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10月3日 土 曇りのち晴

朝はまだすこし曇っていたけれど、午後になって急速に雲が散り、晴天になる。一週間ぶりのぴーかん。風が爽快。めっきり秋だ。

先週はほとんど本を読まなかった。昨日くらいから活字に飢えていて、思わず三省堂で新刊書を三冊衝動買いする。茂木健一郎『あなたにもわかる相対性理論』(PHPサイエンス・ワールド新書)、植島啓司・九鬼家隆・田中利典『熊野 神と仏』(原書房)、菊地成孔・大谷能生『アフロ・ディズニー』(文藝春秋)。合計4500円。
PHPサイエンス・ワールド新書の第一回配本の著者は、茂木健一郎のほかに、養老孟司、日高敏高、池田清彦、志賀浩二。全部買ってもいいような面子である。

とりあえず茂木健一郎『あなたにもわかる相対性理論』(PHPサイエンス・ワールド新書)を読む。アインシュタインの業績、そしてその驚嘆すべき業績を残したアインシュタインという人間の精神のありようについて、とてもわかりやすく、また熱っぽく語られた語りおろしである。

天才は、現実を越えた真理のヴィジョンを、現実よりずっと強く把捉する。そのため、彼や彼女にとっては、現実の個々の物事は取るに足らない些事の連鎖に過ぎず、そのヴィジョンに形を与えることだけに価値を感じるようになる。彼や彼女は、しばしば俗世の価値観を否定しているように見えるが、そうではなく、それらは否定に値するものとすら感じられていない。
―「アインシュタインはよくヴァイオリンを弾きながら考えていたと言う。そのように、音や行動で外からの情報を遮断することで、内側にある情報に目を向け、整理し、ひらめきを待つのである。脳の中には、何もしていない時に活動する『デフォルト・ネットワーク』と呼ばれる回路があることがわかっている。特に何かをするというわけでもなく、ぼんやりとものを考える時に、デフォルト・ネットワークが働き、うまく『ひらめき』の種を拾うことができるのである。
目に見えないものを頭の中に描き、内からの情報を大切にする。そこにはインターネットに頼っていては絶対に経験できないほどの豊かな世界が広がっている。」

たまたま同日に読んだ内田樹のブログでも、この「デフォルト・ネットワーク」の考えに類することが書いてあった。内田樹は、「こびとさん」と、“それ”を名指している。“それ”は、例えば、栗本慎一郎―マイケル・ポランニーが“暗黙知”と名指したものと同じものを指している。
―「真の賢者は恐ろしいほどに頭がいいので、他の人がわからないことがすらすらわかるばかりか、自分がわかるはずのないこと(それについてそれまで一度も勉強したこともないし、興味をもったことさえないこと)についても、「あ、それはね」といきなりわかってしまう。だから、自分でだって「ぎくり」とするはずなのである。何でわかっちゃうんだろう。そして、どうやらわれわれの知性というのは「二重底」になっているらしいということに思い至る。私たちは自分の知らないことを知っている。自分が知っていることについても、どうしてそれを知っているのかを知らない。私たちが「問題」として意識するのは、その解き方が「なんとなくわかるような気がする」ものだけである。なぜ、解いてもいないのに、「解けそうな気がする」のか。それは解答するに先立って、私たちの知性の暗黙の次元がそれを「先駆的に解いている」からである。私たちが寝入っている夜中に「こびとさん」が「じゃがいもの皮むき」をしてご飯の支度をしてくれているように、「二重底」の裏側のこちらからは見えないところで、「何か」がこつこつと「下ごしらえ」の仕事をしているのである。
そういう「こびとさん」的なものが「いる」と思っている人と思っていない人がいる。「こびとさん」がいて、いつもこつこつ働いてくれているおかげで自分の心身が今日も順調に活動しているのだと思っている人は、「どうやったら『こびとさん』は明日も機嫌良く仕事をしてくれるだろう」と考える。暴飲暴食を控え、夜はぐっすり眠り、適度の運動をして・・・くらいのことはとりあえずしてみる。それが有効かどうかわからないけれど、身体的リソースを「私」が使い切ってしまうと、「こびとさん」のシェアが減るかもしれないというふうには考える。「こびとさん」なんかいなくて、自分の労働はまるごと自分の努力の成果であり、それゆえ、自分の労働がうみだした利益を私はすべて占有する権利があると思っている人はそんなことを考えない。けれども、自分の労働を無言でサポートしてくれているものに対する感謝の気持ちを忘れて、活動がもたらすものをすべて占有的に享受し、費消していると、そのうちサポートはなくなる。「こびとさん」が餓死してしまったのである。知的な人が陥る「スランプ」の多くは「こびとさんの死」のことである。「こびとさん」へのフィードを忘れたことで、「自分の手持ちのものしか手元にない」状態に置き去りにされることがスランプである。スランプというのは「自分にできることができなくなる」わけではない。「自分にできること」はいつだってできる。そうではなくて「自分にできるはずがないのにもかかわらず、できていたこと」ができなくなるのが「スランプ」なのである。それはそれまで「こびとさん」がしていてくれた仕事だったのである。
私が基礎ゼミの学生たちに「自分の知性に対して敬意をもつ」と言ったときに言いたかったのは、君たちの知性の活動を見えないところで下支えしてくれているこの「こびとさん」たちへの気遣いを忘れずに、ということであった。」


