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5月20日(火) 晴

雨は一晩降り続き朝には止んでいた。今日は6時前からPの「餌~」が始まる。半覚半睡のまま、手で押しやったりしつつ抗いつづけるが、今日はPも執拗だった。けっきょく7時前には完全に目覚めてしまう。Pに餌をやり、そのまま起床。シャワーを浴び、卵かけご飯とサラダを食べ、パソコンを立ち上げ、日記つけ、ネットの周回。妻はずっと眠っている。10時前にはベッドのなかの寝ぼけた顔の妻に、「出るよ~」と告げて、家を出た。<三省堂>に寄り、植島啓治の新刊『賭ける魂』(講談社現代新書)が出ているのを発見。いそいそと購入する。喫茶店でさっそく読んだ。1時前に読み了え、今度は中村雄二郎『精神のフーガ -音楽の相のもとに』(小学館)を読む。5時過ぎまでかかって読了した。<マックスバリュ>に寄り、食材を買って帰り、夕食は買ってきたお惣菜(鶏のからあげ、マカロニサラダ、パン、おにぎり)で済ます。やはり味気ない。夜、テレビを眺めつつ、松井孝典・南伸坊『「科学的」って何だ!』(ちくまプリマー新書)を読む。12時過ぎ、読了。ミロクを聴きながら、1時過ぎ、就寝する。

植島啓治『賭ける魂』からの引用・メモ。

《人間が下す決断も、熟慮も、ためらいも、誤解も、すべて前もって決められていたことなのかもしれない。そもそも人間というのは何かと結びついて生きているという実感なしには幸せになれないものである。われわれは宇宙のなかにぽつんとおかれた孤独な存在とは思いたくないのだ。では、われわれは運命とかいう外部の大きなシステムの単なる一部分に過ぎないのだろうか。いや、そういうわけでもない。人間を包み込んでいる宇宙は、それ自身、個々の相互作用の蓄積によって大きく変化し続けてもいるのである。
現在、われわれが求めているのは「外部のシステムに当たるものをわれわれの社会内部にどういう形で取り込むことができるか」という問題である。コンピュータにおけるランダム回路みたいなものだが、それを人間の精神や社会に置き換えるのはそう簡単なことではない。われわれが偶然とかリスクとかカオスとか運命とか呼ぶものをいかにして理解可能な枠組みへと還元できるか。それこそ賭博者の抱える最終的な問題と同一なのである。》

人間もその一部であるような「外部の大きなシステム」を、人間はどのように“把捉”しうるのか。「偶然」=「リスク」=「カオス」=「運命」に、人間はどのように“対処”しうるのか。
植島は、「コンピュータにおけるランダム回路みたいなもの」を、自らのうちに組み込むことが必要だ、と云う。
それは、どのようなものか。
ギャンブルで一番強いのは、けっして自分の型をもたない人間であろう。自分でもわけがわからないまま攻めるというのがよい。しかし、これがなかなかできそうでできない。途中でわれにかえったりしてはいけない。何をやっているのかハッと気づいたときには、相手を一撃でしとめていなければならない。それが理想の攻め筋だ。
人間は心に何か意図したら、同時に、そこにスキが生まれる。どんなに完全な計画も、人間が作ったというだけで、どこかしら攻略可能な点が生じてしまうのだ。何も意図せず相手を倒す、そのためには、その人自身、他人に理解不能な生き方をしていなければならない。》
《相手に自分の心を読まれないだけではなく、自分自身にもわからないように行動しつつ、敵を倒すというパラドクシカルな戦略には、やはり高度な知性が必要となってくる。人間は何も考えないではいられないから、心に浮かぶ事柄をそのまま受け容れ、しかも同時に排除する。考えつつ、その考えを否定する。Aを目指しながらBへとたどり着く。果たしてそんなことが可能だろうか。世に氾濫する必勝法の類がいかがわしいのは、そうしたアポリアをパスしてしまうからである。論理を積み上げて勝てるような賭けはこの世には存在しないのである。》

「心に浮かぶ事柄をそのまま受け容れ、しかも同時に排除する」という身の保ち方をしなければならない。
自分をつねに、ニュートラルな位置に置かなければならない。
だがしかし、自分は自分であることにおいて、すでにニュートラルではありえない存在でもある。「自分」は、景色を見えなくする、もっとも大きな阻害要因なのだ。
そうであるなら、やはり、自分が自分のまま、賭けに勝てると思っては間違う。
自分をニュートラルな位置に置くためには、自分を二重化しなければならない。
《かつてぼくもNHKの番組で桜井章一さんと一度対談したことがある。そこで、桜井さんは、「勝とうと思う人は勝とうと思うばかりに負ける、負けそうだと思う人は負けに怯えるばかりに負ける」というような話をしてくれた。「ちょうど真ん中にいると、両方が負けてくれるから勝てるんです」。》

