5月18日(水) 晴
今日は終日パソコンのディスプレイに向かって仕事をした。ウェブサイトのワイヤーフレームをつくる仕事とウェブ解析のレポートフォーマットをつくる仕事。仕事は、さらさらと進むときもあれば、もっさりと滞ることもある。今日は、頭のキレが悪く、あまりはかどらなかった。それでも余裕がないので、あるところまでは無理に進めなければならない。だましだまし、何とか形をつける。消耗した。
頭のキレが悪い、というのは、頭が働かないのではなく、思考がとりとめなく拡散していく状態で、無理にアウトプットしようとすると、その拡散していく力に逆らってフォームに定着しなければならず、それがとてもストレスフルなのだ。
ぐったりして、夜。しばしばする目を凝らして、宇野邦一・堀千晶・芳川泰久編『ドゥルーズ 千の文学』(せりか書房)を読む。
ドゥルーズがその哲学を展開するなかで交錯した文学者たちを取り上げ、それぞれの論者が、ドゥルーズとその文学者たちの交点をめぐって論じている。
350ページ程読み進む。アルトー、ウルフ、ウルフソン、カネッティ、カフカ、キャロル、クライスト、クロソフスキー、ゴンブロヴィッチ、ジェイムズ、ジャリ、シュオブ、ジュネ、ゾラ、ドゥルニエ、ド・クインシー、バタイユ、バトラー、バルザック、バルト、フィッツジェラルド、ブスケ、ブランショ、プルースト、ペギー、ベケット、ペソア。疲れているとき、ドゥルーズ(や、ドゥルーズをめぐって書かれたテクスト)を読むと、それで疲れが癒えるわけではないが、「自分が疲れていることなどどうでもいい」という心持になる。
≪出来事とか、此性ってやつですね。この夏のこの暑さはどんな暑さとも比べられないという、その暑さ。それもやはり一般性ではないということです。それは分子的知覚、知覚しがたいものの知覚ということにもつながります。≫(宇野邦一)
≪思考はまだ存在しない。これから生み出すべき何か(生殖性)であり、ただ誤謬、逸脱、無能、崩壊を通じて出現する何かである。そう考えるとき、「幼虫」という言葉は確かに切迫した意味をもつ。すべての思考は、思考の幼虫にすぎず、完成も熟達もなく、生まれようとする途上の思考にすぎない。この幼虫は、いわば卵であり、手も足もなく、器官をもたない。概念も、意味も、文法も、体系も、形式も知らない。この思考には「イメージ」がない。しかし決して「のっぺらぼう」でもはなく、この幼生には、おびただしい差異の感覚が内包されている。≫(宇野邦一)
≪系列というのは、ある語の意味を述べるために、その語にさらにべつの語を接続させてゆくという操作の繰り返し(反復)によって構成される、なんらかの記号表現の連鎖です。ですから、系列そのもののなかには意味はありません。系列とは、むしろ意味を伝えるために動員され、配備された、諸要素の集合です。もちろん、なんらかの意味をもとめてそれらの要素はあつめられたわけですから、まったく無意味なはずはありません。系列を構成する諸要素は、ある意味がそこにひそんでいるということをほのめかすサイン(記号、徴候)をはなちます。視点を変えれば、意味は、それらの諸要素をあつめ、配備し、整序する動作主のなかに、そもそも準備されているとも言えます。さもなければそれらの諸要素をあつめたりしないからです。
この動作主を、精神分析なら「主体」を呼ぶでしょう。言いかえれば、意味とは、意識に浮上してこない、主体の無意識に抑圧された欲望ということになります。意味があらかじめ意識されていれば、このような系列をつくる必要はありませんが、じぶんの欲望がなんであるのかわからないので、主体は試行錯誤と暗中模索をくりかえしながら、この欲望または意味を、ほとんどつくりだすのとかわらないやりかたで、みつけようとするのです。≫(松下潤一郎)