最後、茂木自身の探求するクオリアについて語られている箇所を、引用しておく。
―「さらに私は、脳科学においても、相対性理論における『E=mc2』のような数式が成立するのではないかと考えている。
エネルギー『E』の代わりに、クオリアの『Q』が入る。『Q=』のあとに何が入るのかに強い関心がある。それまでまったく別物と考えられていた質量とエネルギーが等価であったように、クオリアと何かが等価なのではないかと考えている。
私たちは、人間の体や脳を特別な存在のように考えがちだが、ともに物質でできており、自然法則に従うという意味では、空気や土、草や鳥と同じだ。宇宙の中の万物と何ら変わることはない。
すなわち、心も自然現象の一部であり、自然法則の記述の対象となると思っている。だとすれば、アインシュタインが宇宙の法則を簡潔な言葉と数式で描き出したのと同じように、脳や心についても簡潔な言葉や数式で描き出すことができるのではないだろうか。
アインシュタインの理論が私たちに与える感銘は、まさにその認識論と存在論が交錯する場所にある。心と脳の関係という人類に残された第一級の謎を解く鍵は、かつてアインシュタインがやったように、私たちがごく当たり前だと思っている認識上の前提を問い直すことの中にあるのだろう。」

活字への飢えがスウーッと癒され、鬱っぽかった気分が、軽い攻撃性をはらんだ軽躁状態に回復した。

今日はお彼岸。夜は満月がきれいだった。

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by daiouika1967 | 2009-10-05 22:24 | 日記  

10月6日(月) 雨のち晴

朝食は、黒糖カステラ二切れ。11時前に家を出る。朝はまだ雨が残っていたが、家を出る頃には、傘もささなくていいくらいの小雨になっていた。昼過ぎになると太陽が。
喫茶店で保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』(新潮社)の残り半分を読み始める。ランチは喫茶店の日替わりランチ(豚バラと野菜のマスタード炒め)。没頭し、2時過ぎに読了する。

小説は、「遠い声の呼びかけ(“予感”、“胎動”)」に応えるようにして書かれる。だから、そのように書かれた“小説”は、読む者を“遠く”へ連れて行ってくれる。小説を読むということは、その小説に書かれた言葉を辿って、その小説が指し示す“遠く”へと向うことなのである。
そのことを、保坂和志は、説くのではなく、小説を読みながら、自らの行程として示してみせる。「“遠く”へと向かう」とはどういったことか。それは、自らの身体を使った体験として、わかるしかないようなことなのである(「われわれは自分自身による以外には、世界への通路を持っていないのだ。」)。
現在流通している“小説”の多くは、「求心的な力学」にまかせて、わかりやすい意味や概念、ドラマを産出し、しかしそれは書く者や読む者の自我をなぞっているだけのことにすぎず、そこに新しいもの、真なるものは何ももたらされない。本質的に退屈である。
「遠い声の呼びかけ」に応えるように書かれた小説は、自我を“緩め”、人間の外(「自然」)へと、「拡散的な興味」を持続させるような構造になっている。
統合失調症者の語り、夢、神話にも似た構造。

<ジュンク堂>で、茂木健一郎・甲野善紀『響きあう脳と身体』(basilico)、郡司ペギオ-幸夫『時間の正体 -デジャブ・因果論・量理論』(講談社選書メチエ)を買う。

喫茶店で、『響きあう脳と身体』を読む。
意識-自我は、身体-生成の能力を制限するリミッターとして作用してしまう。術とは、そのリミッターを外し、身体-生成の力(同時並列的な情報処理)を解放する精妙な手法のことである。術のヒントは、「日常の無意識の動き」のなかにも潜んでいる。
ここで書かれていることは、さっきまで読んでいた保坂和志の小説論と響きあっている。

夕食は、毎月届く冷凍食材のなかから、秋刀魚の煮付け、大根とニンジンの煮物、えんどう豆とベーコンの炒め物。ご飯、インスタントのしじみの味噌汁。

保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』(新潮社)からの引用。

《認識として統括されて意識にのぼってくる以前の段階では、視覚・聴覚……etc.は個々に機能していて、精神病のようであったり昔話であったりするような現象が脳の中で局所的に起きている。》

《緩さ、あるいは注意の散漫さはおそらく(ジョセフ・)ロートに特殊な書きっぷりであって、それがあるから物語は妻の浮気~出産だけでは全然おさまらない転がり方をしてゆくことになる。》

《人間の思うことは言葉とともにあるから言葉で書くことにそんなに苦労はない。人間の動きも人間自体が言葉と無縁でいられないのだから言葉によって書ける。しかし自然となると言葉がない時代からあったのだから、フリークライミングの岩で指先がかろうじて掴めるところをそれぞれに手さぐりするようにしか書き手は自然に接近できない。自然を書く難しさとはそういうことなんじゃないかと思う。》

《新規の登場人物が全体にまんべんなく出てくることに注目してほしい。この小説では物語の新展開は新規の人物によって持ち込まれることになっている。閉じた人間関係が時間とともにだんだん煮つまって……という小説とはつくりが違うのだ。(中略)
小説が進行していく過程で新規の人物を出しつづけるというのは難しいことなのだ。
テクニックとして難しいのではなく、書いているときの気持ちのありようとして難しい。(中略)人物が途中から増えると小説の結構としてはどうしても緩くなるが、その緩さゆえに得られるものが当然ある。
その最大のものが、“内面との距離”ないし“内面の相対化”ではないか。ここで注意してほしいのは、内面が相対化されるのは登場人物にとどまらないということだ。登場人物たちの内面が相対化されるのは副産物のようなことであって、もっと内面が相対化されるのは書き手自身なのだ。
小説を書くという行為には、書き手自身の気持ちを集中させて一点に向かって絞り込むような求心的な力学が働きがちなのだが、新規の人物を登場させることによってその力が緩む。
小説には、「何人かの人物に出来事という力が加わるとその人たちはどうなるか?」という物理や化学の実験に似た側面があるのだが、閉じた人物群の中でそれをやってしまうと書き手自身が閉じた人間関係の原理の外に立てなくなり、その関係の中で働く力学だけがリアルであるかのような錯覚にはまってしまう。》

