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7月22日(火) 晴

柄谷行人『増補 漱石論集成』(平凡社)の続きを読み継ぎ、読了する。

《告白しうる真実などはとるにたらない。漱石が告白しなければならないがゆえに告白しえない何ものかを所有していたことは明らかである。それが何であるか、私は知らないし、知りたいとも思わない。ネタが割れたとしても、たかだか自然主義的な「真実」にすぎまい。だが、漱石が、あるいはわれわれがかかえている真実とはそんな単純なものではないはずだ。『こころ』を読んだ読者にはすでに明瞭であろう。漱石の眼が人間の心理をあばいて得意になる類のものではなく、われわれの生存を不可避的に強いている何ものかに向けられていることが。そして、こういうときに、漱石は人間の孤独というものを凝視するほかなかったのである。》

《シクロフスキーは、リアリズムの本質は非親和化にあるという。つまり見なれてしまったために、事実上見ていないものを見させることである。したがって、リアリズムに一定の方法はない。それは、親和的なものをつねに非親和化しつづける、たえまない過程にほかならない。この意味では、いわゆる反リアリズム、たとえばカフカの作品もリアリズムに属する。リアリズムとは、風景を描くのではなく、つねに風景を創出しなければならない。それまでだれもみていなかった風景を存在させるのであり、したがって、リアリストはいつも「内的人間」なのである。》


続けて、田山花袋『東京の三十年』(岩波文庫)を読み始め、130ページ程読み進む。
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by daiouika1967 | 2008-07-23 22:40 | 日記  

7月18日(金) 雨のち晴

午前中驟雨。ひどく蒸し暑い。汗が首もとに粘つく。不快だ。寝不足も重なって頭がぼうっとする。本を開いても数ページ読み進むと集中力が途切れて瞼が重くなる。それでも無理やり吉本隆明『夏目漱石を読む』(筑摩書房)の続きを読む。

《漱石がわたしたちに偉大に感じさせるところがあるとすれば、つまり、わたしたちだったら、ひとりでに目に見えない枠があって、この枠のなかでおさまるところなら、どんな辛辣なことも、どんな自己批評も、どんな悪口も、なんでもいうということはありうるわけですけれども、漱石は、そういう場合に真剣になって、度を越してあるいは枠を超えちゃっていいきってしまうところだとおもいます。じぶんに関することもそうですが、文明批評に関することでも、他人の批評に関することでも、あるいは世間にたいすることでも、ぜんぶ、枠組みを超えていいきってしまうところがあります。しかも言い方が大胆で率直なものですから、すこしも悪感情をもたせないんです。しかし常人だったら、ここでとめるというようなところを、はるかに枠を超えていいきってしまいます。そういうところでやはりこの作家の偉大さを感じます。漱石が、度を越して、あるいは閾を超えてひとりでに入っていってしまうところ、別にためらいもないし、また利害打算もどこにもなくて、ほんとに心からいいきってしまうところが魂の大きさで、なかなかふつ作家たちがもてないものですから、偉大な文学者だなとおもうより仕方ないわけです。》

昼からはからっと晴れた。しかし湿気は多く不快である。読書にも集中できないので、大須から上前津、鶴舞の古本屋を見回る。
MP3プレイヤーで吉本隆明の講演を聴きながら歩いた。吉本隆明の語り口は、性急な印象というのか、ひとつのセンテンスを言い終わると、まったくタメを置かずに、かぶせるように「つまり」「それで」と次のセンテンスに移行する。強調したい箇所では同じフレーズを何度か繰り返す。全体に流暢ではないのだが、自前で考え抜かれたうえの言葉しか発せられていないから、迫力、説得力がある。聴いていると、「自分の頭で考える」ということがどういうことなのか、ひしひしと伝わってきて感動を覚える。さっき、吉本隆明が夏目漱石について語った、漱石には「度を越して、あるいは閾を超えてひとりでに入っていってしまうところ、別にためらいもないし、また利害打算もどこにもなくて、ほんとに心からいいきってしまうところ」がある、という箇所を引用したが、吉本隆明の講演を聴いていると、吉本隆明という人にまったく同じことを感じる。
今日聴いた講演の内容は「太宰治について」。「ほぼ日」で買った糸井重里編『吉本隆明の声と言葉。』(CDブック)の特典としてダウンロードしたものである。
古本屋では、武田百合子『富士日記』上・中・下(中公文庫)、小泉八雲(平川祏弘編)『奇談・会談』『クレオール物語』(講談社学芸文庫)、谷川健一『魔の系譜』(講談社学芸文庫)を買う。すべて新刊で買おうと思っていたものなのでずいぶん得をした気分になる。
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by daiouika1967 | 2008-07-19 23:31 | 日記  

