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9月23日 水 曇ときどき雨

今日は祭日だったので、水曜のヨガの授業に行く。四週目の水曜日。四週目はいつもハードなメニューをやる。普段は一連のポーズを終えると、句点のように、シャバーサナという、横たわって全身の力を抜くポーズが挿入されるのだが、四週目はその休息の時間がない。今日もきつかった。汗がポタポタ落ちるほどの激しさだった。

歩いて家に帰り、シャワーを浴びて、しばらくベッドに横になる。
夕方から、二時間ほど、テレビのニュースを眺める。べつに特別なトピックがあったわけではないが、最近テレビから遠ざかっていたので、なんとなくニュースに飢えていたのだ。民主党新政権の動きがいくつかレポートされていた。マスコミは、民主政権に、まだ好意的である。

夜、黒沢清対談集『映画のこわい話』(青土社)から、青山真治、万田邦敏、高橋洋との対談を読み返す。
青山真治との対談。青山真治は、『ユリイカ』では、「ある人物」を描こうと思った、と語る。
「人間が深く描けている」という評が、たいていの場合、人間の喜怒哀楽が説得的に(というのは、一定の意外性も含みつつ、結局は理解可能な範囲で予定調和的に)描かれている、ということを指すのに対し、『ユリイカ』で「ある人物を描こうと思った」と青山真治が言うのは、ある人物がある状況のなかである言動や思考を動かす、その動きの必然を精細に描出しようと思ったということを指している。
その「動きの必然」を、青山真治は「歴史」と呼び、黒沢清は「運命」と呼ぶ。その辺りのふたりのやりとりを抜粋する。

黒沢清「自分がそれまで生きてきた、若者なら短く中年なら僕と同じく三十年といったなかで、こんなところに来てしまっている、こんなことになってしまっていることにはたと気づく瞬間が無意識のうちにドラマの中に盛り込まれているかなという気はしています。歴史はわからない。運命的ではある、それは狙ってないんだけれど。起こっている出来事に反応する俳優の芝居なんかも、露骨に運命という言葉は使わないけど、なんか運命的な反応として演じてもらいたいというのはありますね。事件はなぜかわからないけど起こった、時の流れはそういうことだったのかという感じに見えたいよねという思いはあります。」
青山真治「黒沢さんがおっしゃっているその『運命』というのを僕は『歴史』と呼んでいるような気がします。つまり、それらは両方ともシステムだと思うんです。こちらが受け取る受け取らないにかかわらず在る、そのシステムが作動する様を見ているんだという気がするんです。」


現実は、つねに、「なぜかわからないけど起こった」、というように起こる。起こったことには、対応しなくてはならない。「時」はつねに流れており、「私」もまたその「流れ」のなかでしか存在しえない。
私はなぜ彼や彼女と敵対し、彼や彼女と徒党を組んでいるのか。私はなぜここにいて、あそこにいないのか。私はなぜこんなことになってしまっているのか。ふと違和を覚える瞬間があり、その瞬間を捉えることが、すべての表現の原初になる。

今日の出費。昼飯代2400円。ミスド500円。計2900円。別財布から。
朝食、菓子パン、キャベツ。昼食ハンバーグ定食。夕食、豚キムチ炒め、シメジと若布の味噌汁、栗ご飯、ニンニクの紫蘇漬け。

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by daiouika1967 | 2009-09-23 22:56 | 日記  

11月24日(月) 雨

終日雨の祝日。10時過ぎに起きて、はっきりしないままの頭で、パソコンを起動し、しばらくいつものサイトを周回して過ごす。
昨日、水鉢の水を取り替えるとき、メダカの一匹が弱って横になって泳いでいるのを見つけたのだが、今日見るともう死んでいた。それで、いつもの公園に埋めに行くことにし、昼前、妻といっしょに傘をさして家を出た。
公園の隅の木の根元にメダカを埋め、公園に隣したところにあるうどん屋に入った。デラックス味噌煮込み(天麩羅が三種入った、大きな器に盛られた味噌煮込みだった。味は、不味くはないが、とりたてて美味くもない)を食べた。

