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10月10日

3連休最終日。外は晴れて、一年のうちでも数日あるかないかの最高に気持ちのいい陽気だ。今日体育の日は毎年、ここいら界隈の地域の祭りがある。子供らが獅子舞の獅子を担いで、町内を練り歩く。「元気を出して、わっしょい。わっしょい」とのコール&レスポンスな掛け声。練り歩いた後は、宿と呼ばれる家に集まると、そこで菓子袋がもらえる。おれの子供の頃から、連綿とつづいている。
午前中、部屋でぼおっとしていたら、近所の神社から、太鼓の音が聞こえてきた。妻が部屋に入って来て、「太鼓の音が聞こえる!見に行こ!」と言うので、散歩がてら、ぶらぶらと出かけた。上下ジャージの油断しきった格好のまま、神社に向かう。しかし、現場に着くと、ちょうど太鼓は終わってしまった。散歩がてらのことだから、さして残念でもない。コンビニに寄って、昼飯の焼きそばを買って、すぐに家に帰った。

午後は部屋にこもり、窓辺からさしこむうららかな陽光のなかで、読書をした。時々眠たくなると、床に寝転んで、瞼に赤い光を感じながら、うつらうつらとまどろんだ。気持ちがいい。ずっとyoutubeでバッハを流していた。

生松敬三・木田元・伊東俊太郎・岩田靖夫編『概念と歴史がわかる西洋哲学小事典』(ちくま学芸文庫)を読み継ぐ。
93.デカルト
94.機械論的自然観
95.物心二元論
96.デカルト『方法序説』
97.感情論
98.パスカル
99.科学と信仰
100.パスカル『パンセ』
101.ホッブス
102.機械論的社会観
103.スピノザ
104.近世の汎神論
105.スピノザ『エチカ』
106.ライプニッツ
107.ライプニッツ『モナドロジー』
108.ヴィーコ
109.力学的自然観
110.近世物理学の成立
111.学会の成立
Ⅲ18世紀啓蒙
112.認識論
113.ジョン・ロック
114.社会契約論
115.近代の宗教論
116.バークリ
117.ヒューム
118.アダム・スミス
119.フランス啓蒙
120.モンテスキューとヴォルテール
121.感覚論
122.機械論的唯物論
123.ディドロ
124.『百科全書』
125.ジャン・ジャック・ルソー
126.自然にしたがえ
127.ドイツ啓蒙
128.啓蒙の裏面
Ⅳドイツ観念論
129.ドイツ観念論
130.カント
131.カント『純粋理性批判』
132.カント『実践理性批判』
133.カント『判断力批判』
134.フィヒテ
135.シェリング
136.ロマン主義の哲学
137.ゲーテ
138.ヘーゲル
139.弁証法
140.ヘーゲル『精神現象学』
141.ヘーゲル『法哲学』
Ⅴヘーゲル以後
142.ヘーゲル学派の解体
143.コント―実証主義
144.ショーペンハウアー
145.フォイエルバッハ
146.キルケゴール
147.マルクス
148.マルクス『経済手稿』
149.マルクス『資本論』
150.エンゲルス
151.弁証法的唯物論
152.功利主義
153.ジョン・スチュアート・ミル
154.進化論
155.科学主義とその反動
156.ニーチェ
157.ニヒリズム
158.ニーチェ『ツァラトゥストラ』
第4部 現代の哲学
159.新カント派
160.社会科学方法論
161.生の哲学
162.ベルグソン
163.ウナムーノとオルテガ
164.マッハ主義
165.レーニン
166.パース
167.プラグマティズム
168.フッサール―現象学
169.フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』
170.フロイト―精神分析
171.クローチェ
172.記号論理学の展開
173.ラッセル
174.ウィトゲンシュタイン
175.ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』
176.ウィトゲンシュタイン『哲学的探求』
177.ウィーン学団と論理実証主義
178.分析哲学
179.シンボルの哲学
180.ルカーチ
181.フランクフルト学派
182.マックス・シェーラー―哲学的人間学
183.ホワイトヘッド―有機体の哲学
184.ハイデガー
185.ハイデガー『存在と時間』
186.ヤスパース
187.ヤスパース『哲学』
188.現代の宗教思想
189.サルトル
190.メルロ=ポンティ
191.構造主義
192.システム哲学

6時過ぎに読了し、夜はまたうつらうつらまどろんだり、テレビを眺めたり、赤瀬川源平『純文学の素』(ちくま文庫)を読んだりして、けっきょく2時まで起きていた。
赤瀬川源平『純文学の素』は、赤瀬川源平がちょうど尾辻克彦名義で小説を書き始めたその同時期に書かれている(本の発売は1982年。ymoの散会した年だ)。末井昭編集の『ウィークエンド・スーパー』というエロ雑誌に「自宅で出来るルポ」というタイトルで連載されていたエッセイがもとになっている。文庫解説で久住昌之が書いているように、読んでいると読んでいる間連綿とおもしろいので、「時々活字の中で眠たくなったりする。それはすごく心地良い眠気だ」。176ページ読み進む。
鼻炎のアレルギーがひどい状態だったが、それでも今日はものすごく心地良く過ごした一日だった。
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by daiouika1967 | 2011-10-11 23:20 | 日記  

10月8日

6時半頃目が覚める。午前中は、生松敬三・木田元・伊東俊太郎・岩田靖男編『概念と歴史がわかる西洋哲学小事典』(ちくま学芸文庫)を読み継ぐ。280ページまで読み進む。
第1部 古代の哲学
Ⅰギリシア思想の土壌