7月16日(水) 曇

今日も暑かったが、雲が陽射しを遮り、風もすこしあって、昨日までよりは幾分過ごしやすかった。
夏目漱石週間”、秋山豊『漱石という生き方』の続きを読み、次いで『漱石の森を歩く』(トランスビュー)を読む。秋山豊は、元岩波の編集者で、漱石の全集を編集した。《大人になりかけのころに漱石に出会って、以来ずっと漱石のことを考え、漱石とともに考えてきた》人で、この二冊の本は、《漱石に寄り添って、よく彼の言葉を聞き取りたい》というスタンスで書かれたエッセイである。特に一冊目の『漱石という生き方』の方は、出久根達郎が「推理小説を読み進めるような面白さ」と評しているように、サスペンスフルな書き方がされていてぐいぐい引っ張られる。
夕方、<ジュンク堂>に寄り、吉本隆明『夏目漱石を読む』(筑摩書房)、柄谷行人『増補 漱石論集成』(平凡社ライブラリー)を買う。
家に帰ると、妻がベランダに出て、プランターをいじっていた。キュウリがだいぶ伸びてきたので、すこし大きな鉢に植え替えている。おれもベランダに出て手伝った。こういうことをやっているとあっというまに時間が経つ。6時には帰ったのだが、気づくと7時半になっていた。
夜、DVDで、ケラリーノ・サンドロヴィッチの脚本・監督、奥菜恵、犬山イヌコ、池谷のぶえ主演『おいしい殺し方』を観る。池谷のぶえにはまった。彼女のちょっとした台詞、表情に笑い転げる。
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by daiouika1967 | 2008-07-17 21:55 | 日記  

7月15日(火) 晴

猛暑。
夏目漱石週間”、今日は『倫敦塔・幻影の盾・他五編』。初期の短編集。これで、岩波、新潮文庫で読める夏目漱石の小説はすべて読んだことになる。
<ジュンク堂>で、秋山豊『漱石という生き方』『漱石の森を歩く』(トランスビュー)を購入。本屋の棚で何気なく手に取ったのだが、柄谷行人と出久根達郎が帯に推薦文を書いていて、興味が惹かれた。
『漱石という生き方』から読み始める。28節、208ページまで読み進んだ。
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by daiouika1967 | 2008-07-16 09:22 | 日記  

7月14日(月) 晴

猛暑。
夏目漱石週間”、四週目。今週がラストウィークになるはずだ。今日は『坑夫』。
《人間のうちで纏まったものは身体だけである。身体が纏まってるもんだから、心も同様に片附いたものだと思って、昨日と今日とまるで反対のことをしながらも、やはり故の通りの自分だと平気で済ましているものが大分ある。のみならず一旦責任問題が持ち上がって、自分の反覆を詰られた時ですら、いや私の心は記憶があるばかりで、実はばらばらなんですからと答えるものがないのは何故だろう。こう云う矛盾を、屡経験した自分ですら、無理と思いながらも、聊か責任を感ずる様だ。してみると人間は中々重宝に社会の犠牲になる様に出来上がったものだ。》
ある普遍を求めつつ、自分自身の内実においてすら、確固としたものが何もない。自分自身すら恃むことができないにもかかわらず、それでも実のある誠を得たいと希求する。漱石の基本テーマのひとつが、この小説でも展開されている。
夜、DVDで『必殺4』。深作欣二が撮った「必殺シリーズ」の映画版である。ゲストは千葉真一、真田 広之の師弟コンビ。深作欣二は悪人を痛快に描く職人的な監督だが、真田 広之がその悪役をよく演じきっていた。
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by daiouika1967 | 2008-07-15 20:17  

