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9月29日 火 曇ときどき小雨

昨日11時に寝て、たっぷり眠ったので、今日はいくぶん調子がよかった。
ちょろちょろ読み継いだ武満徹・川田順造『音・ことば・人間』(岩波現代ライブラリー)を読み了える。
「ことば」がまだ文字としてその意味を固めることなく、音の振動と結びついてしか存在しえなかった頃、それが歴史の一時期として実在したかどうかは別にして、その「ことば」の始原のありように想像をはせてみると、文学と音楽の区別がつかない、ビートが、そこに響いている。
音楽を聴き、そこから「ことば」を読みとり、文章を読みながら、そこに音楽を聴く。ビートの体験。
―「音楽を作るにも『ことば』を全く無視することはできず、寧ろ私の場合は、自らの裡に生じる音楽的な想念や衝動と謂うものを、努めて『ことば』で把えようと様々な試みをします。音楽化する以前に言語化したいと謂う欲求があります。ただ、(私は)ここで『ことば』と呼ぶものが、論理の道筋を正しく搬んだり、ものを指示したりそれを他と区別する機能としての『ことば』(言語)と等しいものとは考えません。作曲するに際して(私が)捜しもとめるのは、物象を規定し限定するだけのものではない想像力の容器としての『ことば』、と謂うようなものです。それは私の思考の過程に振動(ヴァイブレーション)をあたえ喚起的に作用し、眼に見えない直観や思考の縁を明瞭にします。時にそれは一個の単語であるかも知れず、また他人には解読不能な暗号のような一行である場合もあります。それらの『ことば』は、言語には翻訳不能な音楽の形態へと私を導くのです。『ことば』がその容量を超えるほどの意味を溢れさせ、融解し、響きに変わる様態を(私は)全身体的に感じるのですが、それでも多くの場合、私は、音の中に佇んでしまいます。」(武満徹)

今日の出費。昼、コンビニ、350円。プラス650円。夜、99ショップ1500円(別財布)。
朝食、キャベツ、チーズケーキ。昼食、大豆バー2本、おにぎり2個。おやつ、エクレア。夜、ラーメン。

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by daiouika1967 | 2009-09-29 22:48 | 日記  

9月19日 土 晴

午前中は、喫茶店で武満徹・川田順造『音・ことば・人間』(岩波同時代ライブラリー)を読む。半分くらいまで読み進んだ。ふたりの往復書簡。川田順造が「豊穣な未開」についてレポートし、武満徹がそれに呼応しつつ「索漠とした現代」について書き綴る。そのふたつが対位法のように協奏され、重層的な現在が浮かび上がる。

ブックオフへ。川田順造の『無文字社会の歴史』(岩波同時代ライブラリー)を見つける。じつにタイムリー。こうしたシンクロニシティには素直に従うべきである。買い。島尾ミホ『海辺の生と死』(中公文庫)、海猫沢めろん『零式』(ハヤカワ文庫)も手に取る。そして、青木淳悟『いい子は家で』(新潮社)が、なんと100円になっていた。迷わず買い。買っていなかったのが幸い、という感じ。合計1150円。

午後から、亀島のアジトへ。SMの女王様、レズ撮影会のモデル、デリヘルの店長、カフェの店長、マッサージ嬢、愛人仲介人、など様々な経歴をもつアゲハ嬢のAちゃんを事務所に呼ぶ。今度は彼女にスピリチュアルカウンセラーになってもらおうという算段だ。幼馴染のT君ややくざのUさんも来て、悪企みの相談をした。

今日は特に何をやるというのでもなく、ふわっとした気分でいるうちに一日が終わってしまった。まあ、こんな日もある。
今週は仕事の生き帰りなど、ずっと細野晴臣、ドクター・ジョン、ミーターズ、アラン・トゥーサンを聴いていた。ニューオリンズ特有の、シンコペーションのきいた、チャカポコした感じのリズムが、身体に心地よく響いている。

今日の出費。喫茶店350円、ジュース150円、漫画喫茶1000円、ブックオフ1150円。合計2650円。マイナス1650円。“別財布”(今後、45000円の財布を別財布と記述する)から高島屋の弁当1750円、コンビニ1150円。計2900円。
朝食、飯、梅干、ご飯、かつおぶしと油揚げの味噌汁、昆布、冷奴。昼、カップヌードル。夜、高島屋弁当、シュークリーム、アイス。

朝日を眺めるP。
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アジト
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by daiouika1967 | 2009-09-19 23:28 | 日記  

4月24日(木) 雨のち曇

昨夜から降り続いた雨は夕方まで降り続いた。午後、家を出て、名駅に向かうが、いつも歩きながら聴いている音楽が、今日はとてもいい音で響くように聴こえた。空気がしっとりしているからだろうか。耳にヘッドフォンをつっこんで聴いているのだから空気の質など関係ないようにも思うのだが、耳腔にも空間はあるのだからもしかすると関係あるのかも、と思いなおす。