≪いかにして意味または出来事は発生するのでしょうか。共鳴です。二つまたはそれ以上のたがいに異質な諸系列が、ある意味のサインをさまざまなしかたではなちながら、共鳴関係にはいってゆくと、そこに、動作主がなしとげるべき出来事の、「暗き先触れ」が出現します。
ドゥルーズは「暗き先触れ」を、雷を例に挙げて説明しています。「雷は、あい異なる強度のあいだで炸裂するのだが、ただしその雷の現れる前に、見えない、感じられない暗き先触れが先行しており、これがあらかじめ、雷の走るべき反転した道筋を、まるでくぼみの状態で示すように決定するのである。≫(松下潤一郎)
≪あらゆる徴候は、自信の外部に意味されるものや指示されるものをもつのだから、そこでは直接性は失われ、すえbてが関節的な推察、徴候から出発しての解釈になる。目の前に見えているもの自体はいつでも、別の何かのメタファーであり、その別の何かもまたすでに別の何かのメタファーであって、ひとつの徴候は、また別の徴候へとつぎからつぎへと送りかえされるのである。≫(堀千晶)
≪徴候が何かを代理して表現することがなくなるのと同時に、今度は徴候の方が、自分に名を与えることも、自分に意味を与えることもできなくなる。そうしてもっとも凡庸で馴染み深いものでさえ、特異で奇怪なおのれの姿、何か別のもので代理させることのできない特異な奇態を曝すだろう。このとき言葉は何も意味しない単なる響きや線や動きとして、顔は人格も性格も表現しないざらつく穴のあいた表面として、身振りは身体のたんなる歪みとしてあらわれるし、最終的には、すべてが「何」とも名指しえないもの、割り当てるべき属性・特性のないものとしてその場に居座り、滞留するのだ(こうした言い方でも、おそらく意味を与えすぎになってしまう……)。≫(堀千晶)
≪ドゥルーズは「唯一の抽象的動物」がいるだけで、すべては存立平面上での速度の問題だと言うのだ。脊椎動物でも、十分に早く身体を折り曲げれば、それだけ早く背中の要素が接合され、骨盤と首とが接近して手足が身体の一方の端に集まり、こうして「タコ」や「イカ」という頭足目(無脊椎動物)ができあがる。成長や発達など、受精さえも、生物のあらゆる現象を、存立平面上の速度の問題として見る視線の力こそ、ジョフロワの天才の由縁である。そしてバルザックは、『人間喜劇』の「総序」で二人の論争に触れ、ジョフロワの「(器官)構成の統一性」に触れた直後、「動物はただ一つしか存在しない」と言い放つのだ。これは、ほとんど注目されてこなかったが、ドゥルーズと同じ理解の上にバルザックが立っていることを物語っている。あらゆる人間がいるように見える『人間喜劇』の世界にいるのは、「ただ一つしか存在しない」動物なのだ。これを、ドゥルーズが「唯一の抽象的動物」と言ったのだ。≫(芳川泰久)
≪人生が人生に到来するものの多様性にかかわらず<唯一の同じ出来事>で創作されていること、唯一の同じ裂け目が人生を横切っていること、人生が、あらゆる可能な歌詞で、あらゆる可能な旋法で、唯一の同じ曲を演奏していること≫(大山戴吉)
≪ドゥルーズによれば、アルコール飲みが求めているのは快楽ではなく、ある効果である。それは現在を徹底的に硬化させることであり、これによって、いまの自分をとりまく状況から距離をとることができる。一方、硬化し外殻となった現在の内部では、柔らかい記憶たちが、柔軟になったすべての過去たちが包み込まれる。柔らかになった過去たちは、時間軸のシークエンスから離脱し浮遊しながら、硬直した現在においてすべてが同時にあるものとして締め付けられる。「アルコール飲みは、半過去や未来を生きるのではなく、複合過去しか持たないのである。……アルコール飲みは、酔いを材料にして、想像的な過去を複合する。まるで、柔らかな過去分詞が、固い助動詞現在形に結合しに来たかのように」。ここには、外殻のなかですべての過去を統括し、それらを幾度でも経験し直せるアルコール飲みの全能的な躁状態がある。≫(大山戴吉)
