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12.2 水 晴

■青が冷たいような空。天気がよすぎてどうしよう?(@電気グルーヴ)と戸惑うような晴天。
昨日からの無駄なほどの元気が今日もまだ漲っている。歩いて事務所に向かう一時間、足が急く。急ぐ理由はなく、ただ身体の時間が急いているのだ。無駄な速足で、ヘッドフォンからはムーンライダーズ「TOKYO7」が流れてくる。爽快だ。そして、すこし苛立ってもいる。

■出勤前の一時間、昼休憩の一時間、喫茶店で、松岡正剛『日本流』(ちくま学芸文庫)を読む。二時間で、半分くらいを読み進む(いま、この日記を書いている3日に、残り半分を読み了えた)。

「歌を忘れたカナリヤ」は西条八十が雑誌『赤い鳥』に発表した詩に、成田為三が曲をつけた「童謡」のワンフレーズである。
-「巷間によく知られるように、『かなりや』は『唄を忘れた金糸雀は・後ろの山に棄てましょか』と始まって、『いえいえ・それはなりませぬ』と短く続きます。二番が『唄を忘れた金糸雀は・背戸の小薮に埋けましょか』とあって、ふたたび『いえいえ・それはなりませぬ』と打ち消している。三番はやや過激に『唄を忘れた金糸雀は・柳の鞭でぶちましょうか・いえいえ・それはかわいそう』となり、最終節で三たび『唄を忘れた金糸雀は』と始まるのですが、そこで歌詞も曲調もガラリと変わって、『象牙の船に 銀の櫂/月夜の海に浮かべれば/忘れた唄をおもいだす』というふうに結ばれる。そういう歌です」。
松岡正剛はこの唄を聴くと、「いまでもなんだか胸がつまってしまいます」と続ける。
雑誌『赤い鳥』を舞台に、三木露風、北原白秋、西条八十、野口雨情らが「童謡」を書いた、その時代心情について、松岡正剛はこう論じている。
-「この時代は、ようするに白樺派と大正デモクラシーと竹久夢二で始まり、関東大震災と大杉栄虐殺の大正十二年(1923年)をへて、ラジオやカフェや早慶戦や円本に象徴される昭和初期には未曾有の大衆文化の爆発を迎えるものの、昭和五年(1930)に世界恐慌の波を受けて大きく変質し、小林多喜二が虐殺される昭和八年(1933年)までにはすっかりその姿を消してしまった『ある社会・ある文化』というものを象徴しています。そのなかで童謡が生まれ、軍歌の波及とともにいったん消えていった。
鈴木三重吉らはこのわずかな時代の息吹の噴出する気配をとらえ、世界にもめずらしい童謡運動をおこしてみせたのです。それは、子供の読みものが低劣になってきたことに対する反発とともに、明治四十三年に制定された尋常小学校唱歌の動向のおかしさに敏感に反応したものでありました。
明治の唱歌は最初は西洋の真似に始まり、小山作之助や滝廉太郎や山田耕作の出現によってやっと日本の歌がつくれるようになったのに、文部省は明治末には時代を逆行するような尋常小学唱歌に切り替えようとしたのです。
三重吉も、白秋も八十も雨情も、この動向に反旗を翻したわけです。
その時代心境を絶妙な哀切にのせ、作曲家たちもみごとにこれに応えて、直截に子供たちにぶつけてみせました。それゆえ、日本の童謡というものはほんとうにわずかな機会をとらえ、まるで日本社会の隙間のようなところから芽生え、互いに連鎖し、爆竹のように連打されたものだったといえます」。