2時頃家に着くと、携帯が鳴り、見るとNからだった。話したいことがあるんで、今から、ちょっと来られませんか?ということだった。遠慮のなさが、クライアントとしてではなく、友だちとしての扱いに変わっている。
いいですよ、と答え、会社に向かった。話したいこと、というのは、Nにとってはともかく、おれにとってはべつにたいしたことではなかった。例によって空騒ぎをして、5時過ぎに会社を出て、家に帰る。

夕方、黒沢清監督『アカルイミライ』を、見直した。
この映画では、クラゲが象徴的に扱われているのだが、この映画からクラゲを引き算して、起こっている出来事だけを繋げてみると、浅野忠信もオダギリジョーも、衝動的に殺人や窃盗を犯してしまうキレやすい若者ということになってしまう。
この映画は、その「キレやすい若者」の側に立って、そこから「ミライ」へ繋がっていく「希望」のようなものが見出せないのか、という思考実験であるようにも考えられる。
クラゲは、そうした「希望」の象徴として、浅野忠信、オダギリジョー、そして藤竜也のあいだで、共視されている。
黒沢清の映画を見ると、映画とは元来思考の道具であったということが、あらためて再確認できる。

8時ごろ、遅い夕食をとる。豚肉ともやしの炒め物、とろろ、五穀米。
夜はずっと、ネットを周って過ごし、夜中に、妻とコンビニに甘いものを買いに行く。おれはモンブランプリン、妻はミニプリンパフェ。太るなあと思いつつ、寝る前に食べて、2時過ぎに就寝した。
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by daiouika1967 | 2008-11-26 23:41 | 日記  

8月13日(水) 晴

午前中、『映画芸術』の最新号(424号)を読む。特集は「ボーダーレス・クリティック」。「私たちは自由に『映画』を観ることができているのか?」というキャッチコピーに惹かれて買った。

黒沢清の最新作「トウキョウソナタ」をめぐって、監督へのインタビュー、批評記事がいくつか載っていたのだが、そのうちのひとつ、野村正昭の記事に、こんな指摘があった。
《黒沢清監督の映画では、カメラがスーッと横移動すると、時々とてつもない惨劇が起こったりする。勿論、何もない時もあり、主人公がただ歩いているのを追っているだけだったりするが、それでも確実に主人公の運命は破滅に向かっていたり、周囲の状況が変化したりする予兆だったりする。》
カメラが横移動することで、観客は、今映っているフレームの外へと意識を滑らせることを促されることになる。
フレームの外にも“世界”は広がっているのだ、というあたりまえの現実。しかし、黒沢清のようにその現実を見せてくれる映画作家は希少な存在であるように思う。
黒沢清のインタビューのなかにも、このことに関連するような内容の応答があった。
インタビュアーの《唐突にパッと出会うところから始めるというのは、この映画全体のリズムになっている気がします。帰宅するお父さんがY字路で次男と唐突に出会ったりとか》という指摘に対し、黒沢清はこんなふうに答えている。
《なるほど。そう、僕、好きなんですよね。ふと出会うというか、ある人物を撮っていると思ったら、急に別の角度からもうひとりがフレームインしてくるというようなことが。それは単純に言うと、ある人物を撮影しているようでいて、実はその外に彼と全然関係ない世界が広がっていて、そこから何がどう彼に影響していくか全くわかりませんよという。安心しているとそんなことありませんよと。一番典型的なのが、そこに居るはずのない別の登場人物が、ヒュッとフレームインしてくることですが、そういう、いま撮っているものとその外側にあるものとの関係に、僕はいつも興味があるからなんでしょうね。よくやるんですよね。ストーリーとしてはちょっと苦しすぎない?、と言われても、いや、映画でやったら面白いからって。》
中原昌也が、黒沢清の『復讐』シリーズを評した文章のなかで、「自分にとって現実というのは不意に思ってもみなかった冷や水をぶっかけられるといったような経験の連続である。黒沢清の映画がそうであるように」というような意味のことを書いていたことがあった(例によってうろ覚えだが)。
黒沢清の撮る画面には、些細な描写のなかに、そこに映っている人や物の「その外側にあるもの」に通じていく、不安であり解放であるような契機が織り込まれている。
例えば黒沢清の撮るホラーにおいては、その「不安であり解放であるような契機」は、幽霊や化物や狂気の殺人者として形象化されている。
黒沢清の映画を観る、というのは、こうした「外側にあるもの」と遭遇する稀有の(まさしく「映画的」な)体験をするということなのだ。
もちろん、例えば『ニンゲン合格』や『アカルイミライ』といった、ホラー以外の作品においても、黒沢清が「いま撮っているものとその外側にあるものとの関係」に意識的でありつづけているのはいうまでもない。
そこでは、ホラーにおいて形象化された「不安であり解放であるような契機」は、より暗示的な、例えば登場人物の配置やその動き、奇妙な角度から差し込む光、不意に吹いてくる風、などによって表現されている。