《人はふつうある領域を設定して、それを守るための整理をする。この人はこれこれの時間にこれこれの場所にいて、こういうことを考えている。それに至る前にはこういう時にこういう出来事があって……、というその作り方はまさに自我の作り方だ。話がいきなり自我の話に飛んでわかりにくいかもしれないが、そういうことを頭の隅にでも置いておくと、こういう小説(岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』)を読む喜びはぐんと大きくなる。
自我とは何による産物なのか?仮説はいろいろ考えられるが、ひとつには現在の私に至る時間を因果関係に沿って配列した結果なのではないか。私には子どもの頃から辿って、こんなことがあって、こんなことがあって、それからこんなこととこんなことがあって、いまの自分になりました。それはまるで必然のように聞こえるけれど、時間(出来事)の配列を必然としたい思考法の結果だから必然に聞こえないわけがないというだけなのではないか。》

《小説の語りは一人称と三人称に大別することができるのは今さら言うまでもないが、この小説(岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』)は三人称なのに一人称的な不確定さがある。そこに私はベケットに通じるものを感じるわけで、作者は小説に書かれる世界の全体を見渡していない。》

《「私は小学校のとき鉄棒の逆上がりができなかった。」
「私は分数の割り算ができなかった。」
「私は動物園で写生したときに、檻の線を先に描いてしまったので中の動物をうまく描けなかった。」
これらはどれもすごく似ている。一度聞けば絶対意味を取り違えようがないところが三つとも共通していて、しかしこれらの言葉自体にはそのじつ意味らしいものは何もなく、それを言った人の気持ちか何かがこちらに向かってべたっと貼りついてくるようなところが何より共通している。どれも固有の経験を装った了解可能なフィクションじみた経験であり、本当の固有の経験だったらもっとわかりにくいはずだ。
自我というのはそういうもので、「私の中の私だけの領域はかけがえがない」というその領域には基本的には同じことが書き並べられている。そうでなければコミュニケーションは成立しないわけで、「私は小学校のとき鉄棒の逆上がりができなかった」という言葉はコミュニケーションを求めている言葉でもある。しかしその言葉が求めるコミュニケーションはひじょうに安易なコミュニケーションだ。》

《小説ではふつう本筋として書きたい事件とか登場人物の心の変化があって、無用な混乱を避けるために、一人称小説でも三人称小説でも、私の行動、Aさんの行動、Aさんが見たこと、私に見えなかったこと、Aさんが感じたこと、Aさんの感じていることがBさんにはわからなかったということ……etc.という風に仕分けして書いていくことになっているけれど、もともとそれらはすべて作者一人の頭の中で想像されたことだ。
混乱を避けるために仕分けする容れ物としての人間は、世間一般でなんとなくそういうものだろうとされているサイズであって、たいてい主な人物はそのサイズから何方向かでははみ出しているが他の人物は標準的サイズの中におさまるか少し下回る。しかし繰り返しになるが、それらの人物はすべて一人の作者の頭の中で想像されたものであり、そうであるということは一人の人間の中にはそれぐらいの人間のバリエーションが生棲可能だということではないか。》

《自我も私が私のものと思っている意識も、複雑に展開しつづける運動群が一時的に収束した状態にすぎないのではないか。
水面にキラキラ反射する光に心を奪われたりしているときには自我なんか関係ない。それが何かと名前をつけることなんか問題ではなくて、そのような状態に自分が確かになったことだけを憶えていればいい。
自我という砦はひじょうに強固だから(しかしそんなことは幻想かもしれないのだが)、いろいろな攻め方を試みつづけなければならない。その試みのひとつがこの二つの小説(岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』所収の二編)に書かれている書き方だと私は思う。ここにある書き方は、自我を構成するというのか、自我に至るというのか、自我の基盤というのか、とにかく個人の中に起こることを自我という一方向に定着させるための道具として機能しているセンテンスを空間的時間的に拡散させて-あるいは異物を紛れ込ませて-、自我でない別のところに連れていこうとしている。》

《では小説家にとって実体なのは何か?言葉。と答えるのは簡単だけれど、もしかしたら“胡蝶の夢”のような話の小さなユニットなのではないか。映画のワンシーンよりは少し長く物語よりはずっと小さい。そう言えばカフカが遺した断片もそのサイズだった。“誇張の夢”やカフカの断片、それらは物語化されないがゆえに私たちを世界へ連れていくのではないか。》

