タグ:町田康 ( 5 ) タグの人気記事

 

7月11日(月) 晴

暑くて、汗が噴出す。汗まみれで目が覚めた。
朝っぱらから気分が落ちるメール。け、更年期障害のくそばばあが、と陳腐な悪態をつく。
いや、おれは正しくはない。でも相手が正しいわけでもない。自己嫌悪には陥らない。おれは間違ったまま自分を肯定する。間違ったまま自分を肯定すれば、不安定で攻撃的な気分になる。
修羅の門が開く。そうだ、おれはいつも、この「感じ」を待っているんだ、と気づく。おれは、この魂がざらざらと荒れる「感じ」を、あえて自ら招来している。
ただ、気をつけないと、落ちっぱなしで、喘ぐような重苦しさに潰れてしまう。
こんなときこそ、色川武大が説くように、「フォーム」をキープすることが重要になる。
フォームをキープして、粛々と日常を過ごそう、と、そう姿勢をただす。

SEEDA『HEAVEN』を久しぶりに聴く。初めて、その良さが分かる。「終わりは一瞬」というリリックに、どうしようもないリアリティを感じる。デッドエンドのリアリティ。むせ返るような湿度のなかを、50分歩く。

町田康『ゴランノスポン』(新潮社)を読む。短篇集。表題作の「ゴランノスポン」のココロが破れる寸前の多幸症的な速度感、切迫感、抑鬱感。そのマーブル模様がいまのおれのグラグラした心境とシンクロ。
おれは、やはり、この修羅を愉しんでいる。
[PR]

by daiouika1967 | 2011-07-11 23:58 | 日記  

9月6日(土) 晴ときどき雨

●ジメジメジトジトの鬱陶しい天気。今週はずっとこんな調子だった。いつまでつづくのか。いいかげんにしろ、という気分だが、自然に文句言っても詮無い。

町田康『宿屋めぐり』(講談社)を読み継ぎ、読了する。
近代文学、いわゆる「文学らしい文学」は、「人間関係」を書く。「人間関係」という織物の綾が、いかに細密に的確に描かれているかが、「文学らしい文学」の「本当らしさ」、すなわち「リアリズム」の基準になる。
しかし、自分がじっさいに生きている、いま、この場所で起こっていること、「ほんとうのリアル」を見据えて描こうと思ったとき、こうした「リアリズム」はまったく役に立たないのだということがわかる。
現代において、「リアリズム」はもはや「リアル」を書くことができない。

そもそも「リアリズム」において書かれる「人間関係」とは何なのか?石川忠司は『現代小説のレッスン』(現代講談社新書)のなかでこう言っている。
《文学作品と実生活とを問わず、一般に「人間関係」とは、「告白」や「心理分析」などの言語活動が当事者たちの間で沈殿、腐敗し、お互いがお互いの勝手な理解とか(相手に対する)結論に到達した挙げ句、それが彼ら(彼女ら)を予定調和的に縛って作られる実に嘘くさい「文学」的構築物だ。》

町田康の小説で、「告白」や「心理分析」が出てくるとすれば、その「告白」や「心理分析」は、あらかじめ間違ったものとして、つまり、「誰かの思い込み」でしかないことが明白な形で提示される。
ただし、町田康の小説では、その「誰かの思い込み」が、過剰なまでに丁寧に描写されていて、読んでいるとふと、自分自身もまた何らかの「思い込み」のなかに生きているのではないか、いや、そもそも「思い込み」の外部、つまり「客観的」な世界に生きている人間なんて存在しないのではないか、という気分、というか認識に襲われる。