1.ギリシアにおける神話と宗教
2.ホメロス―オリュムポスの神々
3.ヘシオドス
4.アポロン―デルポイの神託の神
5.ディオニュソス
6.モイラ
Ⅱソクラテス以前の哲学
7.哲学の誕生と発展
8.ミレトスの自然哲学
9.ピタゴラス
10.ヘラクレイトス
11.パルメニデス
12.エムペドクレス
13.アナクサゴラス
14.ギリシアの原子論
15.ギリシア思想とオリエント
Ⅲ啓蒙時代の諸思想
16.啓蒙時代の諸思想
17.ギリシア人の歴史観―ヘロドトスとツキュディデス
18.ギリシア悲劇の世界観(1)―アイスキュロス
19.ギリシア悲劇の世界観(2)―ソポクレス
20.ギリシア悲劇の世界観(3)―エウリピデス
21.ソフィスト―ピュシスとノモス
22.ソクラテス
Ⅳプラトンとアリストテレス
23.プラトン
24.プラトン『パイドン』
25.プラトン『国家』
26.アリストテレス
27.アリストテレス『形而上学』
28.アリストテレス『ニコマコス倫理学』
Ⅴギリシア人の科学
29.ギリシア人の論理学
30.ギリシアの数学
31.ギリシアの自然科学
32.ギリシアの医学
Ⅵヘレニズムの哲学
33.ヘレニズムの諸思想
34.小ソクラテス学派
35.快楽主義―エピクロス学派
36.禁欲主義―ストア学派
37.マルクス・アウレリウス『自省録』
38.ヘルメス思想
39.プロティノス―新プラトン学派
Ⅶキリスト教の起源
40.古代ユダヤ教
41.『旧約聖書』
42.イエス
43.『新約聖書』
44.原始キリスト教
第2部 中世の哲学
Ⅰ中世哲学の発端

45.教父哲学
46.アウグスティヌス
47.アウグスティヌス『神国論』
48.ボエティウスとラテン編纂家
49.プラトニズムの伝統
Ⅱカロリング・ルネサンスと神秘主義の起源
50.カロリング・ルネサンス
51.ディオニシウス・アレオパギタ
52.スコトゥス・エリウゲナ
Ⅲアラビアとユダヤの哲学
53.ギリシアとアラビアの懸橋
54.アラビア哲学
55.アヴィセンナ
56.アヴェロエス
57.アル・カザーリー
58.アラビア科学
59.ユダヤ哲学
Ⅳスコラ哲学の形成
60.普遍論争
61.アンセルムス
62.アベラルドゥス
63.12世紀ルネサンス
64.シャルトル学派
65.ヴィクトル学派
66.スコラ哲学と大学
Ⅴ13世紀の知的綜合-スコラ哲学の開花
67.グローステストとロジャー・ベーコン
68.アルベルドゥス・マグヌス
69.ボナヴェントラ
70.トマス・アクィナス
71.トマス・アクィナス『神学大全』
72.ドゥンス・スコトゥス
Ⅵ14世紀の革新―ノミナリストの運動
73.ウィリアム・オッカム
74.オトゥルクールのニコラウス
75.科学思想の発展
Ⅶルネサンスの思想
76.ルネサンスの自然哲学
77.パラケルスス
78.ジョルダーノ・ブルーノ
79.人文主義的新プラトン主義
80.ドイツ神秘主義
81.ニコラウス・クザーヌス
82.ニコラウス・クザーヌス『知ある無知』
83.レオナルド・ダ・ヴィンチ
第3部 近世の哲学
Ⅰユマニスムと宗教改革

84.ユマニスム
85.モンテーニュ『エセー』
86.宗教改革―ルター、カルヴァン
87.自由意志論争
88.イエズス会―伝統の擁護
Ⅱ17世紀の理性主義
89.17世紀の理性主義
90.フランシス・ベイコン
91.ベイコン『ノーヴム・オルガヌム』
92.科学革命
ここまでで280ページ。古代の哲学の辺りを読みながら、ニーチェ-ドゥルーズ、ニーチェ-ハイデガー-フーコーの著作を読み返したくなる。ギリシアの古典は、プラトンを数冊読んだ程度でほとんど読んでいないので、これも読みたくなった。ヘレニズム、中世に至っては、時代相には興味が深く、社会史関連の本は読んでいるのだが、その時代の哲学者にはついては、ほとんど何も読んでいない。この辺りにも手をつけたくなる。近世から現代にかけて、ようやく馴染みのある固有が出始めたところで、昼になってしまった。

午後、榎本了壱『東京モンスターランド ―実験アングラ・サブカルの日々』(晶文社)を読む。3時頃から6時過ぎまでかけて、一息で読了した。榎本了壱といえば、おれにとっては“「ビックリハウス」の”榎本了壱である。榎本了壱自身は、68年に22歳ということだから、70年代を社会人として経験している。80年代、「セゾン文化」の一翼を担ったプロデューサーとして活躍する前に、アート・ディレクターとして10年以上のキャリアがあるということになる。その時期、榎本了壱は、粟津潔のデザイン事務所に出入りしたり、寺山修司の天井桟敷と関わったりして、過ごしていた。この回想録に登場する人物で、特に著者と関わりが深いのは、粟津潔、寺山修司、萩原朔美、増田通二、糸井重里、日比野克彦、黒川紀章。
あるくだりに、「自分の人生は他人が作る」というフレーズがあって、深く含蓄を感じた。

6時半、妻と待ち合わせ、ミッドランドスクエアシネマに『猿の惑星 創世記(ジェネシス)』を観にいく。物語の展開が幼稚で平板なところはあるが、猿たちの動きに目を奪われているうちにあっというまに2時間経ってしまった。
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by daiouika1967 | 2011-10-09 09:18 | 日記  

12月5日(金) 雨のち曇

朝起きると、もう8時を過ぎているのに外が暗くて、しばらくベッドのなかでぼんやりしていると、窓に稲光が光った。次いで、ゴロゴロゴロゴロ、と、猫が喉を鳴らすような音。朝から珍しいな、と思っていると、Pが枕元にやってきた。おれが目覚める気配がすると、Pは必ず近寄ってくる。
しかしそれにしても、べつに音を立てているわけでもないのに、なぜPには、おれが目を覚ましたことが分かるのだろう。瞼の開く音がするのだろうか。まさか。
Pに餌をやって、英語の勉強を1時間くらいやって、卵かけご飯とインスタント味噌汁の朝昼兼用の食事をとった。

午後、名駅の喫茶店で、松岡正剛『白川静 ―漢字の世界観』の残りを読みきった。
読後、ジュンク堂に行き、白川静の本をさがし、何冊かあるなかから、まずは『文字逍遥』(平凡社ライブラリー)を選んだ。いっしょに、木田元『なにもかも小林秀雄に教わった』(文春新書)も買った。
小雨がぱらつくなか、図書館まで歩き、一階のデスクで、木田元『なにもかも小林秀雄に教わった』を読む。途中、30分くらい、机につっぷしてうつらうつらする。どうもやはり、慢性的に睡眠が足りていないようだ。

