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9月7日 月

朝晩涼しくなった。快適である。夜飯は、厚揚げとガンモ(素焼きにしてしょうが醤油で)、インゲンとオクラ(鰹節とポン酢で和えて)。内容、量ともにたいへんヘルシー。食後も体が重くならない。毎日こんな感じのものでいいなと思う。おれはすぐに腹を壊すから、あまり重々しい食事は控えたほうがいいのだ。

食後、高橋源一郎『13日間で「名文」を書けるようになる方法』(朝日新聞社)を読む。
いい文章を書くには、まず「見る」ことである。対象にまつわる知識や先入観をもたず、ただ何も知らない「部外者」として「見る」ということ。そして、「見て」しまえば、それが何なのかと考えざるを得なくなる。考えるためには言葉が必要になる。文章は、そうした要請に応じて、はじめて紡がれる必然をはらむのである。ほんとうに人に届く文章を書くためには、自分がその文章を書く必然に、まずは至らなければならない。
文章が紡がれる起点となるのは、「部外者として見る」というその体験の地点である、と、著者はそのことを(ほとんどそのことだけを)、くりかえし強調する。

―「語彙をたくさん覚えたり、美しい、あるいはカッコいい、人びとを感心させるような言い回しを使えるようになったりすることと、『名文』を書けるようになることとの間には、なんの関係もないのです。
あなたたちは、この授業が、『文章』を、というか、『名文』を書くことができるようになるための授業なのに、『文章』について触れることが少ないと思っているかもしれません。
というのも、わたしたちの周りにある『文章』は、たいてい、社会的な『サングラス』をかけて書かれているからです。
『文章』を書けば書くほど、人びとは、考えなくなります。というか、『見る』ことをしなくなるのです。
まず、『部外者』として『見る』ことです。
教科書は遠ざけてください。不安にかられて、線を引いてしまうかもしれないから、筆記用具も不要です。
それから、『考える』ことです。その時、あなたたちは、なにかを『考える』ためには、ことばが、『文章』が必要であることに気づくはずです。
それが、すべてのスタートなのです。
なにかを見たら、そのままにしておいてはいけません。たぶん、あなたたちは、すぐに忘れてしまうからです。なにかを比べてみてください。あるいは、結びつけてみてください。
(・・・)
わたしは、わたしが『見る』ことのできたふたつの風景、『ストリップ』と『バレエ』を結びつけてみようとしました。そのことで、自分の知らないなにかを知ることができるような気がしたからです。そのことによって、社会によって、無理矢理かけさせられた『サングラス』を外す術を知ることができるような気がしたのです。
そして、そのためには、どうしても言葉が必要でした。『文章』というものは、必要にかられて書くものです。そのことを、やはり忘れないようにしてください。」

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by daiouika1967 | 2009-09-08 15:23 | 日記  

6月7日(土) 曇、夜になって雨

10時過ぎまで、たっぷり眠る。眠りすぎて眠いような朝。
11時頃、家を出て、<三省堂>で、高橋源一郎・山田詠美『顰蹙文学カフェ』(講談社)、町田康『破滅の石だたみ』(角川春樹事務所)が出ているのを見つけ、買う。
喫茶店で、さっそく『顰蹙文学カフェ』を読み始める。高橋源一郎と山田詠美がホスト役で、毎回がひとりずつゲストが招かれ(ゲストは、島田雅彦、中原昌也、車谷長吉、古井由吉、瀬戸内寂聴の5人)、「文学」談義が展開されている。
3時からK君と待ち合わせ、クライアントの会社に向かい、打ち合わせをひとつ済ませる。2時間話す。なあなあになっている担当者なので、話の半分くらいは無駄なおしゃべりになる。
夕飯は、妻が拵えたチキンライス。美味い。
夜は、『破滅の石だたみ』を半分くらい読んでから、妻とWiiマリオカートで遊んだ。まだコントローラーが思うように制御できない。夜、夢を見た。車を運転しているのだが、ハンドルがうまく使えず車が制御できない。ああっと思っているうちに、池に落ちたりするのだが、不思議と次の場面では再びその車を運転していて、でもやっぱりうまく運転できずに、今度は畑につっこんだりする。という、ものすごくわかりやすい悪夢である。ゲーム体験が身体に与える影響は侮れないなぁと思う。

●文学者は世間にも文壇にも「顰蹙」を買うくらいじゃなきゃいけない、
いや、そもそももはや文学などというものをやっていること自体が、世間的には顰蹙ものになってるんじゃないのか、
顰蹙を買うほどに、「若者・ばか者・よそ者」(©田中康夫)、
つまり、存在しているだけで我々を取り巻く現実を異化してしまうようなはぐれ者こそが、
本質的な文士であり、
「文学」はそうした文士の書く言葉のなかに継承されているはずであり、
またそうした文士の佇まい(それは、「ダサくてかっこわるい」姿だろう)に顕現しているはずである、
というのが、この本での高橋源一郎と山田詠美の間のコンセンサスになっているようだ。