午後、中谷美紀『インド旅行記 1 北インド編』(幻冬舎文庫)を読む。
中谷美紀は、インドという国に対しても、自分自身に対しても、強すぎる思い入れはなく、過度に構えたところのない、バランスのいいスタンスを、つねに保っている。文章にも嘘やけれんみがない。読んでいて、気持ちがいい。
旅行中知合った、アメリカ人精神分析医の女性とのやりとりのくだり。
《「私は正直言って信じてないし、彼らの言う輪廻転生もあり得ないと思うわ。万に一つ輪廻転生が存在したとしても、今この人生を楽しみたいわ。でも精神分析医としては、彼らの祈りの習慣が大脳に刻み込まれて太い回路を作っていく過程には、とても興味があったわ」
それは、私がこの国へ来て以来ずっと考えていたことに少し似ていて、祈りのもたらすものは、神の実在不在にかかわらず、人間の大脳レベルでポジティブな回路を作るにはとても有益だということだった。人々が目に見えない神の代わりに偶像を崇拝することについても、わかりやすい形での象徴が人々には必要なのだということがようやくわかるようになった。
まあ、宗教なんて、人間が築きあげたものだから、いずれの宗教も正しき道を指し示しているのだろうし、その反面、いずれの宗教も欠陥や矛盾を抱えていると思う。それでも、信じることで人が幸せになれるなら大いに活用すべきだと思うし、その選択は個人の自由だと思う。》


夕方、仕事で人と会い、家に帰ったのは9時前になった。<ほぼ日ストア>から『吉本隆明 五十度の講演』が届いていた。

夜、DVDで是枝裕和監督『誰も知らない』を観る。是枝監督のドキュメント風の演出で捉えられた、子供たちの遊んでいる何気ない姿に、ふと強いノスタルジアを覚える瞬間が何度かあった。
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by daiouika1967 | 2008-08-15 10:54 | 日記  

4月30日(水) 晴

世間はゴールデンウィーク真っ只中。おれはこのところほとんど働いていないので長期の休みだからといってべつになんのありがたみもない。今日もいつものように家を出て、街を散歩して、音楽を聴き、本を読んで時間をつぶした。

10時前に家を出て、駅裏の喫茶店でモーニングを食べながら、小泉文夫著作集選5『音の中の文化 対談集』(学習研究社)を読んだ。音楽人類学者小泉文夫の対談集。対談相手は、芥川寸志、小室等、YMOの3人、杉浦康平・佐藤信、山崎朋子、吾妻徳穂・野村万作、のところまで、130ページ程読み進んだ。

昼過ぎ、<ジュンク堂>へ。昨日柳下毅一郎のブログで発売されていることを知った黒沢清の対談集第二弾『恐怖の対談 映画のもっとこわい話』(青土社)を買いに行った。近くの喫茶店に入り、さっそく読み始める。対談相手は、高橋洋・鶴田法男、斉藤環、手塚眞、中原昌也、柳下毅一郎、青山真治、テオ・アンゲロプロス、サエキけんぞう、蓮見重彦、伊藤潤二。喫茶店を移動しつつ、一気に読みきってしまった。

