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7月23日(水) 晴

今日はすこし重要なプレゼンがあった。うまくいけば秋までは安泰だ。逆に結果が悪ければ早急に金策をしなければならない。のるかそるか。あいかわらずタイトロープな日々である。
昨日の夜、今日の午前中と、このプレゼンのための資料を作成した。資料を作りながら、頭の中で何度かプレゼンのシミュレーションをする。昼過ぎくらいに資料が完成し、シミュレーションの組み立ても終わった。プレゼンは夕方からである。午後は昨日途中まで読んだ田山花袋『東京の三十年』(岩波文庫)の続きを読んで過ごした。田山花袋が過ごした明治の東京、その三十年の風景、文壇の変遷が回顧的に描写されている。国木田独歩との交流の描写に明治の時代を感じた。

4時からプレゼン。某社の社長と専務を前に、プレゼンは、自分で想像していた以上に和気藹々と進んだ。うまくいった。これでこの夏は乗り切ることができる。
帰りにエスカ地下街の本屋に寄り、雨宮処凛・萱野稔人『「生きづらさ」について ―貧困、アイデンティティ、ナショナリズム』(光文社新書)、ジョージ秋山(監修:黄文雄)『マンガ中国入門 ―やっかいな隣人の研究』(ゴマ文庫)、臼井宥文『日本の富裕層』(宝島SUGOI文庫)を買う。
高島屋のデパ地下で桃を買って帰った。

夜、DVDで『FREEDOM』vol.4、5を観る。
眠る前に、雨宮処凛・萱野稔人『「生きづらさ」について ―貧困、アイデンティティ、ナショナリズム』を読む。

<生きづらさ>は、グローバル化の中で<格差社会>が進んだことからくる経済構造的な問題でもあるのだが、そもそもその経済構造のなかでいわゆる「負け組」になってしまう原因には、「今の高度化したコミュニケーションからの脱落」という問題がある。

《いまの社会では、場の空気を読んで、相手の感情や行動を先回りして、互いのコンフリクトがけっしてあらわれないようにふるまえっていう要請がすごくあるじゃないですか。そうしないと、自分のことをまわりから認めてもらえないし、自分の居場所もつくれない。そういうハードルの高い人間関係のかたちがあるから、一度それにつまづいてしまうとなかなか立ち直れない。つまり、コミュニケーションのあり方が生きづらさのもともとの原因にある。
コミュニケーションのなかで要求されるスキルや繊細さって、時代のなかでどんどん高度になっているんですよね。だから勝ち組の年長者は、いまの生きづらさのリアリティがまったくわからなかったりする。》

《いじめは、子供たちや若者たちのコミュニケーションの能力が下がって、人間関係が希薄になったから起こっているのではありません。逆に、コミュニケーション能力がここまで要求されて、何らかの緊張緩和がなされないと場を維持することができないから起こっている。そこで実践されているのは、空気を読んで、相手の出方を先回りし、まわりに配慮しながら場を壊さないようにする、という高度なコミュニケーションです。》

