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8月7日(木) 晴

午前中、仕事の合間に日記を書こうとしたところ、日記に予想外の時間がかかってしまったため、仕事が午後にずれこんでしまった。3時頃までパソコンに向う。別に〆切に迫られた仕事ではないのでかまわないのだが。

夕方、山口創『子供の「脳」は肌にある』(光文社新書)を読む。
人間の情操を含めた「こころ」は、内臓感覚に因って来るものである。そのことをおれは、三木成夫、そして三木成夫の学説を敷衍した吉本隆明の所説によって教えられた。
『子供の「脳」は肌にある』のなかで、著者の山口創は、子供が自然や他者と関わるとき、肌の感覚がもっとも大切であると説いている。肌、というのは、体壁という意味で、身体の表に露出した内臓であると言い得る。

著者の推奨する子育ては、子供の内発的な意欲や興味を、何よりも重視する、というものである。“内発的”というときの“内”とは、子ども自身の身体感覚に他ならない。つまり、親は、子供が自らの身体感覚をフルに働かすことのできる環境を与えてやらなければならないということになる。
《歩き始めた子どもであれば、すぐに車やベビーカーに乗せずに、一緒に歩かせてみる。自分はどのくらい歩くと疲れるのか、実感として体で覚えさせるのもよいだろう。少し成長したら、自然の中で自由に探索させてみる。バッタを捕まえようと息を潜めて近づく。一気に息を吐き出しながらとびかかる。捕まえた喜びでホッと息を吐く……こうして豊かな呼吸が身についてゆく。こういう経験を積むと、少しずつ豊かな感性をもった、しなやかな体が作られていく。
そうすると、体の成長に伴って、いろいろなものを感じられる豊かな心が育まれる。するとさらに、何にでも好奇心をもって取り組みたくなり、やる気旺盛の行動が湧き出てくる。好奇心や行動力が旺盛になると、いやがうえにも「何でだろう?」「どうしたらいいだろう?」と自分で考える習慣がつく。すると自然に頭も発達する。》


「豊かな感性をもった、しなやかな体」が充分に育まれていることが、現実の問題に臨み、その問題を自分の頭で解いていくベースになる。
例えば、著者は、企業の経営者を例にとってこう述べる。
《先を読むことができる経営者というのは、共通して卓越した皮膚感覚を備えているといえる。顧客や社会が求めているものを皮膚感覚でも確実に把握しているのだ。自社の属する業界以外のことにも詳しい。
この卓越した皮膚感覚をもつ人は、自分自身への相当な支出を惜しまない。それは単に情報を収集するための支出だけでなく、「身体」を磨くための支出である。
毎朝のジョギングを欠かさなかったり、ヨーガを習ってみたり、週末に山にでかけて違う空気に浸ってみたりする、といったことだ。頭だけでなく身体も同じように鍛える。筋力アップのためではなく、身体感覚、とりわけ皮膚感覚を鍛えるための努力をしているのである。皮膚感覚を自分を守る鎧にするのではなく、世の中を感じとるための精度のよいアンテナにしているのだ。
こうした皮膚感覚を磨くためには、ふだんとは違う行動を起こすことが何よりも大切だと思う。休日に、ふだん行くことのない美術館やコンサートにふらりと出かけてみる。あるいは、面倒だと思っても、仕事の現場に赴いてそこにいる人と一緒の空気を吸う。歩いて筋肉を使うことで、皮膚の血液も活発になり、感覚も鋭敏になるだろう。多くの発見や発明が、歩きながら考えているときにひらめいたというのも、周知の事実だ。
もしくはてっとり早く、毎朝、その日の気温と湿度を温湿度計を見ずに当ててみる。その日の天気を、自分の肌の感覚を頼りに予想してみる。このような些細なことで、皮膚感覚は徐々に鍛えられてくる。
まずは、「考える」のではなく「体で感じる」ことなのである。》