松岡正剛は、最近の日本を、「歌を忘れたカナリア」になっているような気がする、という。
「歌」とはどんな「歌」か。「カナリヤ」はどんな歌を思い出すべきなのか。

さて、「日本流」とは、どんな流儀なのか。日本流とは、いわば多様性を連鎖させていく一途、といった流儀のことだ。この「一途な多様性」を駆動させるのは、「デュアル・スタンダード」な論理操作である。しかし、ここでは、松岡一流の「日本流」尽くしを引用する。そのほうが、「日本流」の観念が、より彷彿とする。
-「たとえば、日本のどの町にもラーメンやカレーの店がやたらに多くて、ホテルの朝食にトースト派と味噌汁派の両方が用意されるのがおもしろいのです。スパゲッティ専門店が箸を出すのもおもしろい。宿泊産業界がホテルと和風旅館に分かれているのにも気にいっています。
日本中に狭い川がいっぱいあること、日本語の表記にふりがなやルビがあること、男だけの歌舞伎と女だけの宝塚があること、ホタルや花火に日本人が同じような思いをもっていること、落語という高座芸能が残っていること、小学生のランドセル姿よく似合うこと、農家のおばさんがやたらによく笑うこと、高倉健がパソコンのコマーシャルにひっぱりだされたこと、少女マンガという格別なジャンルがあること、和菓子がとてもきれいであること、こういうこともとてもおもしろい。
それから、なぜだかみんなが漱石だけは好きなこと、てりやきバーガーとかコロッケパンとかをすぐに工夫すること、ハンコや名刺や賀状が好きなこと、日本サッカー協会のマークが三本足のカラスであること、禅僧がまだたくさんいること、携帯電話のストラップが根付に似てきたこと、文庫本や新書本が多いことも、おもしろい。
さらには、パーティの記帳だけはなぜか筆や筆ペンが使われること、美輪明宏がシャンソンと童謡を並べて唄うこと、デジカメ以前からたいていの人が写真が上手であること、神輿を担いでいるのを見るとワクワクしてくること、大阪の家庭の七割以上がたこ焼き器をもっていること、団扇や扇子をもっている人がうらやましく見えること、イッセーや川久保玲のコム・デ・ギャルソンががんばっていること、受話器の前でおじぎをしながら挨拶をしていること、こういうことが大好きなのです。
それだけではなく、日本の曖昧な言葉づかいも、人前でしゃべるのがヘタなところも、すぐに根回しをするのも、芸能人がやたらに泣き出すことも、日本人が貯蓄をしすぎるところも、なかなか大きな家に住もうとしないところも、けっして悪くない。
これらはふつうは日本の評判のよくないところとされているけれど、そしてオランダのジャーナリストのカルル・フォン・ウォルフレンのように、そういうことが日本という国を幸福にしていないのだという指摘もあるのですが、私は必ずしもそうは思ってはいません。もうちょっと深いところでとらえたい」。


さて、この本は「日本流」をめぐり、「職人」「ネットワーカー」「仕組」「趣向」「見立て、アナロジー」「おもかげ」「うつろい」「わび」「さび」「あわせ」「間」「型」といった観念、事象をめぐっていく。
内田樹『日本辺境論』で、日本、日本人は、つねに自らを、「中心」ではなく「辺境」に存在するという自己意識を持ってきた、と論じた。日本人にとって、「中心」は、つねに外部にあった。その自己意識が、日本人に、どんな考え方、態様、性格を与えてきたのか。この視点は、松岡正剛が提示する「日本流」の観念、事象を捉えるときも有効であると思う。
たとえば、松岡正剛は、日本人の語彙には「遊的領域」が広すぎる、と指摘し、その「遊び」の原形には「スサビ」の感覚があるとする。この辺りの展開は、この本の中でも、おれが最も強く興奮したくだりだったのだが、簡単にまとめるのは難しい、というか、なにかしのびない気がするので、一部分を引用しておこう。
―「歌垣は集団で交わりあうことで、古代日本ではさかんにおこなわれていたコミュニティどうしのコミュニケーションの方法です。ツメは端に行くということ、感覚をハシやキワにもっていくことです。つまりは、そのときの気分を“極端”や“一端”にはこぶことです。
このように、端に行ってツメてみたくなること、また、そのように自身が誘われていくこと、それが『スサビ』という日本の遊びの原形のひとつだったわけです」。
―「スサビの系譜からはいくつかの重要な遊びのスタイルが生まれます。なかでも目立ったスサビが『スキ』というものです。
スキはいまではもっぱら『数奇』とか『数寄』とかと綴りますが、もともとは『好き』のことで、何かが好きになること、とりわけ男女のあいだの『好きぐあい』をさしています」。
―「荷風には、名状しがたい『遊び心』というものがあります。私はそこが好きです。一見すると、破綻にむかっているようでそれほどではなく、むしろキワやハシだけを遊んでいる。そんな感じがします。
しかし、誰もが荷風のようにスレスレを淡々と遊べるわけではありません。そのきわどい遊び心でつながっている人間関係を自分では遊べないかわりに横目でおもしろがることもありえます。それもまた遊び心というものです」。