誰もが「間違った思い込み」のなかにいる。
「間違った」世界のなかで、「間違った」自分を生きている。
そこには、「予定調和」をもたらすような統括的な視点は存在せず、したがって「人間関係」は書かれ得ず、「人間関係」のないところでは「自分」もまた確固としたアイデンティティをもったものではなくなる。
「自分」は、そこで起こる事件や登場する他者に触れて、いかようにも変態、変身しうる、なんだかぐにゃぐにゃしたものになるだろう。
そうなれば、その「自分」を通してしか描かれ得ない「世界」もまた、ぐにゃぐにゃした時空のなかにただよう、なんだかはっきりしないものになるはずだ。

しかし、おれたちは、じっさいに、そんな「自分」のまま、そんな「世界」に彷徨っているのである。

●歩きながら、吉本隆明『50度の講演』、「親鸞の造悪論」を聴いた。
録音が悪くて、最初、言葉を聴き取るのに苦労したが、しばらくするとすぐにそんなことが気にならなくなった。それくらい熱の入った講演で、オウム事件について語る吉本隆明のアグレッシヴな語り口には、大げさに言えばすこし畏怖の感を抱かせるくらいの迫力を感じた。

物事を考えるのなら、自分の頭で、根源的なところまで考えていかなければ、なんにもならない。
そうして「自立した思想」を獲得するのでなければ、最初から何も考えないのと同じこと(いやもっと悪い)だ。
それは、容易になしうることではない。自立した思想の言葉は、すさまじいたたずまいをしている。

●夜、DVDで『7月24日通りのクリスマス』。吉田修一の原作は、通俗的なラブストーリーになるところを、きわどいところでもちこたえているような小説だったが、映画の方はまるでダメだった。シナリオもダメ、演出もダメ。ちょっとひどすぎて、何がどうダメなのか言葉にする気力もない。
[PR]

by daiouika1967 | 2008-09-07 12:34 | 日記  

9月5日(金) 曇ときどき雨

●蒸し暑い、鬱陶しい天気だ。気温はさほど高くもないのに、胸元に汗がジトジトと滲む。
今日は、打ち合わせがふたつ。午後、ひとつと、夕方ひとつあった。ヒルトンのロビーで一本目の打ち合わせを終え、<くねくねラーメン>でにんにくたっぷりのベトコンラーメンを食べて、<三省堂>へ歩く。

●<三省堂>では、町田康『宿屋めぐり』(講談社)を買った。600ページの分厚さ。夕方の打ち合わせまで3時間ほど時間があったので、喫茶店に入り、さっそく読み始めた。100ページ目くらいで完全に作品の世界に没入し、250ページまで読み進んだところで時間になった。作品の感触としては、しりあがり寿『真夜中の弥次さん喜多さん』に近いような…、という漠然とした感想をもつ。

●大須を抜けて上前津の事務所まで歩き、今日二本目の打ち合わせに入る。すこし長引いて、4時間強かかった。家に帰ると夜11時前になっていた。なんだか変に神経がピリついていた。打ち合わせで話しすぎたせいか、蒸し暑さのせいか、昼食べたベトコンラーメンのせいか。
神経を鎮めるために、ユーカリの香りのするバスソルトを入れたぬるめの風呂にゆったりと浸かった。

●今日もよく歩いた。一万三千歩歩いた。歩いている間に、吉本隆明『50度の講演』から、「苦難を超える ―『ヨブ記』をめぐって」を聴いた。

いいことは真にいいことなのか、悪いことは真に悪いことなのか。
いいことをすればいい報いがあり、悪いことをすれば罰せられる。その倫理観念は、正しいのであろうか。現実にはどうなのだろう。
例えば、大地震に襲われれば、個々の人間の善悪など何の関係もなく、ある人間が死に、ある人間が生き延びる、その運命を分かつのは、偶然によるものでしかない。
人間は、人間のもつ倫理観念などにはいかなる関係ももたない、自然という環境のなかに棲んでいる。自然との交換なしには、人間の生は一分たりとも立ち行かない。
そのような存在条件をもつ人間にとって、倫理観念は、ある区切られた範囲でのみ通用する暫定的な取り決め以上のものではない。
善悪の区別は、どこまでも相対的にしかなしえない。絶対的に正しいこと、絶対的に間違っていることなどは、この世には存在しない。