内田樹は、「白川静から学んだ2、3のことがら」というエッセイ(『昭和のエートス』(basilico)所収)のなかで、『白川先生の漢字学は、古代中国において、地に瀰漫していた「邪悪なもの」を呪鎮することが人間たちのおそらく最初の知的営為であったという仮説の上に構築されている』と論じている。
―『おそらく古代の人々は中国でも、あるいは万葉古語の日本列島でも、身体を震わせ、足を踏み鳴らし、烈しく歌い、呪い、祝ったのであろう。そのようにして人々は生命力を賦活し、減殺するために死力を尽くした。そのときに人々が発していた言葉はほとんど物質的な持ち重りと手触りを持っていたはずである。それは観想的主体の口にする「われ思う」という言葉の透過性、無重力性、非物質性、中立性と、考え得る限りもっとも対蹠的なところにある言葉である。
言葉がそれだけの重みを持った時代がかつてあった。それは白川先生のロジックを反転させて言えば、人間がそれだけの重みを持った時代があったということでもある。人間の発する烈しい感情や思いや祈念が世界を具体的に変形させることのできた時代があったということである。そして、そのような時代こそは白川先生にとって遡及的に構築すべき、私たちの規矩となるべき「規範的起源」だったのである。』


言葉は世界を分節する原理だが、その分節を促す力能の根源には、人間の抱える「呪われた部分」が存在する。
人間の知的営為は、すべて、この「呪われた部分」と、どのように折り合いをつけるのか(「身体を震わせ、足を踏み鳴らし、烈しく歌い、呪い、祝う」)という動機に基づいてなされるのである。
白川静の漢字学は、おそらく、つねにこの「根源」を見つめて構築されたものなのだろう。

そうした観念が頭にあって、木田元『なにもかも小林秀雄に教わった』を読んでいたら、「言葉は存在の家である」というハイデガーの言葉が出てきて、そこでさらに思考にドライブがかかった。
ハイデガーはこう言っている-『人間は、単に他のさまざまな能力と共に言葉をもっている一個の生物といったようなものはない。むしろ言葉は存在の家なのであり、人間はそこに住みながら、おのれの外に出で立ち、……存在の真理に帰属しているのだ。』
このことについて、木田元による解説的な文章があるので、その箇所を引いておく。
―『一般に動物は、多少の幅はあるにしても<現在>だけに生きている。しかし、神経系の分化が進み、ある域を越えると、その<現在>のうちにあるズレが生じ、<過去>や<未来>と呼ばれることになる時限が開かれ、いわば時間化が起こる。
そうなると、現に与えられている環境構造に、かつて与えられたことのある環境構造や与えられるであろう環境構造が重ね合わされ、それらがたがいに切り換えられて、そこに複雑なフィードバック・システムが形成される。
こうして、現在与えられている環境構造をおのれの可能な一つの局面としてもちはするが、けっしてそれに還元されてしまうわけではない<世界>というもっと高次のこうぞうが構成されることになる。このとき、単なる生物学的環境を越え出て、この<世界>に反応して生き、いわば<世界内存在>する現存在(人間)が誕生するのである。
それと共に、一般の動物のように、環境のうちに現に与えられている刺戟やその代理刺戟つまり<信号>にだけ反応するのではなく、そうした信号を足場にしてさらに高次の記号つまり<シンボル>を構成し、それによって行動を起したり、続行したりするシンボル行動ができるようになる。シンボル操作としての言語活動もこの段階ではじめて可能になるのである。そのシンボルとしての言語の自己分節が、世界を分節し、分化していくのだ。
<存在了解>も同じ事態に結びつく。ハイデガーは<存在了解>を<存在企投>と呼ぶこともあるが、こちらの方が分かりやすいかもしれない。<存在企投>とは、現存在が生物学的環境を<超越>して、つまりほんの少しそこから脱け出して、<存在>という視点を設定し、そこから自分がいつも生きている環境を見なおすことだと考えてよい。』


ドライブのかかった思考は、さまざまな固有名に伸び広がり、読みながら、この本に登場する、小林秀雄、保田與十郎、ランボー、リルケ、ニーチェ、ハイデガー、ドストエフスキー、キルケゴール、そしてさらにこの本で取り上げられているわけではないが、バタイユ、ブランショ、レヴィナス、そして、白川静、折口信夫といった人たちの著作を、片っ端から読みたくなる。
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by daiouika1967 | 2008-12-06 11:32 | 日記  

11月11日(火) 曇のち晴

9時起床。起きた時には妻はもう病院に行った後だった。パソコンに向かい、仕事のメールを打ったり、日記を書いたり。10時過ぎに妻が帰ってきて、ビビンバご飯を作ってくれたので、10時半、朝昼兼用の食事をする。
11時、家を出る。名駅のドトールで、木田元『哲学は人生の役に立つのか』(PHP新書)を読む。120ページほど読み進む。
図書館に歩いて、借りていた本を返却し、一時間くらい、4階の社会科学の棚を検索する。岩田規久男『デフレの経済学』(東洋経済新聞社)、『国際金融入門』(岩波新書)、仲正昌樹『貨幣空間』(世界書院)、佐伯啓思『「欲望」と資本主義』(講談社現代新書)の4冊を借り出す。
強烈に眠たい。図書館のソファーにすわって、しばらく仮眠を取る。ぼおっとした頭で、図書館を出て、ちょっとふらふらしながら、名駅まで歩いて戻った。
3時半、カジキマグロフライのパニーニを食べながら、木田元の残りを読む。
5時過ぎに家に帰る。妻がカレーを拵えてくれたので、夕食。夕食後、7時から、DVDで『ヨコハマメリー』を観る。
横浜に実在した80歳を超える娼婦メリーさんを追ったドキュメンタリー。
その年齢、顔を白塗りにし、デコラティブなドレスを身にまとった異様な風体で、見世物的なエキセントリックとして、“実在する都市伝説”のような存在だったメリーさん。彼女は1995年、忽然と姿を消した。
映画は、彼女が姿を消した後から始まる。
彼女と親交の深かったシャンソン歌手の元次郎さんを中心に、彼女と接点のあった人びとの取材を通して、彼らや彼女たちの話から、戦後の横浜の街そのものが浮かび上がってくる。猥雑なエネルギーの渦巻く戦後の横浜という街のなかで、生への欲望を全身に漲らせた男や女の生きざまが浮かび上がってくる。
メリーさんも、元次郎さんも、異様な風体ではあるのだが、おれにはその姿が、時代のなかで精一杯自らを生かし、輝いていくしかない、いわば存在の哀しさのようなものを一身に背負った、ひどく美しいものとして感じられた。
いい映画だった。観ているあいだ、ずっと胸に迫るものがあった。
夜、今日は、妻が夜にも注射を打ちに行かなくてはならないのだという。それで、10時にいっしょに出掛けた。散歩がてら、大須まで40分くらい歩いていく。帰りも歩いて帰ってきた。12時過ぎ、名駅のデニーズに着き、ラーメンを食べて、家に帰ると1時過ぎだった。一日の歩数は21000歩。さすがに眠たい。すぐに就寝した。

