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6月24日 (火) 晴

ひさしぶりに湿度の低い、爽やかな天気になった。

夏目漱石週間”、今日は、『門』を読んだ。
不幸で暗いラブストーリー。読み終えて反芻していると、なぜか、フィッシュマンズの「ベイビー・ブルー」が頭の中に流れてきた。
恋愛の行く末をそのまま辿っていけば、ふたりきりの閉じた世界に行き着く。雑然と賑やかな世間とは隔絶された、ふたりきりの寂しい、深い世界だ。

《宗助と御米とは仲の好い夫婦に違なかった。一所になってから今日まで六年ほどの長い月日をまだ半日も気不味く暮らした事はなかった。言逆いに顔を赤らめ合った試はなおなかった。二人は呉服屋の反物を買って着た。米屋から米を取って食った。けれどもその他には一般の社会に待つところの極めて少ない人間であった。彼らは、日常の必要品を供給する以上の意味において、社会の存在を殆ど認めていなかった。彼らに取って絶対に必要なものは御互だけで、その御互だけが、彼らにはまた充分であった。彼らは山の中にいる心を抱いて、都会に住んでいた。(中略)
御互が御互に飽きるの、物足りなくなるのという心は微塵も起こらなかったけれども、御互の頭に受け入れる生活の内容には、刺激に乏しい或物が潜んでいるような鈍い訴があった。それにもかかわらず、彼らが毎日同じ判を同じ胸に押して、長の月日を倦まず渡って来たのは、彼らが始から一般の社会に興味を失っていたためではなかった。社会の方で彼らを二人ぎりに切り詰めて、その二人に冷ややかな背を向けた結果に外ならなかった。外に向かって生長する余地を見出し得なかった二人は、内に向かって深く延び始めたのである。彼らの生活は広さを失うと同時に、深さを増して来た。彼らは六年の間世間に散漫な交渉を求めなかった代りに、同じ六年の歳月を挙げて、互の胸を掘り出した。彼らの命は、いつの間にか互の底にまで喰い入った。二人は世間から見れば依然として二人であった。けれども互からいえば、道義上切り離す事の出来ない一つの有機体になった。》


長谷川宏『ことばをめぐる哲学の冒険』(毎日新聞社)を読み始める。
各章に主題を掲げ、その主題をめぐる小説や哲学のことばが引かれ、その引用を解説するという形で主題が展開される。
第一章「愛」、第二章「誕生」を読んだ。

<三省堂>で、夏目漱石『それから』『三四郎』(岩波文庫)を買う。
<新星堂>で、レナ・マシャード『ハワイアン・ソングバード』、グールド『バッハ:ゴルドベルク変奏曲』、理非ター『バッハ:マタイ受難曲(抜粋)』を買う。

夜、DVDで、昨日に引き続き、三池崇監督作品、哀川翔主演の『太陽の傷』を観た。三池作品にありがちな派手なケレン味のない抑制の効いた演出で、CGもなく、ワンシーンワンカットでじっくり撮影されている。暴力は痛々しい。殺人は索漠とした苦味に満ちている。主人公が感じている抑えようのない怒りや不安といった不穏な感情が生々しく伝わってくる。最後の場面でしっかりカタルシスは用意されているのだが、見ている最中はとてもいやぁな気分にしてもらえる。

by daiouika1967 | 2008-06-25 19:54 | 日記  

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