≪「私の傷は私より前に実在していた。私は傷を受肉するために生まれた」≫(森井良)
≪死とは「死ぬことをやめる」ことだという奇妙な言い回しの意味も、ここでは明らかだろう。生きることは死に続けることなのだから、一般に死と呼ばれているものは、「死ぬことをやめる」ことなのである。ここでドゥルーズ=ガタリは、死についての一般的な考えを逆転させている。一般的に死は、<私>の同一性が不可逆的に解体されてしまうこととしてイメージされるだろう。しかしドゥルーズ=ガタリは、逆に主体が<私>として固定されること、<私>を貫いているさまざまな強度がついに同一性に還元されることが死なのだと述べている。「あらゆる強度は、それ自身の生のなかで死の経験を営み、死の経験を内包している。そしておそらく、あらゆる強度は最後には消え、あらゆる生成はそれ自身、死への生成となる!こうして死は現実に到来する」。死の経験は生の強度のなかでたえず営まれている。この死の経験が消えてしまうことが、普通の意味での死なのである。≫(門間広明)
≪ベルクソンは、むしろ存在するものをすべてイメージと呼ぶことにした。そのような次元では、すべてがたえず作用し、反作用しあっていて、知覚も知覚の対象のようなものも出現しない。「ただ生成してはまた新しい生成の微粒子の中に崩れていく形態があるだけで、そこには愛も憎しみもなく、変化の原則など何も認められなかった。」と書いたベケットは、まぎれもなくベルクソン主義者だった。「ここで彼は不動だった。彼は沸き立つ線の中、たえまない無条件な線の発生と崩壊の中の一点にすぎなかった。」つまり無方向、無原則の運動の中では、不動と運動の区別に意味がなかった。運動を観察し、動きを確かめる定点もないからだ。≫(宇野邦一)
頭のキレが悪い、というのは、頭が働かないのではなく、思考がとりとめなく拡散していく状態で、無理にアウトプットしようとすると、その拡散していく力に逆らってフォームに定着しなければならず、それがとてもストレスフルなのだ。
ぐったりして、夜。しばしばする目を凝らして、宇野邦一・堀千晶・芳川泰久編『ドゥルーズ 千の文学』(せりか書房)を読む。
ドゥルーズがその哲学を展開するなかで交錯した文学者たちを取り上げ、それぞれの論者が、ドゥルーズとその文学者たちの交点をめぐって論じている。
350ページ程読み進む。アルトー、ウルフ、ウルフソン、カネッティ、カフカ、キャロル、クライスト、クロソフスキー、ゴンブロヴィッチ、ジェイムズ、ジャリ、シュオブ、ジュネ、ゾラ、ドゥルニエ、ド・クインシー、バタイユ、バトラー、バルザック、バルト、フィッツジェラルド、ブスケ、ブランショ、プルースト、ペギー、ベケット、ペソア。疲れているとき、ドゥルーズ(や、ドゥルーズをめぐって書かれたテクスト)を読むと、それで疲れが癒えるわけではないが、「自分が疲れていることなどどうでもいい」という心持になる。
≪出来事とか、此性ってやつですね。この夏のこの暑さはどんな暑さとも比べられないという、その暑さ。それもやはり一般性ではないということです。それは分子的知覚、知覚しがたいものの知覚ということにもつながります。≫(宇野邦一)