木田元『哲学は人生の役に立つのか』のなかに、木田元が語学を習得した勉強法が語られていた。《語学というのは、単語さえ覚えれば八十パーセントぐらいはできると思います。》と著者は言う。
どれくらい覚えればいいかというと、《英語ならば一万語ぐらいの単語帳がありますが、一万語を覚えて四千語ぐらいは忘れてもいい。六千語覚えていれば、ほとんどの本は読めます。》ということだ。
では、どうやって覚えればいいのか。著者はこんな方法で覚えたのだそうだ-《(単語帳を)一日四ページ、二百語くらいずつ覚えていきました。日本語のほうを見ながら、英語の単語をワラ半紙に書き、間違えたものには印をつけて、やり直す。一日目は二百、次の日は四百、三日目は六百と増やしていきます。同じ単語を五日ずつ繰り返して覚えていくのです。すると五日目には、最初の日の二百語は五回繰り返して暗記することになります。三日目あたりから、ほとんど間違わなくなりますが、五日間やればほぼ完璧になります。思ったほど時間もかかりません。そこで、六日目には一日目の二百語をはずし、新たな二百語にずらしていくのです。》けっきょく、記憶を定着させるには、反復練習をするしかないということだ。毎日同じように反復練習をくりかえせば、それで何とかなる、ということでもある。
著者は、こうして、毎年、英語、ドイツ語、フランス語、ギリシャ語、ラテン語、と覚えていったのだそうだ。そうした規則正しい学習と、その成果がはっきりと実感できることが、著者の絶望回避におおいに寄与したのだという。
読みながら、俄かに、英語をきちんと習得したいという欲求が湧いてきた。木田元は、毎日十数時間やって、ひとつの言語を3ヵ月で習得できたと言っていた。おれは、毎日十数時間、というのは無理なので、それでもすくなくとも毎日最低2時間はとって、英語の訓練を再開してみようと思い立つ。
それでさっそくジュンク堂に行き、成重寿・妻鳥千鶴子『ゼロからスタート 英単語』(Jリサーチ出版)という参考書を買った。
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by daiouika1967 | 2008-11-12 10:01 | 日記  

10月9日(木) 晴

秋晴れの、気持ちのいい陽気がつづく。気持ちがいい。

11時過ぎ、朝昼兼用のお茶漬けを二杯分くらいの分量、食べて、家を出た。
名駅の喫茶店で、F・フェルマン『現象学と表現主義』(木田元訳 講談社学芸文庫)を読んだ。
「訳者あとがき」に、原著者本人による内容紹介が載っている。
《この学際的な研究においては私は、1913年の『イデーン』において盛期に達するエドムント・フッサールの現象学の観念論と、文学上の表現主義とを共通の思考形態に帰一させようと試みる。それは、第一次世界大戦直前の時代の精神史的―社会史的問題状況への応答として、この時代の現実性の概念を造形した<脱現実化的実在化>という弁証法的思考形態である。フッサールの現象学的還元の理論は、この現実性の概念の哲学的方法論への翻訳にほからない。これを証示するために私は、フッサールの思考をもっとも広義の表現主義的作家たち―フーゴー・フォン・ホーフマンスタール、ロベルト・ムージル、カジメール・エートシュミット、ヴィルヘルム・ヴォリンガー、マックス・ピカート、カール・バルトら―の思考と結びつけている構造上の類縁性を跡づける。最後に私の思考形態分析は、現象学を終局的にもう一つの大きな精神的運動、つまりジークムント・フロイトの精神分析に近づけることになった還元思想の変容を追跡する。》

1919年にクルト・ピントゥスは、『未来への発言』という論文のなかで、こう述べている―《というのも、諸君が現実と呼んでいるものは、実は現実ではないからである。ましてや思想家ならばだれしもがこのいわゆる現実なるものの実在性に疑いをもったのである》。
同時代、フッサールは、『デカルト的省察』において、現象学についてのこんな定義のしかたをしている―《普遍的な自己省察によって世界をふたたび手に入れるために、われわれはまずエポケーによって世界を放棄しなければならない》。
このふたつは、同じ時代の気分、同じ精神の在りようから発せられた言葉である。著者は、ここにある時代の気分、同じ精神の在りようの内容を、「異議申し立てと黎明」とまとめている。
《この異議申し立ては、一方では、十九世紀によって生み出された社会的世界が非現実的なものだという経験となり、他方では、欺瞞的とも抑圧的とも感じられた教養俗物たちへの伝統へ向けられることになる。黎明という気分のほうは、過ぎ去った前世紀を内的に克服することが可能なのだという一般的な信念に、フォン・カーラーの適切な表現に従って言い換えるなら「戦前の社会状況から解放されようとする」衝動に、根ざしている。》

現象学も表現主義も、その時代のいわゆる「現実」なるものを、皮相なもの、非本質的なものと感じとり、それを超える方途を探っていた。
(《仮象であり現象であるような現実を突破することによって、もっと奥深いもの、いわば<その背後>にあるもの、つまりまだ隠されており、時として突発的にしか近づきえないような真の本来的な現実に達することになる。それは、古い実在からいまようやく解放されるべきある<新たな>実在なのであり、多くのばあいそれには<本質>という概念が与えられえる。したがって、欺瞞的で硬直した、単に皮相なものでしかない、あるいは無内容なものになってしまった現象が、この真なる本質に対立することになる。表現主義者は、言ってみれば実在のプラトン的なイデアを捜しもとめているのである。》)。
現実から逃れるのではなく、現実を超え、真の現実へと至ろうとする、弁証法的でもあり、神学的(否定神学的)ともとりうる探求。この探求の形が、著者のいう、現象学と表現主義に共通する「脱現実化的実在化」という「思考形態」であるということになる。