7月12日(土) 晴

盛夏の熱暑。これだけ暑いといっそ気持ちがいい。

夏目漱石週間”、三週目最期の今日は、『二百十日・野分』
《ほかの学問はですね。その学問や、その学問の研究を阻害するものが敵である。たとえば貧とか、多忙とか、圧迫とか、不幸とか、悲惨な事情とか、不和とか、喧嘩とかですね。これがあると学問が出来ない。だあkらなるべくこれを避けて時と心の余裕を得ようとする。文学者も今まではやはりそう云う了簡でいたのです。そう云う了簡どころではない。あらゆる学問のうちで、文学者が一番呑気な閑日月がなくてはならん様に思われていた。可笑しいのは当人自身までがその気でいた。然しそえrは間違です。文学は人生その物である。苦痛にあれ、困窮にあれ、窮愁にあれ、凡そ人生の行路にあたるものは即ち文学で、それ等を嘗め得たものが文学者である。文学者と云うのは原稿紙を前に置いて、熟語字典を参考して、首をひねっている様な閑人じゃありません。円熟して深厚な趣味を体して、人間の万事を臆面なく取り捌いたり、感得したりする普通以上の吾々を指すのであります。その取り捌き方や感得し具合を紙に写したのが文学書になるのです。だから書物は読まないでも実際その事にあたれば立派な文学者です。従ってほかの学問が出来得る限り研究を妨害する事物を避けて、次第に人世に遠ざかるに引き易えて文学者は進んでこの障害のなかに飛び込むのであります。》
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by daiouika1967 | 2008-07-14 10:07 | 日記  

7月9日(水) 曇のち晴

夏目漱石週間”、今日は、磯田光一編『漱石文芸論集』。

以下、「文芸の哲学的基礎」からの引用。

《情を働かす人はものの関係を味わうんだと申しました。物の関係を味わう人は、物の関係を明めなくてはならず、また場合によってはこの関係を改造しなくては味が出て来ないからして、情の人はかねて、知恵の人でなくてはならず、文芸家は同時に哲学者で同時に実行的の人(創作家)であるのは無論であります。しかし関係を明める方を専らにする人は、明めやすくするために、味わう事の出来ない程度までにこの関係を抽象してしまうかも知れません。林檎が三つあると、三という関係を明かにさえすればよいというので、肝心の林檎は忘れて、ただ三の数だけに重きを置くようになります。文芸家に取っても関係を明かにする必要はあるが、これを明かにするのは従前よりよくこの関係を味わい得るために、明かにするのだからして、いくら明かになるからというて、この関係を味わい得ぬ程度までに明かにしては何にもならんのであります。だから三という関係を知るのは結構だが林檎という果物を忘るる事は到底文芸家には出来んのであります。文芸家の意志を働かす場合もその通りであります。物の関係を改造するのが目的ではない、よりよく情を働かし得るために改造するのである。からして情の活動に反する程度までにこの関係を新にしてしまうのは、文芸家の断じてやらぬ事であります。松の傍に石を添える事はあるでしょうが、松を切って湯屋に売払う事はよほど貧乏しないと出来にくい。折角の松を一片の烟としえしまうともう、情を働かす余地がなくなるからであります。して見ると文芸家は「物の関係を味わうものだ」という句の意味が聊か明瞭になったようであります。即ち物の関係を味わい得んがためには、その物がどこまでも具体的でなくてはならぬ、知意の働きで、具体的のものを打ち壊してしまうや否や、文芸家はこの関係を味わう事が出来なくなる。従ってどこまでも具体的のものに即して、情を働かせる、具体の性質を破壊せぬ範囲内において知、意を働かせる。―まずこうなります。》

《我々は生きたい生きたいという下司な念を本来持っております。この下司な了見からして、物我の区別を立てます。そうして如何なる意味の連続を得んかという選択の念を生じ、この選択の範囲が広まるに従って一種の理想を生じ、その理想が分岐して、哲学者(または科学者)となり、文芸家となり実行家となり、その文芸家がまた四種の理想を作り、かつこれを分岐せしめて、各自に各自の欲する意識の連続を実現しつつあるのであります。要するに皆如何にして存在せんかの生活問題から割り出したものに過ぎません。だからして何をやろうと決して実際的の利害を外れたことは一つもないのであります。世の中では芸術家とか文芸家とかいうものを閑人と号して、何か入らざる事でもしているもののように考えています。実をいうと芸術家よりも文学家よりも入らぬ事をしている人間はいくらでもあるのです。朝から晩まで車を飛ばせて馳せ廻っている連中のうちで、文学者や芸術家よりも入らざる事をしている連中がいくらあるか知れません。》