《「親といっても母親だった。家というのも母親の待つ家のことだ。家族は四人いるにはいるが、父親は仕事で毎晩帰りが遅いし兄はとっくに家を出ていた。母親が家で一人夕食を用意して待っているわけで、ごく自然なこととして夜は帰るようにしていたのである。
自宅から電車で小一時間かけて都内のマンションへ通い、だいたい夕食時までには帰宅する、という往復がくり返される。会いに行くのは週三日が限度となる。電車とはいえ交通費はばかにならない。家を出るだけでほかにいろいろと金がかかる。いまだ小遣いをもらう身で、しかも預金通帳を見られているため、彼としては急にその残高を減らすわけにはいかなかった。
支出面のことにかぎらず、いまや彼は行動全般に気をつけるようになっていた。秘密主義を貫くのには細心の注意が必要だった。
以前、出先で脱いだ靴下がなかなか見つからなかったことがある。彼がそのとき心配したのは「もしこのまま素足に靴で帰宅したら」ということだった。ドアの音を聞きつけた母親が玄関に顔を出さないともかぎらないのだ。父親の帰宅とかんちがいして廊下の端まで出迎えに。それからというもの靴下だけはどこに行っても脱がないようにしていたのだが、あるとき母親が、
「どこを歩けばこんなに裏が汚れるんだろうねえ」
とその靴下を洗面所で手もみ洗いしていた。どこをといわれ、いくら掃除をしても綿ぼこりの留まる、あのマンションルームのフローリングを歩くからだと気づき、彼はやはり靴下を脱ぐことにした。」

話がどこに向かっているのかまったく予想できない。
親の話?やっぱり女ともだちと会う話か。預金通帳?秘密主義?ということはやっぱり女ともだちか。靴下?素足で帰宅?バカか。そしてこの小説で最初の、改行されて「」で括られた会話というか声。それは母親の声だ。が話はまたまた女ともだちのマンション。
こんなこと逐一書いていったらいつまでたっても終わらないが、この本筋のつかめなさを楽しめなければこの小説はきっとできない。音楽やスポーツを考えてみればわかりやすい。まず第一に、いま起きていることは何か?だ。小説だけが読み終わった事後に全体として考えればそれでいいというのはおかしい。この小説と比べて私たちはふだん何と動きの悪い思考で生きていることか。意味というのは動きの悪い思考に生まれるんじゃないだろうか。》

《ある行為なり出来事なりが起こるときには、誰か一人が原因なのではなく(日常のワイドショー的思考ではそういう特定をしたがる)、その状況にいる全員、風景の全体がそれを引き起こしている。ワイドショー的思考につく小説は読者を得やすいが、すぐれた小説は原因が特定できる思考から離れる。》

《われわれは自分自身による以外には、世界への通路を持っていないのだ。

この断想は、「それゆえ自分しか信じるものはない」とか「世界は私の目に映るとおりのものだ」というようなことを言っているわけではない。まして、「小説(芸術)とはつまるところ“自分探し”なのだ」とか「表現されたものすべてが自分の反映なのだ」と言っているわけではない。
生物としての人間が生きるこの世界に客観的で不動の真理としての「実在」やら「存在」やら「物自体」などというものはなく、それらはすべてプラトン以来の西洋哲学が作り出したフィクションにすぎない、ということを言っている。人間は自分自身以外をもってして世界と接触することができないのにもかかわらず、存在の“第一原因”というその実在を自分自身では決して確認することができないものを空想してしまった(自分だけを特別な位置に置く思想はこの“第一原因”という思考法の変形ということになる)。
しかしそのような形而上学的世界はこの世界にはない。あるのは自分自身の力によってこの世界で拡張していこうとする生命だけである。生命とは永遠不滅の“第一原因”に根拠を持つ存在ではなく、自分自身の力で成長し繁栄し没落してゆくというサイクルを運命づけられた生成である。その生成としての生命がこの世界を満たしている。》

《『肝心の子供』で描かれる風景は言語によって解釈(翻訳)することが不可能にちかい思考、または、言語によって逐一トレースすることが不可能にちかい思考なのだ。》

《風景を書こうとすると、私たちの知っている言葉や文章はものすごく貧しい。「海は青く、波は白く……」とか「たなびく雲の晴れ間から……」というような超紋切り型のフレーズならともかくとして、実際に自分の目で見ている風景の一つ一つに焦点を合わせて書いていこうとすると、私たちはそれを書くための既成の言葉を持ち合わせていないことに気づき、一節一節そのつど時間をかけて自分で言葉をひねり出していかなければならない。私たちは「自分自身による以外には、世界への通路を持っていない」はずなのに、自分自身を世界への通路として使うことが一番難しいことを痛感する。
しかし、小説家として書くときの拠り所はここにしかない。「自分自身による以外には、世界への通路を持っていない」にもかかわらず、自分自身を世界への通路として使うことの難しさを書き手として痛感するしかないような文章を書くこと。社会ですでに問題とされている題材を書くことは既知の情報だけで思考をなぞることでしかなく、因果律矛盾律や体系を前提とする思考や<主体><私>を疑わない思考の外に出ることができない。隠喩や象徴として回収されない風景を書く作業の中で、<私>までもが未知の外界の一構成要素となってゆく。》

《この風景の中で、私は空ろだが充実している。私には言葉もないし考えもない。しかしそういうことはすべて風景の中にある感じがする。
「すべてある」って、何があるのか?
それはこうしてあの風景から離れて、自分と風景の両方を客体化したつもりになっている今の私には言うことができない。しかしあの風景には何もないのではなくて、たっぷり充満している。私はあの風景を私の思考そのもののように感じる。もちろん正確には、あの風景の中にあって主は風景であり私は従だから、「私の思考はあの風景によってなされていた」とでも言う方がいいのだろうけれど、いつか、いままで経験したことのない何かに出合ったときとか、、死が近づいたときとか、ある時の夢の中でとか、私の思考はあの風景となっているのではないか。》

