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9月22日(月) 晴

片岡義男『白い指先の小説』(毎日新聞社)を読む。
女性の小説家と男性のカメラマンが登場する短編が四つ収められている。「本を買いにいった」90枚、「白い指先の小説」90枚、「冷えた皿のンディーヴ」60枚、「投手の姉、捕手の妻」120枚。
登場する女性はみな美人だ。美人で、さっぱりした性格をしている。彼女たちが、小説を書き始める。彼女たちの身に、特別な事件が起こったわけではない。“美人でさっぱりした性格”の彼女たちは、その内部に、物語へ向う「孤独」というのか、「断絶」を抱えている。
そういった設定がまずあって、そこから、小説が構想されている。
片岡義男の文体は好きなのだが、この小説集は、読み終わるまで、もうひとつ乗り切れなかった。

車谷長吉『四国八十八ヶ所感情巡礼』(文藝春秋)を読む。
車谷長吉の最新刊。著者が四国のお遍路さんを歩いた記録が、日記形式で綴られている。
任意に一日分、抜書きする。

《三月十四日(金)
雨。
宇佐大橋の近くから船に乗る。乗客は三人だけだった。派手な格好をしたお婆さん遍路が、船内で足を伸ばしたり、引っ込めたり、ストレッチ体操をしていて、目触りだった。浦ノ内に着く。そこから歩いて須崎へ。お天気が悪いので、気分は憂鬱だった。
今日は遍路道で、私たち以外のお遍路さんには逢わなかった。みんな一円でも安く上げようと、先へ先へと行ってしまう。私と順子さんはゆっくり。お遍路に来て世俗の悪臭が脱けないのは阿呆だ。私たちは俗世の悪臭から抜けたいがために来たのである。
浦ノ内の海の見える道でうんこ。雨の溜まり水で手を洗う。それを順子さんがじっと見ている。
東京を出てから、今日で一ヶ月目。思っていた以上に山道がきつい。足を痛めている順子さんはタクシーで先へ行ってしまう。
夕飯にチャンバラ貝が出る。私は京阪神で料理人を八年勤めたが、こういう貝は見たことがない。面白かった。チャンバラ貝は、貝の蓋が鋸のようになっていて、貝同士がそれで以って喧嘩をするのだそうだ。
ライターの油が切れた。「粗大ごみだから、これ捨ててよ。」とつい言うと、順子さんはそれを聞き咎めて「ライターは粗大ごみではありません。」と眦を吊り上げる。順子さんはこういう風に、一つ一つ揚げ足取りをする。ライターは「粗大。」ではないけれど。東大出の人はむつかしい。実に詰らないことに、こだわる。これは結婚以来のことだ。揚げ足取りの好きな女。》

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by daiouika1967 | 2008-09-24 09:43 | 日記  

9月16日(火) 曇のち晴

●午後、車谷長吉『銭金について』(朝日文庫)を読む。

文学は、その核のところに、「虚」を含んでいる、と車谷長吉は云う。
三島由紀夫の文学論に、柳田国男の『遠野物語』の一話を取り上げて、文学が虚実の皮膜に存するものだと論じた箇所がある。
ある婆さんの通夜の席で、夜中、参列の家族がうつらうつら寝ていたところ、死んだ婆さんの幽霊が、部屋に入ってきた。婆さんの幽霊は部屋を横切って歩いていったのだが、そのとき、引きずった着物の裾に、炭取りがあたって、炭取りがくるくると回った。三島由紀夫は、この「炭取りがくるくると回った」ということを描くのが文学である、と論じている。
つまりここでは、「幽霊」という非現実が、「炭取り」という現実を犯しているわけだが、こうした「非現実による現実の侵犯」が文学ということである、と三島由紀夫は論じているのである。
おれはこの三島由紀夫の文学論は未読だが、ここと同じ箇所が澁澤龍彦のエッセイに引用されていたのを読んだことがある。
車谷長吉のような“私小説”においても、澁澤龍彦のような“幻想文学”と同じように、「非現実が現実を侵犯する」という契機が含まれていなければ、それは文学としては成立しえないということである。そうした契機、つまり「虚」を含まない文章は、ただの作文、身辺雑記の類であって、文学ではないのである(車谷長吉は新人賞に応募された「小説」の下読みをやったとき、その9割が「小説になっていない、ただの身辺雑記の類」であることに嫌気がさした、と云う。「非現実が現実を侵犯する」という、この文学の勘所を掴んでいない小説家志望者が多すぎるということである)。