<ジュンク堂>で、鷲田清一・内田樹『大人のいない国 -成熟社会の未熟なあなた』(PRESIDENT PINPOINT選書)、宇野常寛『ゼロ年代の想像力』(早川書房)を買う。
喫茶店で、鷲田清一・内田樹『大人のいない国 -成熟社会の未熟なあなた』を読んだ。115ページの薄っぺらい本だったので、喫茶店一軒で読了する。

夕方、スーパー銭湯<喜多の湯>へ。山王の駅まで、普通電車の一駅分を歩く。青柳拓次『たであい』を聴きながら、線路のある高架に沿った道を、歩いた。
『たであい』の柔らかな音像に、時折、電車が過ぎる音が混入してくる。
風呂に浸かったときのように、お茶を一服したときのように、気持ちがほぐれてゆき、路傍の植え込みのある土に、オオバコがたくさん生えているのを見つけ、昔買っていたウサギの記憶が甦った。
食が細ウサギで、ニンジンなどを与えてもあまり食べないのに、オオバコだけはよく食べたので、弟とよくオオバコを捜しに行った。オオバコはどこにでも生えているので、遠出をせずとも、雑草が生えているようなところなら、どこでも見つかった。
そんなことを思い出していると、似たような髪型をしたおしゃれな女の子の集団が、前方から近づいてくるのに、目を奪われた。近くに美容専門学校があるので、そこに通う生徒だろう。
5時過ぎに、<喜多の湯>に着いた。

岩盤浴で寝転び、いろいろなことを構想する。想像がどんどん伸びていき、軽い全能感がわきあがってくる。
ハーブの部屋に40分、ゲルマの部屋に40分、岩塩の部屋に10分。サラサラした汗が全身を覆う。氷の部屋に入ると、全身から湯気が立ち上った。露天風呂に入って、体を洗い、食堂で夕食をとる。まぐろの山かけ定食を食べた。
妻と並び、家まで歩いて帰った。岩盤浴の後はいつもそうなのだが、体がとても軽く感じられる。秋の夜気が心地いい。
妻は家に帰り着いて、すぐに眠ってしまった。おれはパソコンを起動し、ウェブを周回していたら、気づくと3時過ぎになってしまった。

鷲田清一・内田樹『大人のいない国 -成熟社会の未熟なあなた』(PRESIDENT PINPOINT選書)からの引用。

《働くこと、調理をすること、修繕をすること、そのための道具を磨いておくこと、育てること、教えること、話し合い取り決めること、看病すること、介護すること、看取ること、これら生きてゆくうえで一つたりとも欠かせぬことの大半を、ひとびとはいま社会の公共的なサーヴィスに委託している。社会システムからサーヴィスを買う、あるいは受けるのである。これは福祉の充実と世間ではいわれるが、裏を返していえば、各人がこうした自活能力を一つ一つ失ってゆく過程でもある。ひとが幼稚でいられるのも、そうしたシステムに身をあずけているからだ。
近ごろの不正の数々は、そうしたシステムを管理している者の幼稚さを表に出した。ナイーブなまま、思考停止したままでいられる社会は、じつはとても危うい社会であることを浮き彫りにしたはずなのである。それでもまだ外側からナイーブな糾弾しかしない。そして心のどこかで思っている。いずれだれかが是正してくれるだろう、と。しかし実際にはだれも責任をとらない。》(鷲田)

《今の日本における「未成年者」は、現実の年齢や社会的立場とは無関係に、「労働し生産することではなく、消費を本務とする人」というふうに定義できると思うんです。労働を通じて何を作り出すかではなく、どんな服を着て、どんな家に住み、どんな車に乗って、どんなレストランで食事をするか……といった消費活動を通じてしか自己表現できないと思っている。》(内田)

《自立しているというのは決してインディペンデント(独立的)なのではない。インターディペンデント(相互依存的)な仕組みをどう運用できるか、その作法を身につけることが本当の意味で自立なんじゃないかな。》(鷲田)

《「あなたがあなたの意見に固執している限り、あなたの意見はこの場では絶対に実現しないけれど、両方が折れたら、あなたの意見の四割くらいは実現するよ」と説明してみるんですけれど、どうもそれではいやらしい。自分の考えが部分的にでも実現することにより、正論を言い続けて、話し合いが決裂することのほうがよいと思っている。
和解することと屈服することは違うのに。世の中には「操作する人間」と「される人間」の二種類しかいないと思っている。》(内田)

《阪大で同僚の平田オリザさんが(劇作家)が「『ディベート(議論)』と『対話』は正反対」と言っておられた。ディベートは話し合う前と後で考えが変わったら負けなんですが、対話は前と後で変わっていなければ意味がない。自分をインボルブ(巻き込む)しないと意味がないんです。ところが、対話と言いながらディベートばかりしている。》(鷲田)

《学校に来るクレーまーのうち最悪のパターンは両親が口を揃えて怒鳴り込んでくるタイプだそうです。昔は、父親が学校に怒鳴り込むと、母親がすがりついて止め、母親が激昂すると、父親がそんなに熱くなるなよと諌めるというふうに、学校のありようについての親たちの考え方の差が抑制的に機能していたけれど、今は両親の価値観が揃ってしまっている。異性の親の間にさえ価値観の葛藤がない。それでは子どもに成熟のチャンスがなくなるのは当たり前です。
核家族であっても、せめて母性原理と父性原理がきちんと機能していて、そこに価値観の「ずれ」があれば、子どもにもある程度の葛藤は担保されます。でも、たとえば一家が一丸となっての「お受験」体制なんかでは、子どもはもう葛藤のしようがない。完全に家族の価値観に同化するか、それを全否定するか、どちらかを選ぶところまで追い詰められてしまう。》(内田)

《人が成熟するというのは、編み目がぴっしりと詰って繊維が複雑に絡み合ったじゅうたんのように、情報やコンテンツ(内容)が詰っていく、ということです。それなのに今の世の中、ジャーナリズムも単次元的な語り口でしょう。すぐに善悪を分けたがる。》(鷲田)