《最近では、アメリカ大陸やオーストラリア大陸の先住民達の叡智と出合ったり、自然や宇宙の大いなる力と出合ったりする小説も書かれているが、それらは人間・自我・私の枠組みを問わなかった小説と同じ言葉でしか書かれていないので、<あっち側>の話にしかならない。<こっち側>はそのままだ。
<こっち側>というのは「日常」ということではない。思考が科学的合理性を基本としていること。同じ言葉・同じ論理展開で説明すれば、一定以上の理解力や知識を持っている人には共通に伝わるという、透明性の幻想を共有していること。因果律・矛盾律(同一律)による思考法。形式や体系を持った思考の方がそれを持たない思考よりもすぐれているという判断。<能動―受動>という二分法や<主語―述語>という二分法による行為者の設定。
<こっち側>がそういうものではなくなれば、<あっち側>は必然的に消えてなくなる。その道筋は風景や自然にある。私はすでにじゅうぶんに解に辿り着いたのかもしれないが、辿り着きすぎたのかもしれない。解に着くのではなく、ただ辿る必要があると思う。》

《ふつう小説を読むとき、読者はいま自分が読んでいる箇所が、(1)「全体に対してどのような役割を持つか」ということと(2)「読者がいま生きている社会に対してどのような意味を持つか」という二つのうちの、せめてどちらか一つの作為を求めてしまうものなのだ。つまり、小説というのは楕円のように(1)と(2)という二つの中心点を持つ-と、こういう風な比喩を出すと、いっそう喜び、安心する人がいるだろう。比喩といっても、この比喩でしか言えないようなことでなく、たんなる言い換えにすぎないのだが。
しかし、ルーセルの小説や『肝心の子供』には、この二つの中心点=作為のどちらもない。この楕円のずっと外(ということはすでに楕円ではない)に、制御している地点がある。それはたぶん一ヶ所で複数ではない。私は“予感”とか“胎動”という言葉を使ったが、これは他の言葉にも言い換えられるようなタイプの比喩ではなく、書き手としての実感なのだ。それゆえこれは私の経験からの言葉であり、磯崎憲一郎本人に聞けば“予感”や“胎動”でない全然違う言葉が出てくるだろう。》


茂木健一郎・甲野善紀『響きあう脳と身体』(basilico)からの引用。

《甲野:身体全体を使うためには、自分自身が意識して何かをするということ自体を、ある種制御する必要があるんです。つまり、普通なら腕を上げようとすれば、腕に対して「上げよう」と命令する。しかし、そうすると腕以外の身体がその動作に参加できなくなってしまうんです。》

《甲野:武術では、ある面の感受性をあげながら、ある面では感度を切ってしまうような、ある種矛盾した状態を要請する側面があるのだということを、武蔵は剣の極意として語ったのだと思うのです。先ほどの技もある種、意識を切る部分があるわけですが、ロボットのように無意識がよいのかといえば、必ずしもそうではない。いかに状況によって意識の状態を切り替えていくかが大切だということです。》

《茂木:たとえば仕事でも、今まで会ったことのない人に会いに行く時、どうしても「こういうことを言われるのではないか」といろいろと考えてしまい、そのことによって硬くなってしまって、結果として自分を表現できなくなってしまう、ということがあります。その時に、何かを「切る」、「あえて見ない」という操作によって、かえって自由闊達で自然なふるまいができる、ということがありますよね。
社会全体を見渡したとき、今、「切る」ということがうまくできずに悩んでいる人が多いように思うんです。ひきこもりと言われている人の中には、自分の身体を含めたさまざまなものを意識的にコントロールしようとするがゆえに、かえって不自由になっている人がたくさんおられるように感じます。》

《茂木:武術でも音楽でも、すべての人に能力は潜在していて、違いはリミッターを外せるかどうかということになるかもしれません。これは僕が普段感じている印象でもあるのですが、いわゆる「才能を発揮できていない人」というのは、いろいろな意味で制約をかけている人ということになると思うんです。逆に言えば、甲野さんももちろんそうですが、才能のある人にはリミッターをうまく外せる人が多いように思います。》

《甲野:「これはおもしろいな」という強い興味を持ち続けていれば、恐怖心や余計な予測も限りなく取り払われます。「興味」というのは、宗教や哲学が扱ってきた、人間が生きていくうえでの本質的な問いにも直結するものであり、人間が持っている力の中でも、汲めどもつきぬ無尽蔵な部分、枯渇しない「力」だと思うのです。それさえあれば、狭義の体力とか技術、あるいは知識というものは、後からついてくると思います。
「自分が生きているというのはどういうことなんだろう?」、というのは誰にとっても大きな謎ですよね。それをたとえば金儲けとか、目先の見栄に気をとられて、多くの人は忘れている。でも、どんな人だって根本にはそういう謎に向かっていく興味を持っているのだと思います。たとえば遭難してどこかに流れついた時に、常々「自分が生きているとはどういうことか」ということを考えてきた人と、金儲けや、出世ばかりに関心があった人とでは対応力がぜんぜん違うだろうと思うんです。》

《甲野:人間の命というものは限りあるものですから、言わば、「生きている」ということはそれだけでリスクを抱えているんですよね。でも、今の社会は安全を追い求めるあまり、生きていることに本質的に付随するリスクというのを忘れています。「命が一番大事」なんて身も蓋もないようなことを本気で言っていると、人生、ほんとうにつまらないことになりますよ。逆なんですよ。「二つとない命を何かにかける」から、生命が高揚するわけです。それをただただ命を安全に守る、というのでは本末転倒で、そえrでは命の輝きが鈍ってしまっても無理はないんです。》

