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8月11日(月) 晴

今月号の『スタジオ・ボイス』は細野晴臣特集。<三省堂>の雑誌コーナーで見つけ、さっそく買って読む。細野晴臣のインタビュー、横尾忠則との対談、また、高橋幸宏や坂本龍一に細野晴臣について聞いたインタビューも載っていて、なかなか充実している。
記事では、音楽ライターの安田謙一が、細野晴臣の持つ独特の「軽やかさ」について、そのネーミングセンスを取り上げて考察している文章が印象に残った。
細野晴臣の創る音楽、発する言葉には、一貫して、えもいわれないような「軽み」の味わいがある。
細野晴臣は典型的なリスニング・ミュージシャンで、膨大な音楽を聴き、また彼は世界情勢や日本で起こる事件など気になるネットニュースを、長期間にわたりクリップして整理しているらしい。日々膨大な情報を摂取しながら、細野晴臣は、その情報に溺れることなく、独自のやり方で情報の消化・編集をしているように見える。細野晴臣独特の「軽み」は、情報を消化・編集するさいの、その「独自のやり方」の醸し出す味わいであるように感じられる。

佐々木幹郎『やわらかく、壊れる ―都市の滅び方について』(みすず書房)の残り半分を読み了える。
佐々木幹郎の眼差しは、つねに、災害や戦争でどこかしら機能不全に陥った都市、廃墟と化した都市に向けられており、そこに都市の本質を見通しているようだ。
うろ覚えなのが、たしか種村季弘が、戦後日本の闇市について、その焼け野原に立ち並んだバラックの集合体こそが「都市が最も都市らしくあった瞬間なのだ」と言ったことがあった。栗本慎一郎はその都市論のなかで、種村のこの言を受けて、「“都市”とは人々の眼差しの交錯のなかに浮かび上がる“現象”であり、それは機能としての都市が壊れた場所においてもっとも分かりやすく現れる」という意味のことを書いていた(すべてうろ覚えである)。
佐々木幹郎の都市論ともいえる本書を読みながら、以前読んだ種村季弘や栗本慎一郎の言葉の残響が、頭のなかに浮かび上がってきたのだった。

もう一度<三省堂>に寄り、文庫本の新刊書の棚から、なんとなく川上健一『ビトウィン BETWEEN ―ノーマネーand能天気』(集英社文庫)を手に取る。著者は知らないし、普段ならあまり読まないタイプの本なのだが、なんとなく。読みたい本、ぜひ読まなければ本がたくさん溜まっているのに(新刊書だけでも、町田康、舞城王太郎、笠井潔の長編が出たところだし、吉本隆明の『心的現象論本論』もまだ買ってないし)、なぜか。
それで、買って、すぐに喫茶店で読み始め、一時間半くらいで読み了えてしまった。
著者の川上健一は、小説家だが、10年ほどブランクがあった。その間、田舎に引越し、妻を娶り、娘もできて、家族三人でほとんど金のない極貧生活を送る。この本は、その極貧生活の間のことを書いたエッセイである。
極貧生活のこと、といっても、いわゆる「貧乏話」―金がないがゆえに浮かび上がる生活のディティールについての描写はあまりない(おれが「貧乏話」が好きなのは、その描写が読めるからなのに)。
著者は、釣りに行ったり、日曜大工をしたり、ほとんど悠々自適といってもいいような生活を送っている。
消費-生産といった資本のサイクルから脱落した人間が、それでもある意味豊かに生き延びることのできる社会こそが本当に良い社会といえるのかもしれないなぁ、などと考えつつ、しかし、おれが読みたかったのはいわゆる「貧乏話」だったので、ちょっと肩透かしを食ったような気分になる。
それに、この人の文体がどうも、おれにはしっくりこない。文章から、一定のパターンが透けて見えるのだ。
あまり考え抜くことなく文章を書くと、その文章は、どうしても定型の物語にパターン化してしまう。そうした文章から読み取れるのは、その文章を読む前から分かっている一定の物語のパターンだけである。
逆に考え抜かれて書かれた文章を読むと、こちらの思考も触発されて、精神が活性化するのが分かる。そうした文章には、パターン化された物語ではなく、現実を構成するモノやヒトがはっきりと描出されている。


<新星堂>で9日発売の新生デイジーワールド第三弾、コシミハル『覗き窓』を買う。
ついで<69>で、YMO『COMPLETE SERVICE』、ジム・オルーク『insignificance』、ザ・ポップ・グループ『最後の警告』を買う。YMOとジム・オルークは以前持っていたのを買いなおす。

by daiouika1967 | 2008-08-12 07:44 | 日記  

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