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2月25日 曇のち晴

9時過ぎ起床。朝食に玄米、納豆、味噌汁。10時半、家を出る。喫茶店で、小林敏彦『ニュース英語パワーボキャビル+3000語』(語研)、一冊通し。2時間。
ジュンク堂に行き、高橋源一郎『大人にはわからない日本文学史』(岩波書店)、みうらじゅん『みうらじゅん対談集 正論』(コアマガジン)を買う。
午後、高橋源一郎『大人にはわからない日本文学史』(岩波書店)を読む。204ページ読了。次いでみうらじゅん『みうらじゅん対談集 正論』(コアマガジン)を読み始める。210ページまで読み進む。読みながら、ドトールでクリームパン1個食べる。腹は減っているのに、食べたいものがない。
夕方、小林敏彦『ニュース英語パワーボキャビル4000語』(語研)、unit23からunit48。1時間半。
夕食は解答した「健康惣菜」三種、玄米。夜、パソコンの前ですこし仕事をしてから、三日ぶりくらいに風呂に入る。気持ちよかった。夜中に小腹が減って妻がうどんを茹でる。美味しかった。

高橋源一郎『大人にはわからない日本文学史』(岩波書店)
-「映画を見る時、わたしたちは、その長方形の画面の隅々まで見ているわけではありません。そこでは物語がすでに進行していて、わたしたちは、よほどのことがない限り、役者の顔を見たり、彼の手の動き見たりする程度です。しかし、それでも、なにが起こっているのか、わからなくなることはないのです。この映画を見ているような見方、それこそ、自然主義的リアリズムというものの本質ではないかとわたしは考えています。
つまり、リアリズムとは、「目に見えるように」表現するということです。それ故、ことばや文字によって表現されたものであるにもかかわらず、まるで映画を見るような視線で目の前のことばを眺めるといったことが起こります。それを不自然と思わないのは、わたしたち自身が、要するに、自然主義リアリズムで書かれたものしか読んだことがないからです。
けれども、かつてはもっとさまざまな書き方が存在していました。そう思って『にごりえ』(樋口一葉)を読んでください。
『おい木村さん信さん寄つてお出よ、お寄りといつたら寄つて宜いではないか、又素通りで二葉やへ行く気だらう、押しかけて行つて引きずつて来るからさう思ひな、ほんとにお湯なら帰りに屹度よつてお呉れよ』
この文章を前にして、わたしたちは、どう読めばいいのでしょう。わたしたちは、ここに書かれた文字を一つ一つたどりながら読むしかないのです。言い換えるなら、自然主義的リアリズムで書かれた作品を読む時のように、少し離れて全体の輪郭を読むというやり方は、不可能になるのです。この小説を読んで、リズムがある、力がある、よくわからないのに引きつけられると思うのは、わたしたちがこの小説を、自然主義的リアリズムの作品を読むようには読んでいないからではないでしょうか。つまりこの作品は、まず何より、わたしたちに読みの変更を迫るのです。」(P20)
-「影山民夫という作家が生きていた頃、彼はよく、わたしを見て、わたしの背後に、お坊さんがいる、それはきみの背後霊だよといっていました。わたしはわざと振り返って、影山民夫に、そんなものいないよというと、影山民夫は、きみには見えないんだよ、と悲しそうにいったのです。それからしばらくして、影山民夫は、自宅の机の前で、原因不明の「発火」で死亡しました。もしかしたら、それは、彼が、わたしには見えないものを見たこととなにか関係があるかもしれない。いや、わたしは冗談をいっているのではありません。あなたと植物学者が並んで、山を歩いたら、目に映るものは同じでも、まったく異なったものが見えるはずです。競馬をぜんぜん知らない人間が競馬場に出かけても、そこは、三十分置きに次々とかけっこをする広い場所でしかないのに、わたしにとっては、何時間も複雑な思索を要求する場なのです。
自然主義的リアリズムは、そこにあるものをどれだけくっきり写しとることができるかということに関して、これまで人間が発明したもっとも完璧な技術であるといっても過言ではありません。そのために、確かに多くのものが犠牲になりました。たとえば、それは「リアル」であり、、「現実」であったのです。」(P28)
-「ところで、みなさんは、小説と詩の違いはどこにあると思われるでしょうか。わたしは、きわめて単純に考えています。つまり、小説は目的地に向かってまっすぐに進むものであるのに対して、詩は、時には目的地を忘れても、目前のことばというものの、比喩的にいうなら、その角を曲がっていくものではないかと。