《甲野:身体というのはある種の「制限」ですよね。もし、制限するものがなくて自由自在だったら、お茶を入れるような簡単なことでも、それを思考だけで行なおうとすると膨大な情報がいる。しかし身体という、制限された「モノ」があることによって、何をしたらいいかが見えてくる。生物の進化を見ても、細菌のようなものからアメーバみたいなものになり、昆虫のようなはっきりとした形をとるまではずいぶん時間がかかっています。さらに、爬虫類や両生類、哺乳類が登場するわけですが、いずれも、「身体」という制限が基となって、新たな生き物が生まれてくる。
限定があって初めて、無数の情報が編集され、形になるわけですね。これは逆説的といえば逆説的なんですが、身体という限定によって多様なものが生まれてくるということなんじゃないかと思うのです。》

《甲野:私が最近取り組んでいる技の要点をつきつめていくと、いかにして脳が構築しようとする因果律を止めてやるか、ということでもあるんです。技を使う時には、ある独特の「考えない状態」になることをめざしている。「さあやるぞ!」っていうのは明らかに脳が命令しているわけですから、そういうふうにやると相手に止められてしまう。でも、だからといって、何かをやることはやるわけですから、まったく無意識というわけにはいかない。潜在的にはよくよく理解しているんですが、意識にはそれが上がってこないという、言葉にするとものすごく不思議な構造に頭が働くような訓練をしているとも言えます。
理屈で言うと無茶なこと、矛盾したことを要求しているわけですが、実際にはそれは当たり前のように行なわれてこそ、術と呼べるほどのものだと思います。そういう同時並列的な技を、時系列順にしかはたらかない言葉にたくそうとすることには根本的に無理があるわけで、それをとにかく言葉にしようとすると、今回、すでに何回か言いましたが本来は精妙であった術が貧弱なものにやせ衰えてしまう。つまり、現に起きている事象より論文に書きやすい限定化された事象を歓迎するという、本末転倒なことが常態化してしまっているのでしょうね。》

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by daiouika1967 | 2008-10-07 10:41 | 日記  

9月18日(木) 曇ときどき雨

●台風がゆっくり近づいている。ものすごい湿気だ。気温は高くないのに胸元に脂汗が滲む。不快。

●<ジュンク堂>で、茂木健一郎・波頭亮『日本人の精神と資本主義の倫理』(幻冬舎新書)を買い、読む。

《茂木:大衆の暴走がマーケットと結びついて、売れることこそ正義だとする価値軸は、いろいろな国で見られると思います。しかし、日本が異常だと思うのは、その価値軸しかないことです。社会正義としてもっとも危険なのはモノカルチャーでしょう。つまり、単一の原理だけで世の中が動く。これが一番危ないことです。売れることは正義だとする価値軸はあってもいいけれど、それと拮抗する強力な軸が別にないといけない。》
《茂木:ある方向性を持っている人が-その方向性はどちらに向いていても構わない、数学でも物理でもいいのですが-その方向にアクセルを踏んで突き進むことがきわめてできにくい社会が日本です。なぜそうなのかは分からない。みんな自己規制しているのか?非常にもったないことです。
ふと思ったのだけれど、もしかしたら日本人は突き進むことを歴史のどこかで徹底的にやって、そこで一度、懲りたのかもしれません。》
《茂木:日本の実質経済成長率は今2パーセント程度でしょう。皆が皆、成金を夢見るというけれど、たとえば、日本人の平均年収が400万円だとして、それがいきなり4000万円に上がったら、経済成長率は1000パーセントになるはずでしょう。では、経済成長率が2パーセントのまま、誰かの年収だけが400万円から4000万円に上がったとしたら、それはその数字の分だけ、他の人が薄く年収を減らしていることを意味するわけです。だから、何億円も儲けた成金に向かって、何の批評性もなく「よかったですね」などと言うのはやはりおかしなことです。》


●夜、DVDで小松左京原作、角川春樹制作、深作欣二監督、草刈正雄主演『復活の日』(1980年)を観る。テーマ曲はジャニス・イアン。世界各地にロケした角川映画の80年代的なチープなゴージャス感が懐かしい。
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by daiouika1967 | 2008-09-20 11:12 | 日記  

9月4日(木) 曇ときどき雨

●今日もまた、蒸し暑く鬱陶しい天気だった。
仕事で人と会う予定をしていたのだが、急に先方の都合で流れてしまい、ぽっかりと午後の時間が空いた。
夕方からもうひとり、面談の予定があったので、それまでのあいだ、本を読んで過ごすことにする。
<ジュンク堂>で、吉本隆明・芹沢俊介・菅瀬 融爾・今津芳文『還りのことば ―吉本隆明と親鸞という主題』(雲母書房)、茂木健一郎・黛まどか『俳句脳 ―発想、ひらめき、美意識』(角川ONEテーマ21)を買う。

●『還りのことば』を読み、次いで『俳句脳』を読む。

●俳句は今、国際的に広がっている。
その際、海外(外国語)においては、俳句の特徴である「有季定型(季語+五・七・五のリズム)」の決まりごとは、そのままの形では通用しない。
それでは、そうした決まりごとがないところで作られた「俳句」は、はたして俳句と言えるのだろうか。それは「ただの一行詩」に過ぎないのではないか。
黛まどかは、「有季定型」がないところで作られた「一行詩」であっても、その詩に「切れ」が挿し込まれていれば、それは「俳句」と見なしていいのではないか、と言う。
「切れ」とは、例えば「古池や蛙飛び込む水の音」という句で、「古池や」と流れを「切る」表現技法のことである。この句の意味としては「古池に蛙飛び込む水の音」でもいいわけだが、この「古池に」の「に」を、「古池や」と「や」を使って切り込みを入れることで、その切り口の断面から、ある広がりが生まれる。「古池」はただ目の前にある具象物の古池であることを超えて、悠久の境域に遊出していくのである。そのような広がり、すなわち具象物を超えて広がっていく余白のようなものが、「わび・さび」や「幽玄」といった味わいとして感受される。
その詩を読んだとき、そうした味わいが感受できるものになっているなら、それは「俳句」と呼んでかまわないのではないか、ということである。