《肉親でも知友でもなく、私と意見を共有するわけでもなく、コミュニケーションもおぼつかなく、それどころか私の自己実現を妨害し、私の幸福追求の障害となりかねないこれら「不快な隣人たち」を国民国家の振るメンバーとして受け容れること。それが現代に残された唯一の愛国心のかたちである。
現代における国民的統治とは均質集団を作り出すことではない(それは必ず国民分断を結果する)。国民を統治しようと望むのであれば、それを等身大の親密な感情や温かい共感の上に基礎づけることをどこかで断念しなければならない。
だから、愛国心を持つことは、現代においては少しも快適なことではないし、いささかの精神的高揚ももたらしはしない。それは「私人としての不快」を押し殺して「公民としての義務」に従うことだからである。》(内田)

《「自由」の概念は、社会の因襲的なくびきから解放された「リバティ」の意識として歴史的には深い意味があったが、「自由」にはもうひとつ、「リベラリティ」という言い方がある。「気前のよさ」という意味だ。「じぶんが、じぶんが、……」といった不自由から自由になることと言い換えてもよい。「自己実現」とか「自分探し」というかたちで、より確固たる自己を求めるひとが、同時にひりひりととても傷つきやすい存在であるように見えるのは、無償の支えあいという、この「気前のよさ」へと放たれていないからかもしれない。「自立」がじつは「孤立」としてしか感受しえないのも、「支えあい」の隠れた地平、つまりは家族や地域といった中間世界がこの社会で確かなかたちを失いつつあるからかもしれない。》(鷲田)

《人々がその「かけがえのなさ」に気づかず、蔑しているものに注意を促し、その隠されていた価値を再認識させる言葉の働きを古い漢語では「祝」と呼ぶ。(中略)
歌うことによって、その対象が潜在させている霊的な力を増幅させるとき、歌い手が「誰であるか」ということには副次的な重要性しかない。というのは賦活された霊的生命の恩沢は周囲全域に漲るからである。自分のなした「祝」の効果であるから、その恩沢は私ひとりが独占すべきものである、というような排他的な心ばえのものはそもそも「祝」とは無縁である。
ネット上に行き交っているのは、残念ながら、そのような「祝」の言葉ではない。それは、「祝」とは逆に、人々がたいせつに思っているもの、敬慕しているもの、価値ありと信じているものを「貶下(へんげ)」することをめざしている。お前たちが拝んでいるのは「鰯の頭だぜ」という「恐るべき真実の暴露」をすぐれて「知的に価値ある情報」とみなし、それを不特定多数の人々に、無償で宣布している自分の努力をみずから多としているのである。
このような言葉のありようを名づけるやはり古い漢語がある。ご賢察のとおり、「祝」と同語源の「呪」というのがそれである。
「不当な利益を占有している」他者が、その不当に占有しているもの(健康、家族、財力、権勢、名誉、才能などなど)を失うことを強く念じること、それが「呪」である。》(内田)

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by daiouika1967 | 2008-10-10 23:57 | 日記  

10月8日(水) 晴

昨夜食いすぎたので、今日は朝飯抜きにする。11時前に家を出て、喫茶店で、『文藝 冬号 特集:柴崎友香』の特集箇所を読む。
元SUPERCARのいしわたり淳治との対談、写真家の佐内正史との対談(グラビア付)、行定勲との携帯往復メール(写メ付)、ロングインタビュー、柴崎友香の友だち加地猛くんを迎えて保坂和志と三人での鼎談、小説「宇宙の日」(ROVOのコンサート会場のことが書いてある。ものすごい臨場感。すごい!)、青山七恵、浅野いにお、鹿島田真希、上條淳士、佐野四郎によるエッセイ、古谷利裕による論考。

ロングインタビューから引用する。
《私の小説について「日常にもドラマがある」と言われることがあるんですけど、それはちょっと違うなと思うんです。ドラマは別にないんです。ドラマを見つけて書いてるわけじゃなくて、ただ面白いと思って書いている。
言葉でくくっちゃうと「日常」になっちゃうんですけど……、ほかに言い方がないから。自分の目の前にあることが面白い。それは「日常にも隠れたドラマがある」ということではなくて、なにに近いかというと、昆虫を見た子どもが「昆虫の羽がこうなってる、楽しい!」みたい感じかもしれない。昆虫を見て楽しい人はそこにドラマがあるわけでもなくて、「こっちは羽が透明、こっちは緑、すごい!」と感動するわけですよね。それと同じで電車から外見ているだけでも面白いし、楽しいんです。そのものがそこにあること自体が、ただ、すごい。そのことが書きたい。》

まず、そのものがそのように在る、ということへの驚嘆が、ずっと持続して、ある。「そのものがそこにあること自体が、ただ、すごい」のだ。
「そのこと」を書くためには、つまり「そのものがそこにあること自体への驚嘆」を表現するには、「そのもの」をただ事物として描写しても、伝わらない。その「驚嘆」を伝えるためには、そうした眼差しをもった自分自身の、その厚み、すなわち身体性を書かなければならない。
自分自身の身体性を書くとは、自分がそこを生きる時間を書く、ということであり、それは他者、自然との関係を書くことでもある。
ただ、それは、ドラマとして収斂するのではなく、つねに、世界がこのようにあることへの驚嘆という、その地点に向けて(その地点に牽引されて)、書かれることになる。

昼飯は、喫茶店のランチのスパゲッティ。サラダ、フランスパン、コーヒー付き。

午後、生松敬三・木田元『現代哲学の岐路 -理性の運命』(講談社学術文庫)を読む。
すべての事象が因果律-理性によって解読可能だとする、啓蒙の世紀から始まる近代の索漠たる世界観のなかで、ニーチェはその世界観に対抗して、考え始める。
ニーチェは、プラトンが、事象を、形相と質量に分割した時点まで遡り、そこにこの索漠とした世界観の起源を見た。
事象が、形相と質量が分割されることで、質量は、それ自体生成変化する力をもたない、無機的な内容物としてとらえられることになる。
ニーチェは、このようなプラトンの世界観を「アポロン的」と名指し、しかしギリシャには「アポロン的」な原理と対抗する「ディオニュソス的」なるものの伝統が存在することを指摘する。
「ディオニュソス的」なるものとは、生命の生成変化を原理とする世界観のことである。そこには形相と質量の区別はなく、すべての事象が生成変化の諸相として味わわれることになる。