黒沢清「物語を考えていくといつも、ある個人と世界というものが対立するんですよ。世界の中で個人が滅びるか、彼なり彼女なりを生かそうとすると犠牲になるのは世界だ、と。世界というのも漠然としていますが、個人への復讐が果たせた、あるいは愛のドラマが成就したといった物語をどんどん突き詰めると、それだけじゃ終わらないだろ、その先どうなるって考えると、個人と世界とが拮抗してくるわけです。するとコイツを殺してしまうか、生かすんだったら世界が滅びるしかないだろう、となってしまう」。

ここで黒沢清が語っていることは、個人と世界とはけっして相容れない、ということにほかならない。
個人は、ふだん、世界と無理に折り合いをつけながら、際どく自らの生を養っている。
しかし、いったん物語が動き始めると、根源的には個人は世界に対抗するようにしか存立しえないのだ、という実相が露呈してしまうのである。
黒沢清の映画には、つねに、個人と世界とが拮抗する緊張感が漲っている。

黒沢清「ハッピーエンドってどういうこと?って考えると、一番簡単でよくあるのって、『色々起こったけど、結局元に戻りました』ってやつでしょ?『回路』だって最後は夢だったとすれば、『ああ、よかった』っていうハッピーエンドになるかもしれない(笑)。でもそれは僕にとってはハッピーエンドって思えないんですよ。真のハッピーエンドは『二度と元には戻らないけれど、新しい何かに向かっていく』ということでしょう?ただ、全人類敵に回したりするとね、どうも誰もハッピーエンドって言わない」。

主人公が何らかの救いを得て終わる物語が“ハッピーエンドストーリー”だとするなら、個人と世界が拮抗して存在するしかない黒沢清の世界のなかでのそれは、世界がある決定的な変容を被ってしまうこと(時それは「世界が滅びる」「全人類を敵に回す」という事態になる)を通してしか実現しえないだろう。

黒沢清「ゾッとする、広い意味で『怖い』ということなのでしょうけれども、それは本当にささいなこととか、なんてことはない描写で表現できるのです。と同時にそれは、緊張を伴う、ぎょっと心に突き刺さる瞬間なのですが、もちろんストーリーとか美術、それから音、俳優だとかいったものが全部合わさって、ある時急に表現されてしまう。ただ、やはりそこには、作者がどこかでこだわっているアナーキーな部分というか、反社会的なものを擁護しようとする姿勢が必要不可欠なのだと思います。それがないものは、ただその瞬間観客を驚かせているだけで、観終わったあといつまでも記憶に残ったりはしません。まがまがしいものをドカンと出して客の目をそむけさせるのではなくて、じっと見ているうちに画面のいたるところからまがまがしいものが立ち上がってきて、もう目が離せなくなると言うか、まあ実際にやるのはたいへんなんですけども」。

今日は月末。いくつかのサイトの更新作業をしなければならない。夕方4時頃から、夜中の12時頃まで、パソコンの前で仕事にかかりきった。
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by daiouika1967 | 2008-05-02 02:50 | 日記  

3月12日(水) 晴

9時過ぎ、起床。今日は10時から美容院を予約している。卵かけご飯とインスタント味噌汁、サラダの朝食を取り、シャワーを浴びて、歯を磨き、家を出た。
美容院は歩いて10分くらいの距離。今週になってから一気に暖かくなった。今日も春めいたいい陽気。
美容院に来るのは2ヶ月ぶりくらいか。ぼさっと伸びた髪の毛を短く刈ってもらい、ヘッドスパをやってもらった。カレーの匂いのするオイルを頭髪にまぶし、撫でるようにやさしく揉み解してくれる。施術してくれた美容師の女の子がとても可愛い子だったので、なんだか得したような気分になった。