「考える」ことのベースに、知識や論理よりも広い、無意識の「皮膚感覚」がある。
昨日、糸井重里『小さいことばを歌う場所』から、
《「あたま」で考えに考えて、調べに調べて、なにかがうまくいくってことも、あるにはある。だけど、そういう場合にしたって、たいていは、うまく説明できないけれど、「こころ」のほうが、先にわかっていたことを、「あたま」が試し算するだけだったりする。》
という箇所を引用した。
ビジネスにおいて、経営者の最大の仕事は、さまざまな問題に何らかのジャッジをくだすことであろう。ジャッジするときには、ある種の“確信”が必要とされるが、それは「あたま」でいくら考えても導き出せるものではなく、「皮膚感覚」にもとづいた直感に頼るしかないものだ。
経営者が、世間の人びとの、まだ形にならない「欲望」や「思い」に照準を合わせなければならないのだとすれば、優れた経営者になるためには、「あたま」で考えるより前に、「こころ」をしっかり働かせることができる資質を持っていなければならない。

『小さいことばを歌う場所』から、このことと通じる内容のことばを、もういくつか引用しておこう。

《ことばが、空気を読むことのじゃまをしているのだ。いや、そういう言い方は、ことばにもうしわけないな。ことばと事実が一対一でしか対応できてないような「痩せたことば」が、空気を読むことを妨害するのだ。》

《つくづく、ものごとを大きく動かすのは、「最初のひとり」が大事なんだと思います。「最初のひとり」の情熱だとか、独自性だとか、輝きだとか、おもしろがり方だとか、そういうものがないプランは、ダメなんです。》

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by daiouika1967 | 2008-08-08 20:31 | 日記  

8月6日(水) 曇ときどき雨

一日どんより曇っていた。ときどき陽射しがさしたり、雨がぱらついたりといった不安定な空模様だった。蒸し暑い。

前野隆司『脳はなぜ「心」を作ったのか ―「私」の謎を解く受動意識仮説』(筑摩書房)を読む。著者の前野隆司はロボット工学者。
「エピローグ」でこの本で語られている物語の大筋が要約してある。その箇所を引こう。

《自分とは、外部環境と連続な、自他不可分な存在。そして、「意識」はすべてを決定する主体的な存在ではなく、脳の中で無意識に行なわれた自律分散演算の結果を、川の下流で見ているかのように、受動的に受け入れ、自分がやったことと解釈し、エピソード記憶とするためのささやかで無知な存在。さらに、意識の中で最も深遠かつ中心的な位置にあるように思える自己意識のクオリアは、最もいとしく失いたくないものであるかのように感じられるものの、実は無個性で、誰もが持つ錯覚に他ならない。》

ここで言われていることは、つまり「“私”は確固とした実在ではなく錯覚に基づいた幻想でしかない」ということである。
“私”は一貫して存在する実在物ではない。“私”に先行して、人間の身体-脳は、外部の環境に対して、生物学的な「自律分散演算」を行なっている。
“私”はその演算結果を「受動的に受け入れ」「自分がやったことと解釈(錯覚)」する“機能”であるにすぎない。
では、なぜ、そんな“機能”が必要だったのか。著者の仮説では、それは、さまざまな演算結果を「エピソード記憶」としてまとめるためである、ということになる。

《「私」について考えるときの鍵は「エピソード記憶」だ。私たちの体験を日記のように記憶する「エピソード記憶」は、何のためにあるのだろうか。考えてみていただきたい。
もしも、あなたが、今朝何を食べたか、とか、昨日はどこまで仕事をしたか、を記憶する「エピソード記憶」の能力を持たず、リンゴは食べ物だ、とか、私の仕事は狩猟だ、といった「意味記憶」しかできないとしたら、どうだろう。単純な狩猟生活はできるかもしれない。あそこの谷には獲物がいる、とか、寒い季節には獲物が少ない、とか、シマウマは逃げ足が速い、とか、ブタは丸焼きにするとうまい、とか、「意味記憶」ができればなんとか生きていけそうだ。
しかし、夕食はもう食べた、とか、昨日の獲物の残りを穴においてある、とか、一週間前に自分の子供が生まれた、とか、去年の夏に家を建てた、といった「エピソード記憶」ができないと、明らかに不便だ。腹が減ったら食事をし、残した食べ物のことは忘れる、場当たり的な行動しかできない。極度な痴呆状態だと考えればいい。実際、下等な哺乳類は、何らかの「意味記憶」は持つが、「エピソード記憶」をもたないためにこのような生活をしているように見える。昆虫などのもっと単純な生物では、「意味記憶」さえ持たず、反射により生活しているゆおに見える。
つまり、私たち人間の「エピソード記憶」は、高度な認知活動をするために、「意味記憶」よりもあとで進化的に獲得されたものだと推測できる。》