以下、「写生文」からの引用。

《写生文家の人事に対する態度は貴人が賤者を見る態度ではない。賢者が愚者を見るの態度でもない。君子が小人を視るの態度でもない。男が女を視、女が男を視るの態度でもない。つまり大人が子供を視るの態度である。両親が児童に対するの態度である。世人はそう思うておるまい。写生文家自身もそう思うておるまい。しかし解剖すれば遂にここに帰着してしまう。
子供はよく泣くものである。子供の泣く度に泣く親は気違である。親と子供とは立場が違う。同じ平面に立って、同じ程度の感情に支配される以上は子供が泣く度に親も泣かねばならぬ。普通の小説家はこれである。彼らは隣り近所の人間を自己と同程度のものと見做して、擦ったもんだの社会にわれ自身も擦ったり揉んだりして、あくまでも、その社会の一員であるという態度で筆を執る。従って隣りの御嬢さんが泣く事をかく時は、当人自身も泣いている。自分が泣きながら、泣く人の事を叙述するのとわえrは泣かずして、泣く人を覗いているのとは記叙の題目その物は同じでもその精神は大変違う。写生文家は泣かずして他の泣くを叙するものである。》

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by daiouika1967 | 2008-07-10 20:50 | 日記  

7月2日(水) 晴

夏目漱石『明暗』、後半半分を読み読了。未完であるとは知っていたが、ここで終わるか、という途切れ方。サスペンスフルな展開の小説なので、その構造に引っ張られて、続きがあれこれ勝手に頭に浮かぶ。

《「じゃ若いものだけに教えてやる。由雄も小林も参考のために能く聴いとくがいい。一体お前たちは他の娘を何だと思う」
「女だと思ってます」
津田は交ぜ返し半分わざと返事をした。
「そうだろう。ただ女だと思うだけで、娘とは思わないんだろう。それが己たちとは大違いだて。己たちは父母から独立したただの女として他人の娘を眺めた事がいまだかつてない。だからどこのお嬢さんを拝見しても、そのお嬢さんには、父母という所有者がちゃんと食っ付いてるんだと始めから観念している。だからいくら惚れたくっても惚れられなくなる義理じゃないか。何故といって御覧、惚れるとか愛し合うとかいうのは、つまり相手をこっちが所有してしまうという意味だろう。既に所有権の付いているものに手を出すのは泥棒じゃないか。そういう訳で義理堅い昔の男は決して惚れなかったね。尤も女は慥かに惚れたよ。現に其所で松茸飯を食ってるお朝なぞも実は己に惚れたのさ。しかし己の方じゃかつて彼女を愛した覚がない」》


今昔を問わず、男も女も家族や親族といった関係のなかに棲んでいる。もちろん、その関係に与えられた社会的な強制力は、今と昔じゃまったく異なっている。だが、そこでどんな感情が動くかは、やはりそう異なってはいないようにも思う。
例えば娘のいる父親は、自分の娘が他の男と愛し合うことに、ある種の疎外感を覚えるのではないか。ただ、娘は自分の所有物ではないから、その男を盗人呼ばわりすることは、権利上できないというだけのことだ。自分の所有物が盗られたという感情の内実は抑えられねばならない。
どんな女も「ただの女」ではなく「誰かの娘である」と思うと、義理堅くもないおれなどの感性には、その女と愛し合うという行為が、その誰かへの裏切りをはらんでいるというそのことが、なんだかとてもエロチックなものであるように思われる。

蓮見重彦『映画崩壊前夜』(青土社)の後半を読み、読了。

蓮見重彦は、《映画について書いたり語ったりすることは、饒舌を排するために言葉をつらねるといういかんともしがたい矛盾を含ん》だものだと云う。例えば、ジョン・フォードについて語るのは、《ひたすらフォードの画面へと人びとの瞳を誘うため》なのであって、そのためには《口にされる瞬間に言葉が消滅するような》語りに徹しなければならない。
蓮見重彦の映画批評を読むと、その映画が強烈に観たくなるのは、きっとそんなわけなのだ。
《(饒舌を排するために言葉をつらねるという)その矛盾に無自覚な言説は、存在してもよいが、存在しなくてもかまわないものばかりだ》―これは映画と深い関係を結んだ者だけに云い得る言葉であろう。