人間は“神”の前では、いかなる決定権をも持たない、卑小な存在でしかないのだ。
自分はいいことをしている、―そう思っている人間は、“神”にその傲慢さを罰せられることなるだろう。
いいことをするときは、なるべくひっそりと、むしろそのことを恥じつつ行なわなければならない。

あるいは“神”とは、人間が、自らの卑小さを照らし出すために創造した観念であるのかもしれない。
そこで通用している倫理観念が、偶々そうであるものであるものに過ぎず、なんら絶対的なものではなく、だから変革も可能であるようなものでしかない、ということ。
“神”とは、人間が自らの存在の卑小さを自覚することで、逆説的に変革の可能性を開くための、狡知に長けた人間が創造したひとつの観念なのかもしれない。
[PR]

by daiouika1967 | 2008-09-06 08:31 | 日記  

3月10日(月) 雨のち晴

10時頃、起床。キッチンの洗い物、ゴミ出しなどする。朝は雨が降っていたようで、道路が濡れていたが、ゴミを出しに出たときにはもう雨は止んでいた。朝食に、玉子焼きを拵え、苺のヘタを取り、インスタントスープにお湯を注ぐ。パンといっしょに食べた。
午前中の残りは、パソコンに向かって、仕事、1時間くらい。そのあいだ妻は、シャワーを浴び、湯上りのボディケアをして、化粧をし、着替えている。今日は病院に出かける日なので、そのための身支度をしている。

妻は11時半頃、家を出た。ひとりになった。それで、エロDVDを観て、オナニーした。妻とはけっこう頻繁に性交渉があるのだが、時に、セックスではなくオナニーしたくなることがある。互いにすっかり馴染んだ体を交わすことでは満たされない、倒錯的な逸脱行為への渇き

昼過ぎに家を出て、栄まで40分、歩いた。佐野元春『Coyote』を聴きながら。『Coyote』はここしばらくずっと、ヘヴィ・ローテーションで聴いている。久しぶりにエッジの効いた、ROCK ‘N’ ROLLな響きが鳴っていて、とてもいい感じ、グッと迫ってくる。

栄のハーゲンダッツで、オレンジジュースを注文し、町田康『猫にかまけて』(講談社)を読んだ。この本の中で、町田康が飼っていた2匹の猫(ヘッケとココア)が、衰弱して、死ぬ。その行を読みながら、思わず泣いてしまいそうになる。それでも喫茶店で、おっさんがひとり涙を流しているのは、ちょっと気持ちが悪いだろうなという自制が働いて、眼をウルウルさせるに留まった。
喫茶店を移動して、一気に読みきった。

町田康は、あとがきで、「どうでもいいようなことで悲しんだり怒ったりしているとき、彼女らはいつも洗練されたやりかたで、人生にはもっと重要なことがあるのを教えてくれた」と書いている。そして、仏教では万物平等というが、いや、私には「猫は人間より遥かに優れていて、神仏に近い存在であるようにみえてならないのだ」と書いている。

