの世界』(角川ホラー文庫)、川田順造『サバンナの手帖』(講談社学術文庫)、森鴎外『青年』(岩波文庫)、田山花袋『東京の三十年』(岩波文庫)、石川啄木『一握の砂・悲しき玩具』(新潮文庫)、谷崎潤一郎『細雪』(中・下)を買う。

夜、DVDでマイケル・マン監督『コラテラル』を観る。ミュージックプロモのようにカット割りの多い、キメキメのスタイリッシュな映像の映画なのだが、“それでも”映画の本質的なリアリティを逸していない。主演はトム・クルーズ。『宇宙戦争』の時も思ったのだが、トム・クルーズは、ちょっと陰惨な感じの役柄をやってもぴったりはまる。
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by daiouika1967 | 2008-07-20 10:44 | 日記