例えば、ペドロ・コスタ監督『ヴァンダの部屋』について、蓮見重彦はこんな言葉をつらねて、読む者をその映像体験へ誘っている。
《では、180分もの時間をかけて、人はこの途方もない作品の画面に何を見ているのか。崩壊にさらされた存在だけがにないうるなだらかな生の持続である。被写体となる存在は男も女も等しく何かに傷ついているが、健康であることへの郷愁の徹底した不在が、彼らに瞬間ごとの生をなめらかに享受させている。そのままの服装でベッドで寝ていたらしいくたびれた身なりのヴァンダは、誰が買うとも知れないレタスの籠をかかえ、日陰の路地をすりぬけながら、薄暗い戸口から戸口へと律儀に売って歩く。湿った咳をするやせぎすな彼女の周辺では、住宅をはじめとしえt、あらゆるものが音をたてて崩れ落ちてゆく。凶暴な動きのショベルカーが家という家の壁や床を突き崩し、その開口部からいきなりまばゆい逆光がさし込むかと思うと、光源のみえない明かりの中に音もなく塵埃が舞ったりしている。》

《映画における「真摯さ」とは何か。時に無邪気さと境を接していながらも、物語とそれにふさわしい視覚的な造形性との関係を、スクリーン外部漂う同時代的な感性にゆだねようとはしない潔癖さをいう。》

《「スター」とは、その容貌や演技力にもまして、みずからを「善悪の彼岸」に嘘のようなたやすさで位置づけてしまう存在をいう。》


<丸善>で、『ユリイカ 特集スピルバーグ』(蓮見重彦×黒沢清の対談が載っている)、『別冊映画秘宝 ショック!残酷!切株映画の世界』の2冊を買う。
『ユリイカ 特集スピルバーグ』を開き、目当ての蓮見・黒沢対談を読む。

夜は、Wiiマリオカート。今日はちょっと厭なことがあって、気持ちが沈んでいたのだが、マリオカートはいつもより調子がよかった。
身体を律するには、浮き立つような気持ちでいるより、ちょっと沈んだ気持ちでいる方がいいのかもしれない、などと考える。
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by daiouika1967 | 2008-07-03 10:06 | 日記  

6月30日 (月) 晴ときどき曇

夏目漱石週間”、2週目に入った。今日は月末で仕事が忙しいので、短い『坊ちゃん』を選ぶ。仕事の合間に読んだ。
『猫』を書いて、次に『坊ちゃん』。いずれも語り手がいわゆる「一般の人」ではない。語り手を「猫」や、エキセントリックなある種のヒーローである「坊ちゃん」にすること。小説のことばを自在に伸張するため?

仕事の合間に、大須、上前津、鶴舞の古本屋を見て周るが、収穫は何もなかった。

家に帰ってからもパソコンに向かって仕事をする。12時過ぎ、就寝。
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by daiouika1967 | 2008-07-01 08:30 | 日記  

6月28日 (土) 曇、夜になって雨

夏目漱石週間”、昨日に続いて『吾輩は猫である』、今日は後半半分を読む。
以下は、高橋英男の解説からの引用。
《人間に人間的会話、思索、観察をさせるのではいかにもありふれている。それではたちまち人間的限界に突き当たってしまう。これに対し人間ではないものに託して語らせ、行動させれば、易々と人間的限界を超えることができる。本来はそこに、最高権力者であり、最高な透明な視力の所有者であるような神の出現理由があったのだ。しかし神には神の超越的特性がまつわるという逆の意味での不自由さが避けられないとすれば、それに代わって斜にずらせた、柔軟な限界突破の方法が浮かびあがってこよう。「猫」は、漱石が、人間的言語によって何か人間的なものから踏み外していくことを可能とする方法として、文学の中に導き入れられた。猫を語り手としたことで、漱石が、しばしば抑制の枠を超えてしまうあの豊穣な言語をものにできたのだろうか。それとも内に溢れだしてきた言語に、許容さるべき過剰であることの理由づけを与える存在として、猫が喚び出されたのだろうか。おそらくそのどちらもが漱石の『吾輩は猫である』を成立させた秘められた動機をなしていたことだろう。》

次いで、午後、夏目房之助『漱石の孫』(新潮文庫)を読む。
漫画家、漫画評論家の夏目房之助が、「漱石の孫」という立場からくる自意識の葛藤をどう乗り越えていったか、という、夏目房之助のバイオグラフィーのようなものか。

<三省堂>に寄り、泉麻人『シェーの時代 ―「おそ松くん」と昭和のこども社会』(文春新書)、蓮見重彦『映画崩壊前夜』(青土社)を買う。

夜は、録画してあったテレビ番組(「チェンジ」「おせん」「ダウンタウンDX」)を見たり、Wii「マリオカート」をやって遊んだ。
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by daiouika1967 | 2008-06-30 07:46 | 日記