中原昌也がゲストの回で、
中原昌也はあいかわらず「小説なんか書きたくない」という話を語っていて、
ホストのふたりが「でもべつにやりたくなきゃやらなくていいわけだから、そんなこといいながらほんとうは小説書きたいんでしょう?」と、
誰もがそう思うだろうというツッコミを入れ、その攻防(?)が執拗につづけられるのだが、
そのなかで、中原昌也が言っていたことに、なるほどな、と腑に落ちるところがあった。
《とにかくこういうことなんですよ。物を書いている自分は、自分が好きじゃない自分なんですよ。徹底して自分が好きじゃない自分に落ちないとできないっていう……。》
これは、「徹底して自分が好きじゃない自分に落ち」た、その“最底辺”でようやく小説が書ける、ということが言われているのであって、
だから、中原昌也は、“小説を書くために”その“最底辺”まで自ら落ちていきながら、
しかし、そんなことをしなきゃならない自分の境遇に、じっさいにほんとうに腹を立てているのである。
ただ、しかし、「そんなことしなきゃならない」のは、中原昌也が訴えるように、「手に職も無いし小説を書くことくらいしか身を立てる術がない」という「境遇」の問題ではなく、
やはり彼が本質的な文士であるという、その「業の深さ」の問題なんじゃないか。
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by daiouika1967 | 2008-06-08 18:11 | 日記  

4月17日(木) 雨

終日雨。9時半頃起床し、午前中はパソコンに向かって仕事。日記をつけてから、午後、家を出た。

昨日読んだ『文藝』の高橋源一郎×斉藤美奈子対談
1.太平洋戦争が終わってからも経済戦争という形で戦争は続いていた、そしてバブル崩壊という“敗戦”を経て、そこに“戦後文学”が生まれた、阿部和重を起点とし、町田康、中原昌也らの小説は“戦後文学”とみなすことができる、これらの小説が暗くて貧乏くさくて暴力的なのは、それらが“戦後文学”であるからだ。
2.「私」は、たとえば国家だとか社会といったものからの距離としてしかその輪郭を得ることができない、国家や社会の像がはっきりと結べなくなった今、現代の作家は、これまでのような「私」を標榜することができなくなった、現代の作家は、微小な差異のなかに「私」を描き出すしかなくなっている、だから、現代の作家が書く小説は異様に解像度が高くなるのである。

名駅地下街のドトールで、川上美映子×中原昌也対談を読み、磯崎憲一郎「眼と太陽」を読んだ。小説になかなか意識をチューニングすることができなくて苦労する。磯崎憲一郎の小説は、いったんチューニングがあったらそのまま受動的に読みきってしまうことができる、という感じではなく、つねに自分の読む体勢を調整しながらでなければ読み通すことができない。

<三省堂>で新書2冊。岡崎武志『読書の腕前』(光文社新書)、双葉十三郎『ぼくの特急二十世紀 大正昭和娯楽文化小史』(文春文庫)
大名古屋ビル地下の<アルアビス>で、ビニエ(皮のパリッとしたシュークリーム)を頬張ってコーヒーを飲みながら、岡崎武志『読書の腕前』を読み始める。駅西の喫茶店に場所を移し、読み継いだ。190ページまで。
駅西の<69>で、CD3枚。細野晴臣『HOSONO HOUSE』、大瀧詠一『Niagara Moon』(30周年アニバーサリー)、スタン・ゲッツ『カル・ジェイダー・セクステット』

夜。DVDで及川中監督『吉祥天女』を観た。少女をポップに撮らせたら右に出る者なしの及川中監督。今回の主演は鈴木杏。ただ彼女は、物語のキャラがあまり“ポップ”なものではなく、おれにはあまり魅力的には映らなかった。映画全体の流れも、原作に引きずられてなのか意図的なのかはわからないが、ところどころ「なんか漫画っぽいな」という余計なカットが挿入され、もちろん映画的な素晴らしい場面も数多くあったのだが、改めて、及川中監督はオリジナルの脚本の方が圧倒的に素晴らしいよな、と思った。おれは、及川監督の『日本製少年』と特別な出会い方をして、あの映画(とりわけ主演女優の嶋田加織)にはほとんど恋着といっていいような思い入れがあるので、及川監督にはぜひオリジナルの脚本で撮ってほしいと思う。
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by daiouika1967 | 2008-04-18 10:01 | 日記