ところで、このエッセイ集の表題にもなっている「銭金の話」だが、「銭金」をめぐる人びとの右往左往を描けば、それはそのまま文学になる。
「銭金」がそもそも「非現実」であるからだ。「銭金」は、人びとの関係から発生する便宜的なものでしかなかったはずが、まるでそれ自身が「実体」をもっているかのように化けてしまった。
その「銭金」という化け物、「非現実」に、現実に生きる人びとが振り回されて「くるくると回って」いる。

●夕方、エスカの本屋で、荒俣宏『荒俣宏の裏世界遺産1 ―水木しげる、最奥のニューギニア探検』(角川文庫)を買う。
夜、ベッドの中で、150ページほど読んだ。

《セピック河流域は、水木大先生にいわせるならば、世界でもっとも想像力にあふれた精霊やお化けや祖先の霊の造形を行なう人びとが住んでいるところである。この人たちの想像力の前では、鳥山石燕も、河鍋暁斎も、円山応挙も、まったく適わない。とにかく、すごすぎるのだ。
大先生は、この能力を「見えないものを無理やり見る」力、と称している。いったい、どうやって見えないものを見るのか?まず、電気を消して、体も心も無防備の裸ン坊になる。こうすると、自然の力が何でもかんでも畏れおおくなる。次に、竹でも石でもいいから、何か材料を見つけてきて、楽器をこしらえ、演奏する。できれば、ブーン、ブーンといった低周波をビリビリ発生させる楽器がいい。なければ、長い竹をビュンビュン回すだけでもいい。これで、恐い唸り声が発生する。この音に反応して、犬は吼え叫び、鳥は激しくさえずる。
こうして体がウズウズしてきたら、いよいよ踊りだす。輪になって踊るか、列をつくって、みんなで踊るのがいい。そのうち、感きわまって、だれかが暴れだしたり、うわごとをいいだしたりする。
お酒を飲むと、もっと早く恍惚状態になれる。ただ、ニューギニアの人たちは不思議なことにお酒を飲む習慣がなかったから、キンマを噛んで口の中を真っ赤にしながら、いい気持ちになる。酩酊状態になったあと、スッパァーンと何か見えないものが見えてくる……こともある。神がかりがダメな人は、絵を描くといい。身のまわりにいる動物や植物を混ぜ合わせて絵にすると、なんだかわけの分からないイメージが生まれてくる。絵が苦手なら、化粧をしよう。それから、被りものや着ぐるみをつけてみよう。そうすると、自分自身が精霊やお化けに変身できる。
そして、いよいよ最後の仕上げだ。見えないものが見えそうになったら、考えるのをやめよう。心をうつろにしよう。目をむき、口をあけ、舌を出そう。思索はいらない、教養もいらない。常識もいらない。命もいらない。名誉もいらない。地位もいらない。仕事もいらない。もちろん、お金もいらない。そうして、完全なバカになったとき、周囲の自然がおもしろいほど別ものに見えてくる。話しかけてくる。抱きついてくる。
ニューギニアの人たちは、そういう状態になれる。でも、わたしたちはここ百年ほど、そういう状態になることを怠ってしまった。だから、セピックの彫刻や仮面を見ると、わたしたちは驚き騒ぐのだ。「こいつはいけない!おれたち、精霊を無理やり見る仕事を、さぼってしまった」と、気づかされるのだ。これを水木しげる流にいい換えれば、「あっ、おれたち、幸福を捨ててきてしまったのだ!」という慙愧の叫びになる。
だから、わたしたちはニューギニアを目指す。ものすごい精霊を無理やり見せてもらうために。失われた幸福を奪回するために。》

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by daiouika1967 | 2008-09-17 09:02 | 日記  