この感覚は、おれも猫を飼っていて、とてもよくわかる感覚だ。この本には、猫がしゃべった言葉がたくさん記されているが、もちろんそれは町田康が「(この子は)いまこういうことが言いたいんだろう」と忖度した言葉が記されているわけだが、それでもそれは人間の側の勝手な思い込みではなくて、やはり猫が発信しているものなのだ。と、そう信じさせる力が、猫の挙動には、備わっているように思う。おれも、最近はよく、Pと「会話」している。
例えば、飼い猫の一匹、ココアが、町田康が書いているその文章を読んで、こんなふうに批評する場面がある―「ほーん。なかなかうまく書けている。書けてはいるがどうも表現が表面的かつ軽薄で毫も心にしみてくるものがない。例えばいま書いているそのシーンで、主人公はししゃもを食べているけれども、そのししゃもがちっともおいしそうでない。そのししゃものことを書かないで、愚にもつかない心理描写ばかりをやっている。それから設定では主人公は猫を飼っていることになってけれどもその猫はどうしているのかしら。ししゃもを焼いて猫が気がつかないわけがありませんよ。襖の陰からちょらちょら走り出てきて、ちょっとそのししゃもを私にもくれ、と言うはずですよ。そしたら主人公はししゃもを猫にあげるのかしら。それとも自分のお菜が減るのが惜しくてあげないのかしら。くだらない内面の描写よりもそういう重要なことを書かなければいけません。実際の話、彼の猫にとったら彼の社内での立場とかそんなことよりも、いまししゃもが貰えるかどうかが死活問題なのです。そこをほうっておいてなにが文学ですか。そういえばあなたはさっき私に鯵の開きをひとかけらもくれずに一人で全部食べておしまいなすった。そういうエゴイストによい文学が書けるのでしょうか」。
じつに簡明かつ的確な文学論である。猫は、こんな高度なことまで「しゃべる」ことができるのだ。

午後。<丸善>で、坪内祐三・福田和也『正義はどこにも売っていない』(扶桑社)、内田樹『女は何を欲望するか?』(角川新書)の2冊を購入した。
伏見まで歩き、喫茶店に入って、坪内祐三・福田和也『正義はどこにも売っていない』を読み始めた。50ページ読んだところで、友人のTから電話が架かってきた。ちょっと打ち合わせしたいことがあると言う。名駅で5時に待ち合わせることにした。

Tともうひとり、やくざのT2。いつものメンバーで、駅西にあるいつもの喫茶店に入った。怪しい中年男の集会の図。あの3人は絶対に何か怪しいことを話し合っているにちがいない。
けれども、じっさいは、べつに何も不穏なことを話しているわけではなく、T2が、しのぎがままならないので、今度デリヘルとラーメン屋をオープンするのだという。それで、「やっぱりラーメン屋もデリヘルも清潔感がないといけないよね」などということを、たらたらした感じで話しているだけのことである。じつに可愛らしい。
7時まで話をして、Tにマックスバリュに乗せて行ってもらい、夕食に冷凍のきしめんと明日の苺などを買って、家まで送ってもらった。

夕食に、きしめんを拵える。冷凍の刻み葱とホウレン草を入れて煮て、さいごに鰹節を大量にかける。
パソコンを起動し、すこし仕事をして、9時からはドラマ「バラのない花屋」。その後は、森銑三・柴田宵曲『書物』(岩波文庫)を読んで過ごした。140ページまで読んで、顔を上げると、1時をまわっていた。
妻は少し前にベッドに入ったようだ。おれも電気を消し、ベッドへ。寒かったので、妻の体で暖を取っていたら、だんだん勃起してきた。それにともない、おれの手つきや触る箇所も怪しくなってくる。妻も興奮し始めるのが伝わってくる。そのままセックスに雪崩れこんだ。
2時過ぎ、眠りに落ちる。
[PR]

by daiouika1967 | 2008-03-11 09:48 | 日記  

2月26日(火) 雪のち雨

最近、明け方になると、Pがベッドに来て、寝ているおれの顔を覗き込むようになった。Pの鼻息がかかるくらいの至近距離だ。今日も頬がこそばゆいなと思って目覚めたら、Pのヒゲが触っていた。おれが目覚める気配を察知すると、Pはますます大胆になり、おれの寝ている枕の空いている小さな部分に座り込み、頬や髪の毛を手で弄い始めるのである。
眠っていられないので、いったん起床して、キャラットの袋を開け、皿にもってやる。その作業をしているあいだ、Pはものすごく嬉しそうにニャッニャッと小さな鳴声を上げ、皿を床に置いてやると、ワシワシと食べ始める。その様子を見て、おれはベッドに逆戻りし、二度寝するのである。