●俳句は、自然との「挨拶」である、と、黛まどかは言う。
そうした自然との感応をより鋭敏にしていくために、日々、「畑をたがやすようなこと」をしているのだ、と言う。そうした日々の積み重ねからしか、佳い句は生まれない。
茂木健一郎は、俳句を作る、読むといった契機は、現代の資本主義社会に対抗する、本質的なカウンターカルチャーとして位置づけられる、というような意味のことをいう-《現在の非常に高度に発達した資本主義に対して、強烈な対抗軸を持っていた方が人間の存在としては立体的になるということです。自然を所有する必要などない。ただ、思っていれば良い。そうすれば、現代社会のさまざまなやっかい事に対抗するための相対的な視点を抱ける。》《今の時代に俳句を生きるとは、大変な独創性が要ります。小さくて弱いものも忘れないで、それと向き合おうと思うことですから。政治家や経営者には、こういうことを忘れている人がいっぱいいます。》
黛まどかは言う-《日常の中に降る雨が、「詩の雨」であるということが俳句的な生活だと思います。歳時記の花鳥風月と、百科事典の花鳥風月では違うのです。俳句を生きていると、雨にも四季折々の匂いがあり、色があり、雨音も違うんです。「今日はどしゃぶりの予報だから傘を持って行こう」という雨には、降り方の強弱くらいしかないかもしれません。でも、「この芽雨」と言ったとたん、雨の向こうに芽吹きの野山がイメージできるじゃないですか。実際、目の前に野山がなくても。この豊かな瞬間を日常に育むことが、俳句を生きる素晴らしさだと思います。》

●言葉は、コミュニケーションの手段という側面と、もうひとつ、価値の表出という側面をもつ。俳句は、もちろん、価値の表出としての言葉ということになるだろう。
価値の表出としての言葉とは、長い沈黙のなかで育まれた言葉である。
考え抜かれた言葉のことである。
それは、相互に分かったような気になっているだけの「日常のコミュニケーション」を、切断する。
《たとえば、こんな会話。「落ち込んでいるようだけど、どうかしましたか?」「恋人と別れました」。私は納得し、相手の事情を了解した気になるのであるが、実はどのような感情の襞も手に入れてはいない。了解したばかりに、「これ以上は立ち入らない」という壁のようなものが相手との間に生まれてしまうというのが、日常におけるコミュニケーションの罠である。
「人の心はなぜわからないのか」。コミュニケーションはなぜ、ディスコミュニケーションでもあるのか。こうした感覚を持ち続けているほうが、一瞬のクオリアを長く留めさせることができ、人生をより深く感じられるような気がする。そして良質な文学や名句というものは、このテーゼを壁の存在とともに気付かせてくれるものであり、同時に、自分自身の違和感というものを明示してくれるものだと思う。》


南インド、ケララ州で乗ったハウスボートの動画。ふたりでこの広いボートとスタッフ3名(船長、副船長、コック)を貸切り、ずっとこんな調子でゆったりとクルージングするのである。午後から乗船し、ランチ、ディナーを食べ、船上で一泊し、朝食を食べて、岸に着く。船の上はひたすら気持ちがいい風が吹き渡っている。個室もホテルと何ら変わりない、シャワー付きの豪華なものだった。この贅沢さで、食費を入れて、ひとりたった三万五千円。安い。
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by daiouika1967 | 2008-09-05 09:33 | 日記  

7月24日(木) 晴

暑い。外に出た瞬間、くわぁ。なんだ、この空気。お湯か!と、ひとりで空気にツッコミをいれつつ、できるだけ筋肉を使わないようにタラタラ歩く。筋肉を使うと身体に熱が発生するので、できるだけタラタラタラタラ名駅まで歩いた。それでもその10分の道のりだけでもう胸元を汗がつたっていた。

名駅から地下鉄で大須へ向う。妻が大須の病院に通っていて、ちょうど昼時に検診が終わると言う。じゃあいっしょに飯食う?ということで、二人で昼飯を食うことになった。病院の待合室まで妻を迎えにいき、大須のアーケード街を上前津の方向に向かって歩く。
いい具合に鰻の店を発見する。でも今日は混んでるんだろうな、と覗くと、意外にそれほどでもなく、すぐに二階の座敷に案内された。ひつまぶしを注文する。土用の丑の日には、店が混むので敢えて鰻は避けてきたのだが、今年は偶々、期せずして鰻を食べることになった。

午後はさらに暑くなる。
上前津の<サウンドベイ>で4年ぶりに再開したデイジーワールドの新譜2枚、新生デイジーワールドのコンピ『daisy holiday』、細野晴臣のこれまでの作品のなかからレコード未収録の音源を集めたアーカイヴシリーズ第一弾『beyond good and evil』を買う。ついでに、ビーチェというグループの『かなえられない夜のために』というアルバムも手に取る。女の子がベッドの上でまくらを抱いているジャケットに惹かれて手に取ると、帯の推薦コメントを小西康弘が書いているのを見つけた。買い。