6月9日(月) 曇ときどき雨

11時前に家を出て、半分くらい読み残してあった町田康『破滅の石だたみ』(角川春樹事務所)を読んだ。細かなエッセイを寄せ集めた雑文集。特に、作家論、作品論がおもしろかった。
昼、インド人と会い、モスバーガーを食べながら、仕事の話をする。インド人と会うのは二度目になる。まだ仕事になるかどうか、仕事になったとして、おれがどんな役割を担うことになるのか、話の具体的な進展は何もなかったが、彼との会話のリズムはつかめてきた。
午後、車谷長吉『赤目四十八瀧心中未遂』(文春文庫)を読んだ。人は誰もが、命の燃焼を欲望する性を抱えている。破滅への衝動も、この欲望に促されてのことだろう。ただ、その欲望は、人が自分=個に執着するかぎり、ついに達することのできない不可能性のうちにある。性は個を開き、命の燃焼を幻想させるけれど、やはり、けっきょくは果てて個に戻るしかないという意味で、本来的に悲しい営みでしかないのだろう。人間とは悲しい存在であることだ。ただ自らを消尽することのみを望み、生きている限りそれも適えられることなく、自らの存在の根をつかめないまま、不安に包まれて漂うように生きていくしかない。などということを、つらつらと考える。
夕方、<三省堂>に行き、車谷長吉『金輪際』(文春文庫)、村上春樹・吉本由美・都築響一『東京するめクラブ 地球のはぐれ方』(文春文庫)を買う。
ひとり、ヘルスのオーナーと会い、彼が巻き込まれたトラブルの相談に乗る。相談に乗るだけのことだから、報酬はない。ボランティアである。ということで、かなり無責任な提言をいくつかしておいた。彼も、おれとの話のなかに、解決の糸口を探っているわけではなく、気休めを見出しているだけのような気もする。
<ジートレス>で1時間ほど、村上春樹・吉本由美・都築響一『東京するめクラブ 地球のはぐれ方』(文春文庫)を読む。これは、著者の三人が、「ちょっと変なところに行って、ちょっと変なものを見てまわ」った(「すごく変なところ、ではなく、ちょっと変なところというのが大事」)、その旅行記のようなもので、各章ごとに、三人それぞれの体験記と鼎談で構成されている。第一章は、「魔都・名古屋」。おれが勤めていた高砂殿も取材されていた。三人が語っていたことのなかで、特に印象に残ったのは、名古屋人にとって街というのは「ちょっと出掛けるところ」でしかなく、そこにコミュニティは形成されない構造になっている、という指摘である。だから、名古屋の若い人たちってのは、基本的に孤独を感じているでしょうね、と続けられる。さらに、このこととも関連するのだと思うが、名古屋は夜出歩く気にならない都市だ、ということが言われている。都市に行くと、街が夜遊びを誘うオーラを発しているものだが、名古屋にはそれがまったく感じられない、名古屋には都市の特性であるナイトライフというものが存在しない。その通りである、とおれも思う。
夕食は、妻がうどん、ざるそば、ラーメンを茹で、豚のステーキを焼いた。三色麺と豚のステーキ2枚ずつ。豚ステーキは一枚150gくらいはあって、2枚だと300gにはなる。かなりのボリュームだ。味は美味しかったが、食べ終わってさすがに膨慢感があった。酒や香辛料が大量に使われていたこともあいまって、食後暫くの間体が火照ったようになり、汗がだらだら流れた。
テレビで録画しておいた「古畑任三郎」の再放送を眺め、DSで「美文字トレーニング」、Wiiで「マリオカート」をやってから、1時過ぎ、就寝する。
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by daiouika1967 | 2008-06-10 19:19 | 日記  

3月25日(火) 晴

腹が減って目が醒める。ダイエットを始めて、2日目、3日目辺りは、空腹感がきつい。ただ、どこか気分は爽快で、空腹感を感じるのも悪くないな(飢えまで行かなければ)、と思う。
今日は、妻が通っている婦人科におれの精子を持っていかなければならないということで、朝から精液の採取作業をした。できるだけ直前に採取するのが望ましいので、妻が出かける9時まで15分となったところで、採取作業を開始する。出支度を済ませた妻に、ペニスを手でしごいてもらった。おれは眉間に皺を寄せて集中し、10分くらいで射精に成功した。
妻が出かける前に昨日のスープを温め直してくれた。朝食はスープと黒糖パン2個。
パソコンを起動して、1時間仕事をこなし、10時半頃に家を出た。