ハイデガーの「世界内存在」という概念、ユクスキュルの「環境世界理論」、ベルグソンの「生命論」、コフトらの「ゲシュタルト心理学」、ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」、これらにはすべて、「われわれは自分自身による以外には、世界への通路を持っていないのだ」というニーチェの言葉が木霊している。

夜飯は、ししゃもとかぼちゃを炒めて酢で〆たもの、ご飯、たくわん、インスタントのしじみの味噌汁。
妻がネット通販で買った、竹内まりやの4枚組のベストアルバムをかけて、うつらうつらする。
12時頃いったんベッドに入ったのだが、なんだか目が冴えてしまい、起き出して、宇野浩二『芥川龍之介』(筑摩選書)を読み始める。76ページまで読み進み、2時過ぎに就寝した。
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by daiouika1967 | 2008-10-09 10:54 | 日記  

5月15日(木) 晴

気持ちよく晴れた。10時頃起床し、朝食にサラダとインスタントのポタージュ、黒糖パンを2ヶ食す。パソコンに向かい、日記つけ、ネットの周回。11時半頃、家を出る。名駅~伏見の喫茶店で、三國連太郎・沖浦和光『「芸能と差別」の深層』(ちくま文庫)を読み継ぎ、読了した。栄まで歩き、<バナナレコード>へ。大滝詠一『ナイアガラ・トライアングル』Vol.1、Vol.2、『イーチタイム』、テーム・テムリッツ『愛の爆弾』を買った。名古屋まで歩いて引き返し、<三省堂>。何も買わず、近所のスーパーに寄ってサラダ用の野菜やら切らしていた調味料やらを買って帰った。夕食は、妻が拵えた桜海老ともやしの炒め物。食後に鬼饅頭。夜はテレビを眺めながら、パソコンの前に座り、アイリバーの中身を入れ替えたり、コンビニで500円で買った『実録サイコ画像』を読んだりして過ごした。1時半、就寝。

●木田元と保坂和志との対談で、保坂和志が、「小説の推進力」ということについて語っている。
《人がどうして最期まで小説を読むかというのを考えてみると、それは推進力によると僕は思ったんです。推進力というとき、物語はその一つの可能性でしかない。私小説みたいなのは、もうちょっと覗き見的な、興味を煽るようなことが推進力になっている。
僕は小説をほとんど読まずにきて、とくに二十代後半からはニーチェなんかを読みかじったりしたけれど、そういう書物は当然、物語という推進力で読むんじゃなくて、もっと別の知的な関心で読むわけですから、本を読み通すという意味では、それも推進力になっている。もう一つ、推進力には惰性というのもあって、たとえば文体のテンポがいいと、惰性でいける。それも推進力だと思うんです。
そんなことを総合して、不幸を出さず、ダラダラした語り口のやつが喋って、その惰性に任せていく。で、語り口を穏かにしたらいろんな人間が自然と出入りするようになって、それがそのまま『プレーンソング』の、自分のアパートに人が入ってくるというのと、小説世界に人が出入りするのとがパラレルな感じになってきたんですね。》
小説に「推進力」をもたせるには、様々な方法がある、「物語」はその方法のひとつでしかない。「小説に推進力を持たせる」というのは、文章にあるテンションを持続させるということで、そのための方法として、保坂はその例として「ゴシップ的興味」「知的興味」「文体のテンポ」等を挙げている。

小説の構想時。「線を引く」のではなく「磁場を設定する」というイメージ。
音楽的な比喩。リズム(文体のテンポ)、ハーモニー(知的興味)、メロディ(物語)。

《以前は自分の身体性のほうから書くことにこだわってたんですけど、『季節の記憶』では、外の、宇宙論とか生物学のような理科系の知識を入れることにしたんです。星の距離とか、遺伝子の問題とかは、自分の経験からはまったくわからない。もう本当に経験からは絶対にわかりようがない。けれど、現代の人間はみんな知識としては自分で見るより確かなくらいよく知っている。それを散歩ばかりしている日常的な世界のなかに無理に落とし込んで、不可能な二つをなんとかつなげようと―経験からは全然わからない星の距離を当てはめながら星を眺めたらどうなるかというふうな―共存しない気分をなんとか共存させようとしているのが、『季節の記憶』の基本トーンの一つかな。》
文章のなかで、次元の異なる二つの領域(ここでは、「身体性」と「外の知識」)を、一つの流れにつなげていく。
だいたい語り手の僕もトンチンカンなところがあるから、人の気持ちをすぐに分かるわけじゃなくて、いちいち斟酌していくんですね。ブラックボックスのなかをつつくように。こう言ったら、反応がこう返ってきた、この人のなかの仕組みはどうなっているんだろうとたえず考えている。共通了解が足りないからほとんどの見方が、メカニズムを考えるという書き方になる。
『季節の記憶』で言えば、散歩しながら見ている山とか海とかが、僕にとっては感動を与えるものじゃなくて、メカニズムとして記述していく対象となってるんです。(中略)
それがひょっとすると読んでるときの時間と、なにか関係してくるのかもしれないですね。相手のことがすぐに分かったりすると、物語的な時間の契機になるかもしれないけれど、分からなくてメカニズムをずーっと考えてるから、普通の小説なら次の転換のきっかけになるようなものも全部、平板にどーんといく。でもそれを、メカニズムとしてこっちが一生懸命考えていけば、読んでる人も退屈な平板とは思わずにすむんじゃないかなと、これは希望的観測ですけど。》

●木田元は福田和也との対談で、哲学の根拠はもはや芸術にしかない、という旨のことを語っている。哲学とは事物の「根源」に遡ろうとする思考の働かせ方のことだが、その「根源」は、哲学的な言説の内部には存在しない。現代という時空のなかでは、芸術的な創造行為のなかに、かろうじてその「根源」の痕跡を認めることができる。芸術的な創造行為、あるいはある種の「狂気」、「動物性」「反・反動物性」。
《現代哲学が芸術を拠り所にしなければものを考えられなくなっているのは確かです。ただ、現代哲学という言い方は少し矛盾していて、現代哲学がやろうとしているのは哲学批判なんです。その批判さるべき哲学をどこからどこまでと考えるかは難しい問題なんですが、少なくともプラトン/アリストテレスからヘーゲルぐらいまでをひっくるめて批判しようという、ニーチェから始まった企てを現代の思想家は引き継いでやろうとしています。当然そこでは、哲学の言葉を使ってはもう語れないわけです。すると、もう頼るところは芸術しかない。しかも、これはハイデガーもメルロ・ポンティもそうなんでしょうけれども、芸術には人間の一番根源的な経験が、直接ではなくても、うまく透かし見れば見える程度に残っているという気があるのでしょう。芸術家のあり方なのか、あるいは芸術作品のあり方なのか、そこが分かれるでしょうけれども、そこに存在の根源性を探し求めるしかないという発想はありそうですね。》