今日は、9時過ぎに、二度寝から醒めた。
朝食は焼餅二個と、冷凍食材から、ひじきと切干大根の煮付け。今日は、妻が用意した。
日記をつけ、ネットを周回して、11時過ぎに家を出た。
外は雪が降っている。ボタボタとした水気の強い雪で、午後から雨になった。なぜか、雪が降っているときより、雨になってからのほうが空気が冷たくなったような気がした。

ランチは、名駅のオープンカフェで、白身魚フライを挟んだパニーニ、サラダ、チョコレートケーキ、コーヒーのセット。食べながら、小林秀雄『作家の顔』(新潮文庫)を読み継ぎ、読了した。
午後、<三省堂>に行った。新刊文庫の棚から、橋本治『蝶のゆくえ』(集英社文庫)を選んだ。次いで文芸書の新刊書の棚を流していたら、町田康の新しいエッセイ集『フォトグラフール』(講談社)が出ていたので、手に取って、いそいそとレジに向かった。
名駅周辺の喫茶店を何軒かハシゴしながら、まず町田康『フォトグラフール』(講談社)から読んだ。味のある写真が一枚選ばれ、町田康がその写真にキャプションを長くしたような短文を付けている。初出を見ると、『現代』に連載されていたものらしい。ところどころニマニマしながら、一息で読んでしまった。
次いで、橋本治『蝶のゆくえ』(集英社文庫)を読み始める。冒頭に、虐待され殺される子供が主人公の短編(「ふらんだーすの犬」)が置かれていて、読んでいるあいだ身を切られるような気分が胸に逼ってきた。
「あとがき」で、橋本治は、こう書いている-「親による子供の虐待死を扱おうとすると、事態の悲惨に目を奪われて、書き手の視点はどうしても『加害者』である親の方に向けられてしまう。それはいたし方のないことではあるけれど、そうなって大きく抜け落ちてしまうのは『子供の立場』で、そもそも小説というのは、その『可哀想な子供のありよう』から始められたのではないか」。
この短編は、だから、子供が主人公なのだが、しかし、具体的に描写されるのは、ほとんどその親のありさまなのである。親のありさまを描出することで、そういった親との関係において生きるしかない子供の悲惨が映しだされるのだ。
この短編集は、現代を生きる様々な年齢の“ありふれた女たちのありよう”が題材にとられている。4編、200ページまで読んだ。

6時半、ラシックで妻と待ち合わせた。
連れ立って、パルコに行き、おれの鞄と財布を買った。合わせて4万とちょっと。妻からのプレゼントである。まだかなり先だが、“誕生日プレゼント”ということらしい。
それから、ラシックに戻り、8階の麻婆豆腐が有名な店に行って、ふたりで“満腹セット”というのを食べた。青菜炒め、地鶏の炒め物、エビチリ、麻婆豆腐、ごはん、デザートに杏仁豆腐。飲み物はプーアール茶。“満腹セット”というだけあって、けっこうな量があり、麻婆豆腐はものすごく唐辛子が効いていて、味は美味しかったのだが、食べ終わったあと、気だるい飽満感に全身を満たされてしまったのだった。
窓辺に席で、外を眺めると、雨がしとしと降っていた。

家に帰り着くと、8時過ぎになっていた。
腹具合のせいか、天気のせいか、激しい物憂さに見舞われ、体中の毛穴から何かが漏れ出てきそうな、鬱陶しい気分がつづいた。
11時過ぎまで、何もする気にならず、寝返りを打ちながら、テレビを眺めて過ごした。
ようやく腹も治まってきたので、シャワーを浴びて、橋本治『蝶のゆくえ』(集英社文庫)の残りの二編を読み了え、しばらくPをじゃらして疲れさせ(そうしないとおれの入眠を邪魔しに来るから)、1時半頃、就寝した。
[PR]

by daiouika1967 | 2008-02-27 10:33