名駅の喫茶店に入り、3件ほどハシゴしながら、斉藤環『心理学化する社会 ―なぜ、トラウマと癒しが求められるのか』(PHP研究所)を読んだ。
読みながら、「なんだか以前に読んだことがあるような…」と思い始め、最後まで白黒分からないまま読み了えた。おれはときどき、昔読んだ本を、読んだことを忘れて再度買ってしまうことがある。読み始めてすぐに「あ」と気づく場合もあるし、最後まで読んでも「なんとなく読んだような気もする…」と判然としないこともある。かなりのめりこんで読んだ本でも、その記憶がすっぽり抜けているようなこともある。江戸学者の田中優子に『江戸の恋』という名著があるのだが、おれはその本を、そんなふうにして2度読んでいる。おれは、読書中気になった箇所があると、ページの端を犬耳折りにするようにしている。『江戸の恋』を読んだときは、気づかないまま、2度とも全く同じページを犬耳折りしてあった。

さて、『心理学化する社会』。これは、俗流心理学の図式的な説明によって、さまざまな現象を分かったような気分になってしまう、という風潮への批判の書である。

―「フィクションならフィクションでのトラウマの扱い方が、あまりにも直接的かつ図式的になっているのではないか、という懸念があるのだ。悪いのは『トラウマ』ではない。その取り扱いが、一種の紋切り型としてパターン化されていく過程のほうが問題なのだ。そして、予測可能なパターンのこれほどまでの蔓延は、それが作家の怠惰でなければ、物語の堕落以外の何ものでもないだろう」。
物語の堕落」。本田透が「ケータイ小説」を批判するのも、「ケータイ小説」が、この「予測可能なパターンの蔓延」に侵されているという点に対してであった。どんな現象にも「わかりやすい説明」を求め、誰にでも性急な「共感」を求めようとする人びとの心性。その心性に媚びて創作する作者が、「物語」を「堕落」させる。
これは純粋なフィクションに限った話ではない。例えば日々起こる事件に対して、心理学者がそれらしい説明を与える。そのことも、「物語の堕落」に加担しているのではないか。

―「トラウマを扱う際の最大の原則は、『トラウマそのものを直接に描いてはいけない』ということに尽きるだろう。なぜならトラウマが効果を発揮するのは、それが常に『覆われた状態』において、であるからだ」。

2時過ぎに読み了え、喫茶店を移動し、車谷長吉『物狂ほしけれ』(平凡社)を読んだ。喫茶店を2件ハシゴして読み了えた。
「徒然草」を引きながらの随想「徒然草独言」と、「反時代的毒虫の作法」と題された人生論的なエッセイ。何箇所か、抜粋する。

―「早く死にたいな。私はそう思う。いま私は六十一歳であるが、数年前からそう思うている。この先、長生きしても『いいこと』など何もないのである。昔、文学賞をもらったりすると、それまで私のことを小馬鹿にしていたやつばらを見返してやったような気分にもなったが、併しみんな死んでいくのである。それが自然の摂理である。とは言うものの、人に殺されるとか、自殺するのは厭である。事故死も厭である。自然の理にかなった形で死にたい」。