“私”はただ身体-脳で行なわれる複雑な演算結果の一部を、受動的に受容し、「エピソード記憶」として構成するための“機能”であるに過ぎない。

身体-脳で行なわれている多様な自律分散演算のことを、著者は「小びと」という比喩で表現している。
従来の考え方では、“私”は、自分の身体-脳を司り、「小びと」たちの活動を統合する主体として位置づけられていた。
しかしそうではない、と著者は語る。
“私”は「小びと」を統合する主体なのではない。
つまり、“私”は自分の身体-脳を司ってはいない。

《そもそも、従来の考え方では、小びとたちのまとめ役として「私」がいたのではなかったか。つまり、無意識の小びとたちは好き勝手にいろんなことをしているので収拾がつかない。だから、意識の中心としての「私」が、「知」「情」「意」をうまく働かせ、中心になって働いて、自分の個性を発揮しよう、というのが心のやり方だったはずだ。
そうではなく「私」は小びとたちが好き勝手にやった結果を見ているだけだとしたら、だれがどうやって喧騒に決着をつけるのだろうか。
答えは、「私」の独裁政治ではなく、小びとたちの民主主義によるやり方。つまり、多数決だ。ただし、日本の選挙のように、一票の格差がある。国政選挙の場合には、地方に住むほど一票の価値が高い傾向にあるが、心の場合は、声の大きい小びとほど報われる。》


ここで、「声の大きい小びと」と比喩的に言われているものは、つまり「よく使うニューロン」のことに他ならない。
ニューロンは使えば使うほど活動しやすくなる。
人間の持つ個性は、その人のなかで、どのニューロンがよく使われ活動しやすくなっているのか、どのニューロンはめったに使われることがなく活動が鈍くなっているのか、その配置によって変わる。

《私たち人間が生まれたとき、脳の中には複雑なニューラルネットワークの原型が先天的に用意される。小びとたちのあかちゃんが人員配置されていると思えばいい。笑う小びとがここに何人、怒りやすい小びとはここに何人、数を数える小びとは何人、言葉を組み立てる小びとは何人、形を感じる小びとは何人、といった具合だ。
小びとたちの最初の人員配置(学習前のニューラルネットワークの初期構造)は遺伝による。DNAという設計図による。だから、性格や能力は大雑把にいって親に似るわけだ。
そして、ニューラルネットワークのつながり方や発火しやすさは、その後の学習によって後天的に変わっていく。つまり、小びとたちが何を体験するかによって、笑う小びとの声が大きくなっていくのか、怒る小びとのほうなのか、数を数える小びとなのか、言葉をつかさどる小びとなのか、が決まる。だから、育つ環境は人格形成のために重要だ。
小びとたちの体験とは、外界とのインタラクションと、脳内の記憶とのインタラクションの二つだ。あなたがどんな環境に身を置き、どんな体験をし、何を脳の内部に記憶し、どんな思考をするかによって、あなたの小びとたちは、よりあなたの小びとらしくなっていく。これがまさにあなたの個性となり、自分らしさになる。》


さてけっきょく、“私”とは、《ただ単に「<私>というクオリアは<私>である」という脳内定義に従う錯覚現象に過ぎない》。
“私”は、それ自体としては、無個性なひとつの「脳内定義」であるに過ぎず、人のもつ個性の多様さは、「子びと」たちの活動パターンの多様性に拠っているのである。
つまり、“私”そのものは、とくに執着するに値するものではないのだ、と著者は語る。

《何十億人のも人類は、何千年もの長い時間、死を恐れ続けてきた。それは、<私>という存在のこのあまりのはかなさを知らずして、その存在の終焉を恐れていたということだったのだ。なんという無知。
人類は宗教を作り、たとえば仏教の悟りの果てに、その片鱗を垣間見ていたということだったのだ。私たちは、<私>という存在のこのはかなさを知りたかったのだ。
そして、この本をお読みになった皆さんは、何千年もの謎の、あっけなくもたわいのない帰結を知ってしまった。私たちが理解したいと願い、失うことを心から恐れていたものは、なんと、無個性でだれもが持つ、単なる<私>という錯覚のクオリアだったのだ。
だから、私たちはもう、死を恐れる必要はない。
なにしろ、私たちが失うことを恐れていた<私>は、実にちっぽけでささいな存在に過ぎないのだ。しかも、それと同じものが地球上に星の数ほどもある。数十億人の人の心の中に。哺乳類も含めると、もっとたくさん。その中のたったひとつであるあなたの<私>が失われることをどうして恐れる必要があろうか。
むしろ、安心していい。古今東西、世界中に広がった、<私>のネットワークは、なんて普遍的で超時空間的であることか。
そんな<私>を集合体として見たとき、これが永遠でなくてなんだろう。<私>のネットワークは、時間を超え、空間を超え、無限にちりばめられていて、永遠に続いていく。そう考えると、永遠の命は可能だ。あなたの知情意と記憶の命は有限だが、あなたの<私>の命は、永遠に、確実に、受け継がれていくのだ。輪廻のように。》