ハシやキワを意識して、感覚をそのきわどい一線に、ぎりぎりとツメていくこと。そんな「すさんだ」遊び感覚を、いつまでも鈍らせないこと。
おれ自身、自ら、そんな「行き方」をしたいと願う一者だが、しかし改めて思ってみると、自らを「辺境」に居ると自己規定していなければ、そもそも「キワ」や「ハシ」といった境域を鋭敏に感知することも不可能であろう。
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by daiouika1967 | 2009-12-03 23:06 | 日記  

10月28日(火) 晴

午前中から午後にかけて、カフカ『審判』(池内紀訳 白水社)を読んだ。

夕方、<三省堂>で前から読もうと思っていた松岡正剛『誰も知らない世界と日本のまちがい ―自由と国家と資本主義』(春秋社)を買う。
夕方から、夜にかけて、ずっと読み耽った。380ページまで読み進んだ。

《カフカが描いたことは、「世界とのかかわり」は説明できないということです。「世界の枠組み」なんてあやしいもんだということです。
また、自分のことも説明できないという状景を書いている。そこにはなんらかの「変化」はあるけれど、それが社会的な意味をもつとはかぎらない。自分の実存はあるけれど、それしかないということです。》


第一次大戦後のドイツで、文学においては、カフカやトーマス・マン、ブレヒトらが表現し、哲学・思想においては、フロイトやハイデガー、アドルノを初めとするフランクフルト学派が表現した、ひとつの思考形態がある。
《第一に、近代社会は人間の「心理」という領域を侵していたということです。
第二に、しかし、人間は世界の全体を理解したり了解したりしきれないんではないかということです。それならむしろ、世界を理解しきれない「存在」や「実存」という視点から出発して、さまざまな「現象」に向かうべきだろうということです。
第三に、このようなことを確認する方法は、哲学でも文学でも美術でも音楽でも可能だろうということです。けれども、その表現は、従来の芸術を一変してしまうような様相になる可能性がある。それがカフカやブレヒトの表現になったということですね。
第四に、世界も社会も自分も、安易な「中心」をもつべきではないということです。いったん中心から離れてみてはどうかという提案です。グレゴール・ザムザは悲しい姿にはなりましたが、それによって家庭や社会の中心から「脱自」することができたんです。
第五に、存在や意識を見つめるためには、そこにまつわる夾雑物を捨てなさいということですね。存在が当初からまとうつもりもなかったものが、たくさんくっついているからです。しかし、そういうシャツを脱ぐには、そもそも空間や時間のなかに挟まれている自分というものを、その自分の場からはずしてかからないと、何も始まらないということでした。》


文学、思想、美術、音楽といった表現のジャンルを横断して、ある強力な思考形態、思考を促す磁場が働いている。
もっとも、同時代において、この磁場にあくまでも鈍感な表現も数多くあったに違いない。
あるいは、こうした思考の磁場に鈍感な表現の方が、量としては多かったのかもしれない。
現代産出される様々な表現においても、時代の現実に開かれた、それに触れることで思考の磁場に誘われるタイプの表現と、そうした磁場に鈍感な、むしろ思考の広がりを封殺するようなタイプの表現とがあるように思う。
そして量としては、圧倒的に、後者のタイプの表現が多く、優れた表現は少数でしかない。
例えば、文学においても、まるでカフカやカミュなど存在しなかったかのように書かれている作品が、いかに多いことだろう。

今日は終日読書だった。
夜、ワインを一本、風呂に入れて、ワイン風呂に入った。けっこう高級なワインで、もったいない気もしたが、どうせ飲まないのだから、取っておいても冷蔵庫の場所塞がりになるだけなのだ。
強烈な酒の匂いが立ち込める浴室で、ゆったりと浴槽に浸かる。浴後、肌がテカテカになっていた。
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by daiouika1967 | 2008-10-29 09:34 | 日記  

8月31日(日) 晴

●からっと晴れた。陽射しは強いのだが、涼しい風が吹いて、秋の気配がする。朝、顔を洗うとき、水道の水がいくぶん冷たくなったことに気づく。
夏の疲れが出るのか、秋口は、やたらと眠たい。今日は、ひねもすうつらうつらと過ごした。