いったん家に戻り、鞄を持って、12時前にふたたび家を出た。名駅の喫茶店を何軒かハシゴして、内田樹『女は何を欲望するか?』(角川新書)を読んだ。単行本の新書化だが、大幅に加筆修正が施してあるらしい。内田樹の著作は8割方読んでいるのだが、これは読んでいなかった。フェミニズム批判の書である。
「批判」であって、「否定」ではない。むしろ、内田樹は、一部のフェミニストたちの、卓越した知性によってオルタナティブな関係性の可能性を志向した、そのこと自体については、共感と敬意を抱いているように思われる。この本は、しかしやはりフェミニズムには「理論的瑕疵」があると論じ、「どうしてこのような理論的瑕疵が知的に卓越したフェミニストたちによってさえ組織的に看過されたのかという『フェミニスト・ブラインドネス』の問題」に照準を合わせている。そのようなフェミニズム批判の書である。

フェミニストは、しばしば、私たちは自分たちの言葉(女の言葉)を持っていない、他者の言葉(男の言葉)しか与えられていない、だから、他者の言葉(男の言葉)で思考し、発話しなければならない私たちは、つねに疎外されている、と語る。しかし、内田樹はそうしたフェミニストの主張に、「他者の言葉しか与えられていない」というのは、「女であるから」ではない、それは男女問わず人間に普遍的な事況なのであると反駁する。
「『私』が『私の外』へ出て振り返りつつ、『ああ、あれこそ私だ』と確信するとき、そう確信している『私』と、その確信を基礎づけた『あれ』と遠称で呼ばれる『私』のあいだには、あきらかに超えることのできない乖離が存在する。そして、人間は実際には、この乖離につねに苦しめられることになるのである。
このような人間のあり方をラカンは『根源的疎外』と名づけた。『根源的疎外』とは、人間は自分がほんとうに考え、感じていることを決して言葉にすることができないという宿命的な事況のことである。
私たちは言葉を使って自分の『内面』や『心』や『思い』を語ろうとする。だが、経験的に熟知されているように、その言葉はつねに『言い過ぎる』か『言い足りない』かどちらかであって、私の『言ったこと』と私に『言おうとしたこと』が過不足なく合致するとうことは決して起こらない」。
フェミニストが「男の言語」と名指したそれは、じっさいには「中性の言語」であるにすぎない。そして、「中性の言語」は、女にとってだけでなく男にとってもまた「他者の言語」なのである。言語は、人間にとって、つねに「他者の言語」として存在するのだ。だから、フェミストは、「私たちの言語」=「女の言語」を創造しなければならない、と唱えるが、人間が「私たちの言語」などというものを手にすることは、決して起こりえないのである。
つまり、フェミニストが「男(社会)のせい」だとする自分の疎外状況は、じつのところ、(自分が)「人間であるせい」でしかない。
となれば、フェミニストが攻撃を向ける対象は、「男(社会)」ではなく、「人間の在りよう」ということになるのではないか。
しかしそうなれば、それはもはやフェミニズムの枠組みには収まらなくなるだろう。
フェミニズムは、そこで、批判的に乗り越えられなくてはならない。

フェミニズムには、「単一の原理」に対抗するために、世界に「複数の視点」を導入する、という含みがある。
内田樹は、テクストの読みについて、そこに働く「政治的」な力について、こんなふうに語っている。
「読み手は、個人的な『懇請』に駆動されて読む。それは言い換えれば、都市に街路に生産に教育に、あるいはおのれ自身の欲望に語法に介入されつつ読むということである。完全に無垢で、透明な読み手というようなものは存在しないし、仮に存在してもそのような読み手はテクストを一字として読むことができないだろう。『リテラシー』とは読み手の経験のことであり、実人生のことであり、『汚れ』のことだからである。
私たちが(フェルマンとともに)照準しようとしているのは、ある読み手のリテラシーにはどのような状況的与件がどのような仕方で関与しているか、という政治の問題である。
レヴィナスはそこに『イデア中心主義』を検出し、バルトは『ヨーロッパ中心主義』を検出し、フェルマンは『女性嫌悪』を検出する。それぞれの分析はそれぞれに説得力がある。そういう場合のいちばん常識的な対応は、たぶんそういったものは全部私たちの読みに関与していると考えることだろう。
さまざまな要素が私たちのリテラシー(先ほども言ったようにそれは『汚れ』のことだ)の形成に参与している。人種、性差、階級、信仰、政治的立場、国籍、職業、年収、知能程度、家庭環境、病歴、性的嗜癖……などなどさまざまなファクターが私たちの読みには関与している。そのうちの一つだけが決定的なファクターであり、あとは論ずるに足りないと言い切るためには、かなりの傲慢さと鈍感さが必要であろう。
複数のイデオロギー的バイアスが読みには加圧されており、そのバイアス圧の強弱や濃淡の布置は一人ひとり違う。私はそのように考える。
しかし、そう考えることはフェミニストには許されない。私の考えを認めると、『すべての人はそれぞれ固有の仕方で(言い換えれば、それぞれ固有のイデオロギー的バイアスの下で)テクストを読む』ということになり、『女性だけが固有の仕方でテクストを読むことを許されていない』という議論の前提が崩れてしまうからである」。

