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7月11日(金) 曇のち晴

夏目漱石週間”、今日は随筆集『思い出すことなど 他七篇』

<ジュンク堂>で、大友良英『MUSICS OTOMO』(岩波書店)をDVD付きだったので買う。夏目漱石『二百十日・野分』『坑夫』を新潮文庫で買う。“夏目漱石週間”、来週4週目でいったんきりがつきそうである。

大友良英『MUSIC OTOMO』(岩波書店)を読む。
以下、引用。

《音質や音のテクスチュアのようなものだけで、あるいは垂直な音だけで即興演奏が成立するというのは、どういうことなのだろう。これを考えるには、まずは音楽というものが、どのように聴かれ、どのように認識されるのかということを検討する必要がある。
たとえば、通常演奏するにあたって、出した音が音楽として成立するためには、その音が前後の連なりの中で、ある音楽的な意味を持つことが必要だ。やや乱暴な例だけれど、言語でいうと、話の前後の脈絡があってはじめて言葉の意味がわかってくるようなものだ。実は音楽も、音が前後の文脈の中である音楽的なボキャブラリーに組み込まれて理解されるのが普通だ。この場合、音楽は時間軸の中の並列的な音の並びを中心に認識されることになる。したがって、一音よりも、あるまとまったフレーズが認識されることが重要になったりする。
ところが、マルタンたちがやったのは、このあるまとまったフレーズが認識されることを徹底的に排除することだった。そのことによって、並列に並ぶ音から音楽を認識する聴取のしかたを断ち切ろうとした。結果的にわたしたちの耳にふれるのは、瞬間瞬間の音の質感、テクスチュアのようなもので、これを彼は垂直な音と呼んだのだ。
それは、例えば言語でいえば、ただ「ka」とだけ発音してみるようなもので、意味としてすぐに認識することは当然不可能になる。聞き手のほうは、相手の話につきあうのを放棄するか、あるいは、それがどういう意味なのかを一から考えなくてはならなくなる。
音楽の場合、フレーズとして認識されるような音を出さずに、ただある音を投げ出してみれば、聴き手のほうは、そこからフレーズなり、音楽的な文脈なりが読みとれない場合は、それを音楽として聴くことを放棄してしまうか、あるいは文脈の中で音楽を聴く方法とは別の聴取方法を探し出すしかなくなる。マルタンが意図したのは、まさにこのことなのだ。そえrはこれまでのどのタイプの音楽の文脈にも置きにくい、悪くいえばどこにもはまらない中途半端なものにすら聞こえなかねない代物だった。だが、そこで起こっていたのは中途半端どころか、確信に満ちた出来事だったのだ。》

《Sachiko Mがすごく頑固にサイン波しか出さないように、彼女(カヒミ・カリィ)もすごく頑固に小さな声しか出さないんです。ここで叫んでっていってもやらないような気がする。もちろんそんなこと頼んだことないけど。これしかできないではなく、これしかやらないっていう確固としたものと壊れやすいギリギリのなにかが同居した感じ。オエr、そういうタイプの音楽家が好き、というかそういう人のやる即興演奏が好きなんですよ。そういう人は普通は即興演奏には不向きでしょ。即興の現場はいろいろできてなんぼみたいなところがある世界ですから。でも、いろいろできてなんぼの即興に、そもそも全然興味がないんです。なんでかな。
オレが音楽に求めているものはそういうフレキシブルな器用さみたいなものではないんですよ。そういうものではなく、音楽のそもそもの魅力って、なにかもっと切実でフラジャイルな(弱い)ものだと思うんです。それが歌や、あるいは即興演奏の現場ではほとんど裸といってもいいくらいあらわになる。そんな人たちが、安全な場所を確保して演奏するのではなく、ある切実さをもってやるアンサンブル、特に即興のアンサンブルにとても興味があるんです。そういう人のほうが、伴奏するとかされるとか、あるいは相手に合わせるだけの関係になりにくいし、相手を支配したりされたりじゃなく、ただちにちゃんと互いに存在している、ぎりぎりのところで存在し合っている関係の音楽が作れるような気がするんです。》

《音楽が空間を問題にするってのは具体的にはどういうことかというと、大きく分けてふたつの方向があると思います。純粋に音自体のことを問題にする方向と、もうひとつはもっと生々しい話で、空間というのは今の日本では常にお金に関わるものですから、それをどうやって獲得していくか、あるいはある場所の中でどうサバイバルしていくかという現実的な方向と。でも、実はその両者は切っても切れないくらいからみ合ったものです。》

by daiouika1967 | 2008-07-12 21:26 | 日記  

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