≪思考はまだ存在しない。これから生み出すべき何か(生殖性)であり、ただ誤謬、逸脱、無能、崩壊を通じて出現する何かである。そう考えるとき、「幼虫」という言葉は確かに切迫した意味をもつ。すべての思考は、思考の幼虫にすぎず、完成も熟達もなく、生まれようとする途上の思考にすぎない。この幼虫は、いわば卵であり、手も足もなく、器官をもたない。概念も、意味も、文法も、体系も、形式も知らない。この思考には「イメージ」がない。しかし決して「のっぺらぼう」でもはなく、この幼生には、おびただしい差異の感覚が内包されている。≫(宇野邦一)
≪系列というのは、ある語の意味を述べるために、その語にさらにべつの語を接続させてゆくという操作の繰り返し(反復)によって構成される、なんらかの記号表現の連鎖です。ですから、系列そのもののなかには意味はありません。系列とは、むしろ意味を伝えるために動員され、配備された、諸要素の集合です。もちろん、なんらかの意味をもとめてそれらの要素はあつめられたわけですから、まったく無意味なはずはありません。系列を構成する諸要素は、ある意味がそこにひそんでいるということをほのめかすサイン(記号、徴候)をはなちます。視点を変えれば、意味は、それらの諸要素をあつめ、配備し、整序する動作主のなかに、そもそも準備されているとも言えます。さもなければそれらの諸要素をあつめたりしないからです。
この動作主を、精神分析なら「主体」を呼ぶでしょう。言いかえれば、意味とは、意識に浮上してこない、主体の無意識に抑圧された欲望ということになります。意味があらかじめ意識されていれば、このような系列をつくる必要はありませんが、じぶんの欲望がなんであるのかわからないので、主体は試行錯誤と暗中模索をくりかえしながら、この欲望または意味を、ほとんどつくりだすのとかわらないやりかたで、みつけようとするのです。≫(松下潤一郎)
≪いかにして意味または出来事は発生するのでしょうか。共鳴です。二つまたはそれ以上のたがいに異質な諸系列が、ある意味のサインをさまざまなしかたではなちながら、共鳴関係にはいってゆくと、そこに、動作主がなしとげるべき出来事の、「暗き先触れ」が出現します。
ドゥルーズは「暗き先触れ」を、雷を例に挙げて説明しています。「雷は、あい異なる強度のあいだで炸裂するのだが、ただしその雷の現れる前に、見えない、感じられない暗き先触れが先行しており、これがあらかじめ、雷の走るべき反転した道筋を、まるでくぼみの状態で示すように決定するのである。≫(松下潤一郎)
≪あらゆる徴候は、自信の外部に意味されるものや指示されるものをもつのだから、そこでは直接性は失われ、すえbてが関節的な推察、徴候から出発しての解釈になる。目の前に見えているもの自体はいつでも、別の何かのメタファーであり、その別の何かもまたすでに別の何かのメタファーであって、ひとつの徴候は、また別の徴候へとつぎからつぎへと送りかえされるのである。≫(堀千晶)
≪徴候が何かを代理して表現することがなくなるのと同時に、今度は徴候の方が、自分に名を与えることも、自分に意味を与えることもできなくなる。そうしてもっとも凡庸で馴染み深いものでさえ、特異で奇怪なおのれの姿、何か別のもので代理させることのできない特異な奇態を曝すだろう。このとき言葉は何も意味しない単なる響きや線や動きとして、顔は人格も性格も表現しないざらつく穴のあいた表面として、身振りは身体のたんなる歪みとしてあらわれるし、最終的には、すべてが「何」とも名指しえないもの、割り当てるべき属性・特性のないものとしてその場に居座り、滞留するのだ(こうした言い方でも、おそらく意味を与えすぎになってしまう……)。≫(堀千晶)