●松岡正剛『17歳のための世界と日本の見方 ―セイゴオ先生の人間文化講義』(春秋社)を読み継いで、読了する。

●《第一講では、ヒトが直立二足歩行をして「人間」になったことの意味を話しました。そのときできあがった「脳」がちょっと不出来であること、でも、だからこそ道具や言葉を使うようになった背景を話しました。そして、私たちは七メートル先の「人間」や「情報」を見まちがうことがありうることを示しておきました。
みなさんも、七メートルの内側の目と、七メートルより遠い目の、両方を携えてください。
第二講では、人間の歴史の当初に、どういう「物語」があったのかということ、それが古代ギリシャや古代中国で、どんなふうな東西の特色をもったのかということ、そしてそのような物語や哲学にひそむ特色が、ユダヤ教や仏教という宗教のかたちをとると、なぜ影響力をもつのかということをお話しました。
このとき、「編集」という見方をすると、いろいろわかりやすく見てきたわけですね。いいですか。言語が物語をつくったのではなくて、物語を編集することが各国の言語をつくったんですよ。
第三講は、そうして編集文化の代表例として、とくにキリスト教の発生とその後に光をあてて、「善と悪」といった人間論にもとづく価値観が確立していった謎を、やや詳しくときほぐしてみました。なぜ、世界中に一神教が広まり、「神と子と精霊」」という見方がゆるぎないものになったのかということと、今日の世界の戦争や経済的価値観とは無縁なものではありません。そういう話をしましたね。
そして、二分法という見方では世界は語りきれないことを説明しました。
そうですね。日本には二分法ではない見方があったんですね。それをいつのまにか忘れてしまったんです。
第四講は、以上のような見方で、「日本」を眺めてみました。日本神話の特徴から中国の影響まで、浄土や無常の感覚から親鸞の考え方まで、さらには「幽玄」とか「侘び」といった「引き算の美学」が生まれていった背景についても、案内しました。
第五講は、ヨーロッパでルネッサンスとバロックという人間文化に関する二つの大きな見方ができあがった理由を考えました。「世界」をめぐるコスモロジーには、あきらかにモデルというものがあり、ここの発想の多くもその上に乗っていたわけですね。しかし一方、室町時代の日本に「座」の文化や「同朋衆」が登場したように、人々がそのつど集まって価値を見いだそうとしたつながりの文化の動きもあったわけです。》-松岡正剛(P352)


●夜、漫画:ジョージ秋山/監修:黄文雄『マンガ 中国入門 ―やっかいな隣人の研究』(ゴマ文庫)を読む。
日中関係の当事者としてではなく、普遍的な立場から、現在の中国や日本の姿を捉えるためには、現在の中国や日本の政治的な立場、経済状況、歴史的な経緯、生活者の在りようをよく知らなければならない。
日本のメディアで報道される中国についての情報は、どの情報にもなんらかのバイアスがかかっている(中国で報道される日本についての情報はもっとひどいバイアスがかけられているだろう)から、日本人が中国について考える(中国人が日本人について考える)ためには、かなりのメディアリテラシーが必要になるだろう。
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by daiouika1967 | 2008-09-01 09:59 | 日記  

8月30日(土) 雨

●終日驟雨。室内に入ると湿気がこもって蒸し暑い。胸元が汗でベトッと濡れる。気持ちが悪い。月末は雑然とした処理仕事が溜まる。汗をぬぐいつつ仕事にかかる。不快だ。

松岡正剛『17歳のための世界と日本の見方 ―セイゴオ先生の人間文化講義』(春秋社)を読む。第四項の途中(226ページ)まで読み進む。
松岡正剛は、「人間文化」をわかるためには、ひとつは「世界と日本を歴史観をもって見ること」、もうひとつは「社会と文化はどのように成立しているのかをよく知ること」だと説く。おれは、このふたつのうち、とりわけ「世界と日本を歴史観をもって見る」ための基礎的な教養が欠けている。この本は、だから、とても勉強になる。

●夜、DVDで『てれすこ』。中村勘三郎と柄本明が“やじきた”を演じ、小泉今日子がヒロインで絡む。味のある役者たちが、読本的な人情味、落語的な洒脱を演じている。映画より芝居で見たほうがおもしろいかもしれない。
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by daiouika1967 | 2008-08-31 09:26 | 日記