―「我われがこの世でお金を得る手段としては、次ぎの六項目がある。
①労働力を金に換える。この中には売春もふくまれる。労働力を金に換えるということは、働くということである。時間をつぎ込み、時間を失うということである。
②財産・不動産を運用する。郵便貯金・銀行貯金の利息、株券の配当、家賃など。
③人から贈与される。人から金をもらうこと。たとえば子供は親から金をもらって学校へ行く。九割九分の場合。
④人が所有している金を横奪する。つまり強盗・泥棒になること。また合法的、非合法的に人に金を出させること。つまり詐欺事件。ピンハネ、やくざ組織の上納金なども。道に落ちている金を警察に届けない。猫ばば。
⑤賭博に勝つ。競馬、競輪、競艇、オートバイ・レース、麻雀、パチンコ、賭け将棋、賭け碁などに勝つ。宝籤。
⑥人から借金をする。普通は返済の義務が付いて回るが、中には車谷さんのように返せない人もいるし、返す意志がない人もいる。
いずれにしても、これは自己と他者との関係性の問題に帰着する。①の労働力を金に換えるというのは、雇い主と雇われ者との関係性になって、労働組合があっても、給与が少ないとかどうとか言うて、揉め事になる。⑥の人から借金をすれば、逆に言えば人に金を貸せば、半分以上は揉め事になる。③の人から贈与されるというのも、子供の頃、親から金を出してもらって学校へ行っている間は揉め事は起こらないが、これが学校を出て十年近くが過ぎ、三十歳くらいになって、親に『五万円くれ。』と言うと、しばしば揉め事が起こる。そして親を殺して、金を奪ったなどという事件が起こる。
金に纏わる揉め事は、切りなくある。小説はこの①から⑥までの、金に関する揉め事を書くのである。自己と他者との関係性、会社の上司と下役、夫婦関係、友達関係、その他の関係、電車の中でたまたま隣に座った者同士の関係、そういう関係性の中で、金にきれいな人、金に汚い人、金に無頓着な人、金に無関心な人、さまざまな人が出て来るのである。
生活に必要な銭の高は、誰にあってもおぼろげながら、併しおのずからはっきりした額で知れており、その額よりは『少し多め』か『少し少なめ』かのあわいを漂うているのが、大部分の人の生活である。『少し多め』をいいと思うている人もいれば、『少し少なめ』の方がいいと感じている人もいる。何をいら立つことがあろうか、と思うのは、浅はかな考えであって、人はその『少し多め』『少し少なめ』の生活を維持するために齷齪(あくせく)し、いや、齷齪せざるを得ないのである」。

―「人間の関係性というものが、スムーズに行くわけがない。だいたいぎくしゃくする。なぜぎくしゃくするかと言えば、人間の中には欲望、煩悩というものがあって、こうしたい、ああしたい、という欲望が誰の中にもある。それがそれぞれの中で、てんでばらばらにあるから、うまく行くわけがない。そこで衝突が起こる。そういうことを書くのが小説です」。

―「私はこと金に関することでは、嫁はんに愚痴、小言、泣き言、注意、苦情、指導、文句を言うたことは一度もない。嫁はんもこと金に関しては、愚痴、小言、泣き言、注意、苦情、指導、文句を言うたことは一遍もない。金に関しては『正しい意見』を言うと、関係が破壊されるのである。破壊されないまでも、気まずい関係になる。だから、たがいに言わないで来た」。

―「うちの嫁はん(高橋順子)の『時の雨』『貧乏な椅子』を読んでいただければ、よく分かるのだが、その八割は私のことをモデルにして、詩を書いている。結婚するまでの詩に較べて、深み、奥行きが出て来た。なぜそうなったか、と言えば、他者が生まれたのである。他者性が出て来たのである。他者とは何か、と言えば、決して自分の思うようには動かない男、または女、ということである。それが他者である。だから嫁はんは私と同居していて、絶えずいら立っている。『漬物を食べなさい。』『お風呂に入りなさい。』『くうちゃん、ちっとも私の言うことを聞いてくれない。もうッ。』絶えず愚痴、小言、泣き言、注意、苦情、指導、文句、嫌がらせ、を言うている。そういう『日常』を詩にしているのである。つまり私を『芸のこやし』にして、文学賞をもらっているのである」。

文学者のエッセイと、学者のそれでは、なにが違うか。文学者のエッセイには、幾つもの無根拠な断定、飛躍、過剰な描写や例示などが含まれており、そこに書いている人間の身体性が突出している。文章に身が備わっている。その身の不透明な厚みが、読んでいるこちらに独特の味わいをもたらしてくれる。学者の書く文章は、なめらかだが、そのような味わいが感じられることは少ない。

夜飯は、スープと冷奴、パンを一個。腹筋、腕立てをやった。
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by daiouika1967 | 2008-03-26 12:37 | 日記