3時頃、読み終え、次に古井由吉『ロベルト・ムージル』(岩波書店)に取りかかる。栄から名駅まで喫茶店をハシゴしつつ、6時前までに、130ページ読み進んだ。
夕方、ビックカメラに寄り、黒沢清監督『cure』のDVDを買った。前にVHSで持っていたのだが、DVDで買いなおした。ポイントが溜まっていたので、支払いはなしですんだ。
7時、帰宅。夕飯はレトルトのカレー、サラダ。食後にカステラを4切れ。10時まで、テレビを点けて、パソコンの前で仕事をし、10時から『cure』を観た。
今日は、Pがやたらと鳴声を上げる。ヒモを振ってじゃらしたりしながら宥めてやったが、なんだか終始目つきが落ち着かない。何かに興奮しているようだった。
1時過ぎ、就寝。
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by daiouika1967 | 2008-03-13 12:23 | 日記  

3月8日(土) 晴

10時過ぎ、起床。朝食のパンを齧りながら、パソコンの前で、日記をつけ、周回サイトをまわって、11時過ぎに家を出た。
伏見まで歩く。伏見のカフェ・ド・クリエで紅茶を飲みながら、大庭萱朗編『田中小実昌エッセイ・コレクション1 ―ひと』(ちくま文庫)の続きを読んだ。2時間で読了。
1時半、東別院まで歩き、K君の事務所へ向かう。1時間、打ち合わせ。帰りに東別院のブックオフに寄った。ここのブックオフは、以前何度か行ったことがあるのだが、ロクな出物がない。だが、何ヶ月か前に行ったとき、黒沢清監督『回路』があるのを見つけ、その時は買わなかったのだが、まだあるかな?と思い寄ってみたら、やはりまだ残っていた。『回路』のDVDは以前持っていたのだが、人に貸してそのままになってしまっている。もう付き合いのない女に貸したものなので、待っていても戻ってこないだろう。買いなおすことにする。ついでに、なぜか買い逃していた町田康『猫にかまけて』(講談社)、藤沢周『第二列の男』(作品社)を買った。
東別院から、上前津を経由して、鶴舞まで歩いた。その道すがら、何件かの古本屋に入ったが、けっきょく何も買わなかった。鶴舞からJRで名古屋駅へ。妻から「サラダだけ買ってきて」とメールが入ったので、高島屋のデパ地下でローストビーフサラダを300g買って帰った。
今日はよく歩いた。午後の数時間をずっと歩いていた。家に着いて、万歩計の歩数を見ると、16548歩。10kmくらい歩いた計算になる。
妻が友だちとランチに行って、帰りに、リゾットのようなものと、ローストビーフを買ってきていた。おれのサラダもローストビーフサラダ。ローストビーフなんて普段滅多に食べないのに、なぜか重なるのが不思議。
夕食を食べ終え、『回路』を見返した。Pをじゃらして遊び、12時過ぎ、就寝した。
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by daiouika1967 | 2008-03-09 12:01 | 日記