●渡辺哲夫の云う「歴史の<外>へ跳躍する契機である<瞬間の狂気>」という概念を思い出しつつ、木田元の<瞬間>という概念の解説を読む。
《十九世紀の半ば頃、つまりニュートン力学が体系的に完成された時期に、時間が等質的な点の線状の継起だというニュートン流の絶対時間の概念がかなり普及してきて、それに対する抵抗が強く出てくる。キルケゴールはまさにそれで、少し遅れてドストエフスキーもそうだしニーチェの永劫回帰だってそう、ベルクソンになるともっとはっきりしますし、ハイデガーもそうです。現在が全く等質的な点の一つにすぎなくなってしまうニュートン流の時間概念に抵抗しようとしたキルケゴールは、『不安の概念』の註の中で、瞬間というのはアトポンな時間、ア・トポスな時間、つまり場所(トポス)なき時間だと言っています。つまり線状の等質的な系列の中に位置を持たない時間なんです。そうした瞬間とは、一種の切断であり、それによって未来と過去を全く違ったものとしてしまうような、つまり線上の時間の外にあって時間を切断し、その質を変えてしまうようなそんな機能を、キルケゴールは瞬間という概念に託していたのでしょう。》

●ハイデガーは、『存在と時間』においては、人間存在を「了解しうるもの」と見なしている。「了解しうる」とは、自らの意志によって自らの存在様態を改変しうる、ということでもある。しかし、それは、近代主義によって近代主義を乗り越えようとする自己撞着に陥った考えだと、木田元は言う。ハイデガー自身もそのことには気づいていた。いわゆる「転回」後のハイデガーは、「存在了解から存在の生起へ」という概念でそのことを言っている。

『存在と時間』では、ハイデガーは、人間は自らによる企図で、非本来的な時間に在る自分を脱却し、本来的な時間に立ち返ることができる、という考えを展開する。
《ハイデガーの分析によると、非本来的な時間性とは、未来はまだない、過去はもうすぎさってない、あるのは現在だけだという、現在だけが突出した時間の展開の仕方で、それを場にすると、存在を現前   性として見るような存在了解が生起することになる。『現象学の根本問題』の中で、現前性というのは作り上げられていつでも使用可能な状態で目の前にあることだと言って、そこでしか言っていないと思いますが、ハイデガーは被制作性と現前性とを繋いでみせています。
一方、本来的な時間性の方は、まず自分の究極の可能性である死に先駆ける、そうしてみると、自分の生きてきた過去、つまり<既在>が取りあげ直され、それに違った意味が与え直される、つまり反復される。そして現在は<瞬間>、つまり自分の置かれている歴史的な状況に豁然と眼を開くこととして生きられる。そうした時間化の仕方だと言われています。これは<将来>と<既在>と<瞬間>と、つまり未来と過去と現在とが緊密に連動して生起し、しかも将来が優越しているような時間化の仕方です。》

しかし、この「本来的な時間への立ち返り」は、人間が自らの自由意志によって為されうるものではないのだ、と「転回」後のハイデガーは考えるようになる。
《『存在と時間』の時点では存在了解、存在企投という言葉を使っていて、存在という視点の設定は人間の自由にある程度は委ねられており、多少、能動的に切り換えることもできるのだと考えていた。しかしまさにそこにこそ決定的な自己撞着が生じる理由があった。存在という視点の設定という出来事は人間、現存在の中で起こるのだけれども決して人間が意志的にやっているようなものではない。もしその視点の設定の切り換えが起こるとしても、どうしてそれが起こるのかとても人間には分からない。存在という視点の設定という出来事は、そうした切り換えが起こることによって人間のあり方が根本から変えられてしまうような、そういう決定的な出来事なのだと。それをハイデガーは<存在の生起>という言い方で呼んでいるのです。<存在了解>から<存在の生起>へ。これが<転回>と言われるものであり、この時点でいわゆる前期・後期に分節されるのではないでしょうか。》

《せっかく非本来的な人間存在と本来的な人間存在とを区別して、人間存在を本来性に立ち返らせようとしたわけなんだから、当然その本来的な人間存在の存在理解に向かって存在の意味を問いかけなければならないんだろうと思う。そのういう本来的な時間性が場面になっているような、そういう存在理解をモデルにして存在概念を構成することができるとしたら、存在=現前というのとは違った存在概念が手に入れられるのではないか、と考えてたんだろうと思うんだ。つまり、非本来的な時間性というのは現在が優位をもっているからこそ、それが場面になって行なわれる存在理解においては、「在る」(ザイン)ということが「現に在る」(プレゼンツ)として理解されるわけだけれど、現在と未来と過去とが緊密な統一をなしている本来的時間性が場面となって在るということの意味が理解されることになれば、それがもっと違ったものとして理解されることになり、その存在理解をモデルにして存在論が構築されるとすれば、伝統的な存在論とはまるで違った存在論が形成されることになるわけだろう。(中略)
ところが、現在と過去と未来とが緊密に結びつき、未来が優位をもつ本来的時間性が場面になって「在る」が理解されるとなるとどういうことになるか。まあ「成る」(ウェルデン)だろうと思うんだね。どうもそれ以外には考えられない。存在=現前性ではなくて、存在=生成ということになり、そうした新しい存在理解をもとにした存在者全体との新しい関わり合いが可能なのではないかと、あの時点でハイデガーは考えていたんじゃないかと思う。ということはつまり、在るということが成るということだとしたら、在るとされるあらゆるもの、ありとしあらゆるものが生成しつつあるものだということになるわけだから。》
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by daiouika1967 | 2008-05-17 09:16 | 日記