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3月21日 晴

穏かに晴れた暖かい一日。街には人が溢れている。ぶらぶら歩いているだけで気持ちがいい。おれは気候に関係なく、凍えそうな冬の日も、うだるような夏の日も、いつも街中を歩いているが。今日は1万6千歩歩いた。

ジュンク堂で、吉本隆明『柳田国男論・丸山真男論』(ちくま学芸文庫)を買う。このところ眠る前にベッドで読む本が(眠くなって布団に入るのだが、布団が冷たくて一瞬目が覚めるのだ。またすぐに眠たくなるのだが、それまで十数分、枕元に置いてある本をパラパラと読むのである)、『柳田国男対談集』(筑間選書)。読んでいると、対談相手のインテリ、文学者の発言は、やはり「時代がかっている」というか、どうしようもなく古びてしまっている感が否めないのだが、柳田国男の語る言葉だけは、生き生きとしたアクチュアリティを失っていない。柳田国男の知の射程の長さ、その思索の深さを改めて実感していたところで、吉本の柳田論を改めて読みたくなったのだった。
吉本の柳田論は、以前に一度読んでいるはずなのだが、そのときは、栗本慎一郎による『共同幻想論』の読みを経由して、なんとか理解したような気になっていただけで、吉本のテキストそのものを味読するには至っていなかったように思う。その頃は、柳田国男の著作も『遠野物語』一冊を読んだきりで、『遠野物語』には“震撼”といっていいような感動を覚えたものの、柳田国男の知の射程を正確に捉えるには至っていなかった。

―「柳田国男の文体は、いわば<流れる>文体である。ふつうの意味でいえば、任意の場所から、いつでも思い立ったときにとびだして、触れるべき事柄にはかならずふれながら、停滞することなく<流れ>さるための文体だといってよい。もうすこし、その事柄についてじっくりと説いてもらいたいとおもっても叶わない。また逆にさり気なく<流され>た一行に、膨大な資料とその考察の蓄積が隠されていて、ひとつの書物が成立しそうなことが、その一行に濃縮されているばあいもある。ひとつの言説に起点があり、承ける場面あり、転換の変容があり、結末があって構成されるとすれば、柳田の文体ははじめからこんな意味の構成を拒んでいる。いてtみれば中間が連続するというわが習俗の原理を記述するのに、じぶんの文体そのものをその原理と化している。なだらかな形のよい山の稜線に沿って昇ってゆき、頂まで昇りつめると、ひとりでにまたなだらかな稜線を降りてきて、麓のところで平地に接続される。たしかに起点があったし、頂きもあったはずなのに、なだからかな曲線をたどっているだけで、どこにも渋滞も結節もない。」(P220)

いっしょに、デニス・ジョンソン『ジーザス・サン』(柴田元幸訳 白水社)も買う。

夕方、GEOでDVDを4本借りて、ついでに隣のブックオフに寄ると、今日一日だけの活字本半額セールがやっていた。マルティン・ハイデガー『ニーチェ』Ⅰ、Ⅱ(細谷貞雄監訳 杉田泰一・輪田稔訳 平凡社ライブラリー)があったので、即手に取る。2冊で3千円が、800円になっていた。さらに江藤淳『荷風散策 ―紅茶のあとさき』(新潮文庫)、リン・ディン『血液と石鹸』(柴田元幸訳 早川書房)、ジュンパ・ラヒリ『停電の夜に』『その名にちなんで』(小川高義訳 新潮クレストブックス)も買う。すべて合わせて2500円。安い。

夜、DVDで『ライラの冒険 黄金の羅針盤』を観る。半分寝ながらだったので、どういうストーリーだったかよく覚えていない。

by daiouika1967 | 2009-03-22 20:08 | 日記  

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