≪ドゥルーズは「唯一の抽象的動物」がいるだけで、すべては存立平面上での速度の問題だと言うのだ。脊椎動物でも、十分に早く身体を折り曲げれば、それだけ早く背中の要素が接合され、骨盤と首とが接近して手足が身体の一方の端に集まり、こうして「タコ」や「イカ」という頭足目(無脊椎動物)ができあがる。成長や発達など、受精さえも、生物のあらゆる現象を、存立平面上の速度の問題として見る視線の力こそ、ジョフロワの天才の由縁である。そしてバルザックは、『人間喜劇』の「総序」で二人の論争に触れ、ジョフロワの「(器官)構成の統一性」に触れた直後、「動物はただ一つしか存在しない」と言い放つのだ。これは、ほとんど注目されてこなかったが、ドゥルーズと同じ理解の上にバルザックが立っていることを物語っている。あらゆる人間がいるように見える『人間喜劇』の世界にいるのは、「ただ一つしか存在しない」動物なのだ。これを、ドゥルーズが「唯一の抽象的動物」と言ったのだ。≫(芳川泰久)
≪人生が人生に到来するものの多様性にかかわらず<唯一の同じ出来事>で創作されていること、唯一の同じ裂け目が人生を横切っていること、人生が、あらゆる可能な歌詞で、あらゆる可能な旋法で、唯一の同じ曲を演奏していること≫(大山戴吉)
≪ドゥルーズによれば、アルコール飲みが求めているのは快楽ではなく、ある効果である。それは現在を徹底的に硬化させることであり、これによって、いまの自分をとりまく状況から距離をとることができる。一方、硬化し外殻となった現在の内部では、柔らかい記憶たちが、柔軟になったすべての過去たちが包み込まれる。柔らかになった過去たちは、時間軸のシークエンスから離脱し浮遊しながら、硬直した現在においてすべてが同時にあるものとして締め付けられる。「アルコール飲みは、半過去や未来を生きるのではなく、複合過去しか持たないのである。……アルコール飲みは、酔いを材料にして、想像的な過去を複合する。まるで、柔らかな過去分詞が、固い助動詞現在形に結合しに来たかのように」。ここには、外殻のなかですべての過去を統括し、それらを幾度でも経験し直せるアルコール飲みの全能的な躁状態がある。≫(大山戴吉)
≪「私の傷は私より前に実在していた。私は傷を受肉するために生まれた」≫(森井良)
≪死とは「死ぬことをやめる」ことだという奇妙な言い回しの意味も、ここでは明らかだろう。生きることは死に続けることなのだから、一般に死と呼ばれているものは、「死ぬことをやめる」ことなのである。ここでドゥルーズ=ガタリは、死についての一般的な考えを逆転させている。一般的に死は、<私>の同一性が不可逆的に解体されてしまうこととしてイメージされるだろう。しかしドゥルーズ=ガタリは、逆に主体が<私>として固定されること、<私>を貫いているさまざまな強度がついに同一性に還元されることが死なのだと述べている。「あらゆる強度は、それ自身の生のなかで死の経験を営み、死の経験を内包している。そしておそらく、あらゆる強度は最後には消え、あらゆる生成はそれ自身、死への生成となる!こうして死は現実に到来する」。死の経験は生の強度のなかでたえず営まれている。この死の経験が消えてしまうことが、普通の意味での死なのである。≫(門間広明)
≪ベルクソンは、むしろ存在するものをすべてイメージと呼ぶことにした。そのような次元では、すべてがたえず作用し、反作用しあっていて、知覚も知覚の対象のようなものも出現しない。「ただ生成してはまた新しい生成の微粒子の中に崩れていく形態があるだけで、そこには愛も憎しみもなく、変化の原則など何も認められなかった。」と書いたベケットは、まぎれもなくベルクソン主義者だった。「ここで彼は不動だった。彼は沸き立つ線の中、たえまない無条件な線の発生と崩壊の中の一点にすぎなかった。」つまり無方向、無原則の運動の中では、不動と運動の区別に意味がなかった。運動を観察し、動きを確かめる定点もないからだ。≫(宇野邦一)
by daiouika1967 | 2011-05-19 00:27 | 日記