暑い中鶴舞まで30分くらい歩いた。汗みどろになる。脱水気味で軽く目眩がする。狂気の沙汰である。
鶴舞からJRで名駅に戻り、<三省堂>で、河合隼雄・茂木健一郎『こころと脳の対話』(潮出出版)、秋山祐徳大使『天然老人 こんなに楽しい独居生活』(アスキー新書)の2冊を買う。
喫茶店で水分を補給しながら『こころと脳の対話』を読む。脳の話はあまり出てこない。心理療法、深層心理学について、茂木健一郎が河合隼雄にインタビューするという体で対話が進む。
おれはときどき河合隼雄の言葉に触れたくなる。どこか意識が凝り固まったようになっているときである。河合隼雄の言葉には、硬直した意識を揉み解してくれるようなところがあるのだ。物事を多面的に見ることができるように、精神の柔軟性を回復してくれるような効果がある。

《河合:僕がよくいうのは、話の内容とこっちの疲れの度合いの乖離がひどい場合は、相手の病状は深い、というんです。
たとえば、こられた人が「人を殺したい。自分も死にたい」とかそんな話をしたら、しんどくなるのは当たり前でしょう。そうではなくて、わりとふつうの話をして帰っていったのに、気がついたらものすごく疲れている場合があるんです。その場合はもう、その人の病状は深い。
それはやっぱり、こちら側が相手と関係をもつために、ものすごく苦労している証拠ですね。話のコンテンツ(内容)は簡単なんですよ。それではないところで、ものすごい苦労してるわけ。(中略)
それから、話を聞いてて、向こうがこっちの腹立つことをいうでしょう。そのとき、腹の立ちようのスケールが違うんですね。なんかもう、蹴っ飛ばしたるかぁという感じで(笑)、そんなことめったに思わないのに、それはやっぱり向こうの病状ですよ。》

《河合:だからうまいこといっているときは、僕は聞いているだけで、その人が自分で考えて、自分でよくなっていかれます。
本当にそういった人、いますよ。「もう本当に、きたときに比べたら、ものすごくよくなりまして。先生のおかげといいたいけれど、おかげとは思いませんね」と(笑)。つまり、僕はなにもいうてませんからね。自分でしゃべって、自分で考えて、自分で解決されたからです。
茂木:壁に向かって話しているのとは違うわけですよね。
河合:壁に向かって話すのはだめだし、自分で考えると、絶対堂々めぐりします。ところが生きている人間が正面から聞くと、堂々めぐりが止まるんです。もうそれだけで僕を頼りにきてるんじゃないかな、と思うくらいです。》

《河合:ふつうよりすごい幻聴や幻覚で、「CIAにつけ狙われている」とか「今夜、敵が攻めてくる」とか、そういう症状でこられる方は、うっかりすると、それは統合失調症になっていきますね。
ところが、そういう人のなかで、「薬物による症状ではない」「急性である」と、このふたつの条件に当てはまる患者を治していく、ジョン・ペリーというアメリカの学者がいたんです。この方ね、黒船で有名なペリーの弟のお孫さんなんです。僕がそこへ訪ねていったら、ペリー提督の絵がありましたけれどね。
そのジョン・ペリーさんに、「どうやって治していくんですか」と訊いたら、相手がきたとき、いつもずっと端にいるんですって。ずっと端にいるんだけど、「中心をはずさずに」そこにいる。それができれば、その人は治ると。
茂木:中心をはずさずに?
河合:自分の。中心をはずさずにそこにいること。ただもうそれだけなんです。
その部屋は、くるなり、死のうと思って、壁にバーンと頭ぶつけたりするような人がいるから、壁なんか全部柔らかくしているし、それから一人で会って、飛びかかってこられたりすると困るから、必ずもう一人か二人と部屋に入っているんですけれども、ペリーさんは何してるかといったら、そこでただ、「中心をはずさずに」座っているだけですと。
茂木:座っている。聞いているだけ?
河合:ええ。そんなこと、まあ、できないですよ。そうでしょ?くるなり、「宇宙人がやってくる!殺される!」とかいっている人相手に、ジーッと座っているというのはね。》

《茂木:答えをすぐ求めすぎる傾向って、現代の深刻な病のような気がしますね。言葉とか細部に引きずられる傾向というか。
そういう意味では、先ほどの話に戻ると、われわれは「中心をはずさず」に人に接するということを忘れてしまっているともいえますね。ある人のことを判断するのでも、その人の言葉や振る舞いに引きずられて判断しちゃったりしますよね。
河合:ちょっとね、その判断がみんな早すぎるんですね。もっと悪いのは、僕はよくいうんだけれども、みんな一人ひとり違うのに、数字で順番をつけたがるんですよ。
「年収いくらですか」といったら、年収の高い人から低い人まで全部順番がつくでしょう。それは、一人ひとり分けているようで、なにも分けてないですね。お金で分けているだけなんだけれど、それでみんな錯覚を起している。
そして、ちょっとでもみんなよりお金の多いほうに行こうとしたりする。そうして頑張っているようだけど、じつは個性を摩滅させるほうに頑張っているわけですよ。
だから、そういう細部に飛びつかない、という姿勢がものすごく大事ですね。そうじゃなくて、その人を全体として見る。全体として見ていると、本当に人間というのはおもしろい。人間は誰でも、何をやらかすかわからん可能性をもっている。こう思いますね、本当に。》

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by daiouika1967 | 2008-07-25 22:34 | 日記