午後。『KAWADE道の手帖 武満徹 没後10年、鳴り響く音楽(イメージ)』(河出書房新社)を読んだ。青山真治×大友良英の対談、小沼純一へのインタビュー、椹木野衣、佐々木敦、大谷能生、クリストフ・シャルルによる論考、武満眞樹、瀧口修造、山口勝弘、磯崎新、一柳慧、高橋悠治、吉増剛造、福永信、吉田アミ、湯浅学、近藤一弥、菊池雅晃によるエッセイ、武満徹×谷川俊太郎、×デビッド・シルビアンの対談、武満自身のエッセイをいくつか。

娘の武満眞樹による証言―「(両親)二人の新婚時代は本当にかなり貧しかったようです。でも父は、裕福だとか貧しい、という感覚のない人で、それは死ぬ間際まで同じでした。家計のやりくりは母に一任していましたし、本人は友人と酒を飲むお金、好きな本を買うお金、見たい映画を見るお金、そして終電車に乗れなかったときのタクシー代さえあれば満足な人でした。仮に、もし仮に、父が億万長者になっていたとしても、それは変わらなかっただろうと思います」。
武満徹自身は、「生活することはたいへんだ」と云う―「私は労働に慣れていないし、またそれは私に向かなかった」。
武満徹は、生活すること、金銭を手に入れたり遣ったりしながら生活するということに、死ぬまである種の違和感を感じつづけていたのではないだろうか。

武満徹は、この世界に属してはいなかった、というか、常にこの世界からはみだしていた。

椹木野衣は武満徹にとっての音楽、いや、音、について、こう語っている。
「この世界には、人間の人格とは離れて音というものがある。たとえそれが音楽と呼ばれているものであっても、それは孤絶した内なる源泉から発するものではない。『音楽が鳴る』ということ自体が、否定しがたく脱自的なものであり、結局、集団的な場でしか確認しようがないものなのだ。しかも、この場は決して一体のものではない。音が自己にとって既に他者でしかないように、そのような集団的な場にとてもなお、音は確実に各人にとって他者であるほかない。つまり音とは、常に決定的に複数的なものであり、どこまでいっても一に解消は不可能なのだ。音とは、それを作るものにとってもは、発するものにとっても、聞き取るものにとっても、ひとしく他者であるほかない。裏返せば、音が介されることではじめて、世界は複数的な他者性を開示することができる。音楽とは、そのような複数的な他者性のなかで、人と人とが、無根拠な共感によってでもなく(そこに共感はない)、教育や知識の共有によってでもないかたちで出会う、その共同の一瞬をかたちづくるための契機なのである」。

「音楽」は、「共同的」なものだが、「社会的」なものなのではない、それは、「友愛的」なものである。
武満徹は、じっさい、奇妙に社会性を欠き(異世界的でありながら)、友愛に厚かった。

武満徹自身のエッセイから―「他者との関連なしに音楽を想像することは私にはできないが、それでも音楽は<社会>という単位においては、ほんとうのすがたでは現れることがないもののように思う。音楽は人間の孤独な感情に結びついたものであり、それゆえに、社会との相関においてその意味が問われるのである。
音楽的感動、音楽的体験はつねに個人的なものであり、音楽は、生の<開始>のシグナルとして私たちを変える。そして、それらの無数の個別の関係が質的に変化しつづけ、ついに見分けがたく一致する地点に社会はあるのではないか。社会は、自己と他とが相互に変化しつづける運動の状態として認識されるべきであると思う。
私は、生きることにおいて信号の役割をはたしたい。私にとって音楽はそのために必要な唯一の手続きである」。
ここで武満徹の云う<社会>とは、制度としての<社会>ではない、「無数の個別の関係が質的に変化しつづけ、ついに見分けがたく一致する地点」が<社会>だとするなら、それはエロティックな友愛の共同体としての<社会>である。