詩の本質と考えられるものの一つに、「改行」があります。「改行」というものは、なぜ存在するのでしょうか。私人に聞いてもはっきりとは答えてくれません。わたしの考えでは、詩人が改行するのは、その行のところでことばの角を曲がるからです。一つの行を書く、ある場所に到達する。その時、小説家はただ早く目的地に着くことだけを考えます。それに対して、詩人は角に来たら曲がりたくなる性質を持っています。ここを曲がったら、自分の知らないなにかがあるのではないかと思って、角を曲がるのです。角を曲がるとまた角がある。小説家なら角ではなくメインストリートをまっすぐ歩いていきたいと思うでしょう。しかし詩人はその角の向こうにある、隠されているなにかが気になってしょうがない存在なのかもしれません。
近代文学という名の下に分類される通常の小説では、目的地に向かってまっすぐ進む小説が優れているものだと考えられてきました。「私は寂しい」……そう思うならそう書く。そして寂しい「私:は、どう行動するのか、どのようにそれを解決するのか。そのことを小説に書こうとしてきたのです。
「角」を何度も曲がるような、ことばをことばで形容していくような、主人公は動かず、形容詞を重ねていくような語法は、古くさいやり方であると考えられてきました。ちょうど尾崎紅葉が漱石や藤村たちによって修飾過多の文章だと否定されたように。あるいは漱石自身が『虞美人草』のような小説を一度書き、二度と書かなかったことに示されるように。」(P50)
-「そのような、無意味に近いものを思い起こすこと、なぜ、そんなことが小説の中に書かれなければならないのでしょう。それは、この作者が、この百年の間に流通してきた、さまざまな問いと答え、あたかも本質的であるかの如く見える、問いと答えのペア、諍いや闘争、そういったものに対して、深い生理的嫌悪感を持っているからではないでしょうか。この小説は、あくまでも禁欲的に、ほとんど身動きしない主人公が、ただ体を伸ばしたり縮めたりしながら、時にパソコンの画面を見る、ただそれだけの描写で成り立っています。
しかし、なにより重要なのは、主人公が極端に内向的であり、自閉的であり、自分の内側しか見ないではないか、などといった批判を、この小説に向けることができないということです。なぜなら、この主人公は、そもそも、自分の内側を見つめるという習慣を持たないからです。そして、彼女の思いは、遠くにいる夫に向かっています。
思えば、そもそも、他者を理解するなどということがほんとうに可能なのでしょうか?
近代文学は、「『私』の獲得」というモードに達した時、ある意味で「私」を自明の前提としました。そして、描写すべき他者とは、もう一人の「私」に過ぎないと思ったのです。自然主義的リアリズム、あるいはその素朴な応用としての私小説の中に、本質的な他者は存在しません。ただ、「私に似た他人」がいるだけで、それ故に「私」とその「私に似た他人」は―理解できるはずなのに、と考えながら―いら立ち合い、ことばをぶつけあうのです。」(P123)
―「わたしは、穂村弘の『短歌の友人』の考えを借りて、小説の歴史と短歌の歴史はパラレルではないかと考えてみることにしました。「『私』の獲得」から「モノ化した言葉」へ、そして「玩具としての言葉」を経て、ただ、目の前の現実を、呆然として見るしかない、とりたてて感想もなく、直視するしかない、穂村弘の用語を借りるなら、「棒立ちの私」とでもいうしかない「私」が発する、極度に単純なことばへ、という移り行きが、ふたつのジャンルで平行して起こったのです。」(P133)
―「荒々しいもの、とげとげしいもの、大げさなもの、理屈っぽいもの、そういったことばすべて「僕」は拒みたいと思います。たとえば、なぜ働くのか。それは、働くことが、この社会で生きるために、社会との間で締結しなければならない契約だからです。しかし「僕」は、社会との契約を信じる事ができません。「僕」は、働くのがおっくうで働かないのではなく、「働く」という「契約」に唯々諾々と従うことができないだけなのです。夢や希望について考えようとしないのは、「夢」や「希望」ということばが、あまりに使われすぎているということを、無意識のうちに考えてしまうからです。
だから、「僕」は、ことばから離れ、ことばのない世界に自分の立ち位置を定めようとします。」(P144)
-「自分が、自分も使っているそのことばを生み出した共同体に所属していないという感覚。それは、この世界の歴史に自分は参加していない、という感覚につながっています。あるいは歴史というものがなにかなのかを、そもそも知らないという感覚に。」(P200)

by daiouika1967 | 2009-02-26 20:46 | 日記  

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