著者は、こうして、自他の区別を超える世界像を描き出すところに到達する。
“私”が無個性な機能でしかないのなら、その“私”は世界には無数に存在し、日々新たに誕生している。だとすれば、自分が死ぬことで、ひとつの“私”が失われても、そんなことは世界のなかでは取るに足らないことでしかない。
仏教、とりわけ華厳教的な世界観に近い印象がある。

午後、<三省堂>で、川崎徹『石を置き、花を添える』(講談社)を買い、読む。2006年、2007年、2008年に書かれた3篇の、一篇80ページ前後の短編が収録されている。
私、
私をつくる記憶、
その記憶を思い出す私の曖昧さ、
曖昧でありつつ鮮明に浮かび上がる故人の記憶、
切実ということ、
その切実さもまた曖昧な私が感じている感覚でしかなく、日々のなかに溶け消えていってしまう、
……そんな生の感触、ぼんやりとしているがゆえに濃密な生の感触が感じられる。

夜、糸井重里が「ほぼ日」の「今日のダーリン」で書きついだ言葉を、「ほぼ日」スタッフのひとりが編集した『小さいことばを歌う場所』を読んでいたら、そこにこんなことが書かれていた。
《「あたま」で考えに考えて、調べに調べて、なにかがうまくいくってことも、あるにはある。だけど、そういう場合にしたって、たいていは、うまく説明できないけれど、「こころ」のほうが、先にわかっていたことを、「あたま」が試し算するだけだったりする。》
ここで言われている「こころ」というのは、自分では意識することもできない多くの小びとたちの活動の総体をとらえた概念ということになるだろうか、と、昼読んだ本と結び合わせて考える。
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by daiouika1967 | 2008-08-07 11:34 | 日記  

7月17日(木) 晴

夏目漱石週間”、今日は普段より仕事が詰っていて読書の時間があまり取れなかった。夕方、喫茶店で、1時間半程、吉本隆明『夏目漱石を読む』(筑摩書房)を読む。半分くらい読み進んだ。

夜、「ほぼ日」から、注文しておいた糸井重里編『吉本隆明の声と言葉。』(CDブック)、糸井重里『小さいことばを歌う場所』、『思い出したら思い出になった』が届いた。
今、「ほぼ日」では、「吉本隆明プロジェクト」が展開されていて、その一環として、吉本隆明の講演集、170本あるという講演の音源のうち、50本を選んでパッケージした商品の準備が進められている。『吉本隆明の声と言葉。』は、その講演集から、糸井重里が「ほら、おもしろいでしょ」という部分を抜粋して、70分強のCDに編集した先行商品だ。付録の本には、吉本×糸井の対談と、糸井重里による抜粋部分のコメントが載っている。
対談を読み、講演部分のコメントを読む。

DVDで、カワノコウジ監督『女子競泳部員反乱軍』を観る。変種のゾンビ映画。シナリオは破綻しており、俳優の演技も稚拙なのだが、監督がカットをしっかり絵にしているので、映画としてきちんと成り立っている。やはり映画はカット次第、つまり監督が「映画」の魅惑を分かっているかどうかによって、その質が決まってしまう。
各カットを律しているのは、監督のフェティッシュな嗜好だ。ある種の男の妄想の中の「女子高生」へのフェティシズムである。
主演の範田紗々は、グラビア出身のAV女優。エロゲー等で、ロリ顔に巨乳、不自然な程の腰のくびれ、といった、ある種の男の欲望に沿ってデフォルメされた美少女が登場するが、彼女は現実にまさしくそんな風貌をしている。ある種の男の欲望に忠実に造形されたアンドロイドのようだ。このフェティッシュ映画にはぴったりの配役である。
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by daiouika1967 | 2008-07-18 18:20 | 日記