武満徹は、常にこの世からずれた地点に佇んでいる。その佇まい、生のスタイル。谷川俊太郎の言葉をいくつか引用する。
「武満はいつでも自分に、これでいいのかと問いつづけていると思う。だが、自分を破壊してしまうほど、自分を問いつめることはしない。若いころは、ちょっとそういうスリルを感じさせたけれど。」
「非常に純粋な人間のように見られているが、武満には純粋ということへの傾斜は全くないと私は思う。そういう云い方で云えば、彼は不純だし、不純の中にしか豊かさを見出せぬタイプだろう。」
現実の物に執着しない。というよりあまりリアリティを感じないと云ったほうがいいかもしれない。本や映画でも、SFや幻想怪奇物を好むし、美術もリアリズムより抽象を好むようだ。彼はプラクティカルな世界に住んでいない。ミュージック・コンクレートの創始者のひとりである武満には、現実音すらもともと現実的に聞こえていないのかもしれない。彼の住んでいる世界は少なくとも私の住むそれにくらべて、よりイマジナリーだ。現実生活を大事にしない訳ではないが、彼にとってはその外にもっとリアルな幻視的な世界があるのだろう。彼が時々ロマンティシストに似るのもそれ故かもしれない。現実生活における知恵とか、技術については武満はむしろ余り成熟してゆかぬようだ。」
武満にとって過去は経験として蓄積されるというより、一瞬の啓示のようなものであって、それ故にこそそれは過ぎ去りはしないのではないかと、そんな風に思ったことがある。そしてまた彼は、忘れるべきことは見事に忘れ去るのではないか、とも。過去のいろんな苦労について、センチメンタルになることは彼にはない。」
「かっとなった彼を見たことがある。意外に激しい一瞬の暴力の爆発にそれはむすびついた。彼には人が殺せると、その時私は感じた。もちろん謀殺ではない、いわゆる情熱犯罪である。彼の中には、いつまでもuntamedなものがある。それが彼の魅力のひとつだ。

夕方、駅西の中古CDショップ<69>に寄って、大瀧詠一『ナイアガラCMスペシャル』の<SPECIAL ISSUE>盤が落ちているのを見つけ、急いで手に取る。ついでに、<タワレコ>で買おうかどうしようか迷っていたアタリ・ティーンエイジ・ライオットのベスト盤も見つけた。勢いがついて、トム・ウェイツ『レイン・ドッグ』(これが1985年に発売された時、たしか同じ年にジーザス・アンド・メリーチェインの『サイコ・キャンディー』も発売されて、おれは一時期この2枚のアルバムをかなり聞き込んだ覚えがある)、スタン・ゲッツ/ジョアン・ジルベルト『ゲッツ/ジルベルト』も。4枚買った。

夜。日記をつけ、ネットを周り、ときどきPをじゃらしたりしながら、筒井康隆『最後の喫煙者 ―自選ドタバタ傑作集①』(新潮文庫)の残り、「こぶ天才」「ヤマザキ」「喪失の日」「平行世界」「蔓延元年のラグビー」を読んだ。ついで、つげ義春『義男の青春・別離』(新潮文庫)を半分くらい読んだ。
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by daiouika1967 | 2008-04-25 11:21 | 日記  

4月23日(水) 曇

朝からどんよりと曇り、夜になって雨が降り出した。
午前中はパソコンに向かって仕事、午後になって家を出た。疲れているようだ。歩いていても足が重く感じる。疲れるようなことは何もしていないはずなのだが、バイオリズムが低調なのだろう。しかし、こんな日にかぎって、仕事が重なっている。
喫茶店に入ると、蒸し暑くて、首元に変な汗をかいた。それに、腹が張ったようになっていて、やたらとブウブウ屁が出る。眠い。椅子にすこし深く座って、うつらうつらした。
喫茶店ですこし時間を潰してから、クライアントの会社に向かった。似非コンサルタントとしての仕事である。適当に口から出任せを話す。体調が悪いからといって、口が回らないかというとそうでもない。自動饒舌マシーンである。逆に、体調がよくて気持ちが充実している時に、急に言葉が何も出てこなくなってしまうことがある。
クライアントの会社を辞して、次に、営業でアポイントが取れたデリヘルの事務所に向かった。顔は溶けかかって不気味だが話してみると人は良さそうな社長を相手に、WEB制作のプレゼンをした。滑らかに喋ることはできるものの、プレゼンに必要な迫力が出せない。結果は、「考えてまた連絡します」。うまくいかなかった。
夕方、家に帰った。部屋には、女が一人と猫が一匹待っている。どうやらこの猫はおれが飼っている飼い猫らしい。この女はおれの妻ということらしい。と、いうような離人症の症状が起こったので、これはやばい、なんか、こう美味いものでも食わないと、と、最近近所にオープンした回転寿司に、寿司を食べに行くことにした。
中とろ、大とろ、明太子、焼き穴子、はまち、北海ダコ、数の子、いくら、うに。茶碗蒸し。美味しくて、それで、すこし現実感が回復した。
家に帰り、日記を書いてアップし、夜、谷川俊太郎『武満徹の素顔』(小学館)を読んだ。谷川俊太郎が武満徹と生前何らかの関わりがあった8人にインタビューしている本だ。小澤征爾、高橋悠治、坂本龍一、湯浅譲二、河毛俊作、恩地日出夫、宇佐美圭司、武満眞樹の8人。
武満徹の音楽について、というより、武満徹の人となりについて、髣髴としてくるような内容だった。
武満徹のことを、火星人のようだった、と誰かがそう言っていた。武満徹という人には、アナザー・ワルールドリー(異世界的)な存在としての、現実感が希薄であるがゆえの存在感があったのだろう。
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by daiouika1967 | 2008-04-24 21:54 | 日記