《何らかの共同体に所属し、そのなかで認められたり必要とされたりするというのは、いまのコミュニケーション重視型の社会のなかでは一種のアジール(避難所)としての役割をもっていますよね。
たとえば親子という共同体のなかでは、子供は何か特別な能力があったり、他の子供よりすぐれているから、親から認められたり必要とされたりするわけではありません。その親の子供である関係そのものが、子供に「無条件に認めてくれる居場所」というのを与えてくれる。共同体というのは、そうした「無条件に認めてくれる居場所」を、所属によって与えてくれるものなんです。
これと対極にあるのが、いまのコミュニケーション重視型社会です。そこでは、流動化した人間関係のなかでそのつど他人から認められるよう努力しなくてはいけない。流動化した人間関係のなかで他人から承認されるためには、たとえばイケメンだったりキレイだったり、トークが冴えていたり、あるいは他人にアピールできるような特別な能力や資格、ステイタスをもっていないといけません。つまり、最近よくいわれるコミュニケーション能力や人間力というものが備わることで、初めて人は他人から認めてもらえる可能性を手にするわけです。
こうしたコミュニケーション重視型の社会と、共同体的な承認のあり方を比べたとき、どっちがいいのかというのはたしかに難しい問題です。たとえば共同体というのは、人びとに安定的な承認をもたらしてはくれますが、同時に排他的だったり、ややこしい共同体のルールやしがらみを押し付けたりもします。だから流動化した社会のほうを「解放だ」と考える人がいるのもわからなくはありません。
ただ、確実にいえるのは、まったく共同体的な承認なしにコミュニケーション重視型の社会を生きていくのは相当キツイということです。人間、誰だって失敗するし、うまくいかないことだってあります。そんなときに「それでいいんだ」とか「大丈夫だよ」って無条件に受け入れてくれるような居場所があるとないとでは大違いですよね。そうした居場所があるからこそ、いまのコミュニケーション重視型の社会で失敗を恐れずにやっていこうという気にもなるわけですし。》

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by daiouika1967 | 2008-07-24 23:50 | 日記  

3月19日(水) 雨

朝から雨。終日雨だった。
昼前に起床し、春日武彦『問題は、躁なんです』(光文社新書)の残り数十ページを読んで、1時頃、傘をさして家を出た。
RCサクセションの『ラプソディー・ネイキッド』を聴きながら、<ジュンク堂>まで歩いた。

午前中読み終えた春日武彦の本に、精神病診断マニュアルICDからの引用で、軽躁について定義されている箇所があった。
―「気分は患者がおかれた状況にそぐわないほど高揚し、愉快で陽気な気分からほとんど制御できない興奮にいたるまで、さまざまに変わりうる。通常の社会的抑制は失われ、注意を保持できず、著しい伝導性の亢進(ひとつのことに注意を集中できず、次々に新しい対象へと注意が移っていく状態)をみることが多い。自尊心は肥大し、誇大的あるいは過度に楽観的な考えが気軽に表明される。実現不可能な途方もない計画に熱中したり、浪費を重ねたり、攻撃的となったり、好色であったり、あるいはふさわしくない場面でおどけたりすることもある」。
ほとんどおれである。そうか、おれは軽躁を患っていたのだ。うっすらと病識はあったが、なんだ、そうだったんだ、と納得する。
おれは、(軽い)躁病である。そう思い至ると、自分の行動傾向―言いっ放しやりっ放しの無責任、何でも途中で投げ出してしまう飽き性、ハッタリまじりの大言壮語といった、人間としてもう救いようのない自画像が、改めてはっきり浮かんでくる。

誰もが自分のネガティブな姿から眼をそらそうとし、自分で自分のことがはっきりと捉えられなくなる。
自分は、卑小で、愚劣な、救いようのない人間だった。
そう気づくことで、自分の全体像が、はじめて明晰に浮かんでくる。
自分だけではない、周りのものすべてが、明晰に観察できるような心地に至る。

自分も含めてなにもかもが、ただありのままそこにある。
その体験は、いっそ清々しいといってもいいような、高揚した気分をもたらしてくれる。
自分の救いのなさを認めればいい。
そのことがそのまま救いにつながっている。
…いやそうではない。
この世のどこにも救いなどないのだ、というあたりまえの認識を得ることができる。


<ジュンク堂>で、『雨宮処凛のオールニートニッポン』(祥伝社)、斉藤環『「負けた」教の信者たち ―ニート・ひきこもり社会論』(中公新書ラクレ)、本田透『なぜケータイ小説は売れるのか』(ソフトバンク新書)を買った。
喫茶店に入り、『雨宮処凛のオールニートニッポン』を読んだ。雨宮処凛が、ニートだけで運営するインターネットラジオ「オールニートニッポン」で、さまざまな「生き難さ」を抱えた人々をゲストに迎え、対談している。
ここに登場するのは(ホストの雨宮処凛も含めて)、社会制度や法律の改革の運動、革命運動、文筆表現、オルタナティブなライフスタイルの創出といった、様々な回路をつくることで、自分の「生き難さ」を乗り越え、あるいは何とか折り合いをつけつつ生きている人びとだ。
自分自身をふりかえってみると、おれもまた、自分は無理に生きているのだ、という「生き難さ」の感覚をつねに持っている。だから、ここに登場する人びとの語る言葉は、読んでいるとバシバシ響いてくる。

帰りに、マックスバリュに寄り、本屋で、春日武彦『残酷な子供 グロテスクな大人』(アスペクト)、斉藤環『心理学化する社会 ―なぜ、トラウマと癒しが求められるのか』(PHP研究所)を買った。
夜は、なんだか疲れていて、何もやる気にならず、ずっとテレビを眺めて過ごした。1時頃、就寝した。

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by daiouika1967 | 2008-03-20 12:30 | 日記  

3月17日(月) 晴

午前中、名駅の喫茶店で、中原昌也『ニートピア2010』(文芸春秋)の残りを読みきった。B.G.M.はオーネット・コールマン『Dancing in your Head』。

昼、地下鉄に乗って、千種<正文館>に向かった。この書店に来るといつもそうなのだが、すべての棚を隅々まで見回して、結果、大量の本を買いたくなる。それをぐっと抑えて、古井由吉『野川』(講談社文庫)、山岸俊夫『日本の「安心」はなぜ消えたのか』(集英社)、雨宮処凛『全身当事者主義』(春秋社)、福満しげゆき『生活 a life 1』(青林工藝舎)の4冊を購入した。

千種から栄まで歩き、そこで入った喫茶店で、偶々、昔の仕事仲間のおばさんと遇った。おばさんは、今の職場の同僚の、たぶん30歳くらいの女の子と二人で、コーヒーを飲んでいた。同席し、おばさんの現状について話を聞く。おれの現状については、要約すれば「何もやっていない」ということになるので、そう伝えると、「のらりくらりと生きていけていいねっ!」と言われた。4月になったら、おばさんとその同僚の女の子と3人で、飯を食いに行く約束をして、別れた。

喫茶店を移り、福満しげゆき『生活 a life』を読んだ。
けっこう歳のいったフリーター、ニート、どこにでもいそうなしょぼくれたおっさん、家が貧乏な女学生、ホームレス、といった、社会から微妙に脱落しかかった人々が、その不安や怒りを、犯罪者を懲らしめることで発散していくという物語。
会話の吹きだしに、ところどころ、普通の活字ではなく、手書きの小さな文字で、登場人物同士のぼそぼそとしたやりとりが書かれている。登場人物の微妙な主張や逡巡、戸惑いの小さな呟き。これがキャラの味わいをぐっと増している。

喫茶店を移り、雨宮処凛『全身当事者主義』(春秋社)を読んだ。
「いじめ、リストカット、自殺未遂、「生きづらさ」、フリーター、オウム、右翼、北朝鮮、イラク、そして戦場」といった履歴をもつ雨宮処凛が、それぞれ「生きづらさ」を抱える5人のゲストを迎え、対話している。副題に「死んでたまるか戦略会議」とある。
いじめ体験をもつ“暗器使い”が、今は捨て身だから怖いものはない、どんな強面のやくざとだってケンカできる、でも、当時いじめられた人間に遭うと、身が竦んでしまいどうしても卑屈な反応になってしまう、と言っていたのが印象深かった。当時の関係が身体化されてしまっているということだ。いじめの被害にあうと、そんなふうになるわけだ。

これを書いている今、翌日の夜なのだが、どうもうまく文章が書けない。気息が乱れて、うまく文章に意識を沿わせることができない。ときどきこんなふうになる。
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by daiouika1967 | 2008-03-19 01:37 | 日記