賭けにおいては、自分で考える“作為”は、ことごとく裏切られる。
自分に囚われていては、けっきょく、自分自身に翻弄されるだけだ。
自分を脱しなければならないのだが、それは、どのようにして為されるのか。
《意外に聞こえるかもしれないが、ギャンブルでもっとも大切なことは「信じる」ということだ。
ギャンブルでは何事でもそうなのだが、あることを信じると、別の思ってもみないことがすぐに起こる。そして、それに対抗できる別のシステムを考えると、またそのシステムから漏れるような結果が出てくる。つまり、いつまで経っても、事態はよくならない。何かを信じても必ず負けるわけだから、では何も考えないで掛けた方がいいのだろうか?
一生懸命に必勝法を考えても、なにも考えない人間と似たような結果しか出ないとすると、だれでも必死に考えるのがイヤになってくる。適当に楽しくやれればそれで十分ではないか。ギャンブルでは胴元がいるかぎり、他に勝者など出てくるはずがない。次第にそんな気になってくる。
しかし、ここが重要なところなのだが、何かを信じても勝てるとは限らないが、何かを信じないで賭ける人間はほぼ百パーセント負けてしまうのである。ギャンブルでは、とにかく何かを信じて突き進むと、自分でも想像外のことがいくらでも起こりうるのだ。
「何かを信じる」とは、最終的には、自分以外の何かの力に頼る、ということである。
人間は何か自分以外の別の力にすがらないとけっして勝つことができない。同じく、それを放棄したら必ず負けてしまうのだ。ギャンブルにおける心理はそんなところにひそんでいる。》

●上記に関連して、中村雄二郎『精神のフーガ -音楽の相のもとに』からの引用。

《ドゥルーズ&ガタリのロトルネッロ論においてとくに注目に値するのは、カオスと環境とリズムの関係を明らかにしていることである。彼らによれば、環境はどれも、その成分の周期的な反復によって構成される時間・空間的なブロックとして振動する。そういうものとして、複数の環境は相互に移行し、また通じ合っている。そして、環境はカオスのなかで開かれているから、カオスによって脅かされもするが、それに対して環境によって反撃がなされるのであり、それが秩序を持った<リズム>なのである。
カオスもリズムも二つの環境の間にあるが、カオスとリズムの中間領域たる<カオスモス>は、たとえば夜と朝との間、犬と狼の間(たそがれ時)、などに見られる。そして、そのような一つの環境から異質なもうひとつの環境の移行のうちにリズムが生じるのである。さらにそのリズムは、表現性を持つようになるとき、そこに領土(テリトリー)が生まれる。多くの鳥は単に名演奏家であるだけでなく芸術家であり、なによりもテリトリーを標示する歌をうたうからこそ芸術家なのだ、と述べたメシアンは正しい。》

松井孝典・南伸坊『「科学的」って何だ!』からの引用。

《この宇宙の知的生命体は、われわれも彼ら(宇宙人)も、知の体系は似ているはずなんです。どうしてかというと、知とは何ぞやと言えば、この宇宙や地球や生命を観測し、自然という古文書を読み解くということです。それが知の体系ということにほかなりませんから、この宇宙に存在する知的生命体は共通の古文書を読み解いているという意味で、共通の知の体系を持っているはずです。しかも文明が進むと文明のパラドクスに直面するから、その解読も長期にわたって続けることはできない。
宇宙に始まりがあるということは、われわれも含めてこの宇宙のすべてが、その歴史の中でつくられたということです。すなわち、われわれが自然と呼ぶものは、宇宙の歴史を記録した古文書なのです。》

by daiouika1967 | 2008-05-22 10:20 | 日記  

5月19日(月) 曇のち雨

9時過ぎ起床。パソコンに向かって1時間ほど仕事。朝食はサラダ、しめじとチーズ入りのオムレツ、とろろ。1時過ぎ、家を出る。空は暗い。台風4号の影響で、今日はこれから雨になるらしい。名駅の喫茶店まで歩き、アイスコーヒーとオレンジジャムの菓子パンを頼んで、堀切直人『堀切直人コレクション3 新編 迷子論』(右文書院)を読み継いだ。読了。取り上げられている作家は、柳田国男、小川未明、泉鏡花、萩原朔太郎、江戸川乱歩、佐藤春夫、稲垣足穂、坂口安吾、小泉八雲、大岡昇平、メーテルリンク、つげ義春、夢野久作。主題となるキーワードは、「神隠し」「恐怖の共同性」「見世物小屋」「幻想の都市」「幻の家」「オフィーリアの幻想」「廃園」「聖杯」「洞窟と迷宮」「定住者と流浪者」等など。3時過ぎ、栄向の<ブックオフ>まで歩き、川上未映子『乳と卵』(文芸春秋社)、牧野修『楽園の知恵 -あるいはヒステリーの歴史』(早川書房)、松井孝典・南伸坊『「科学的」って何だ!』(ちくまプリマー新書)、萩原朔太郎『猫町』(岩波文庫)、金井美恵子『目白雑録(ひびのあれこれ)』(朝日文庫)、山本夏彦『男女の仲』(文春新書)を購入。店を出ると雨が降り出していた。雨足はさほど強くないが、強めの風が吹いていて、傘をさしていても雨粒が四方から降り込んでくる。ズボンはすぐにびしょぬれ。今日はもう家に引き返すことにする。5時前に家に着いた。すこしうとうとして、水木しげる『怪奇貸本傑作選 ―不死鳥を飼う男』(集英社)を読む。夕飯は妻が拵えた豚バラと小松菜の炒め物。夜は、テレビを眺めつつ、山本夏彦『男女の仲』(集英社)を読んで過ごした。160ページ程読み進む。夜のおやつにたこ焼きのような形をしたホットケーキ(メープルシロップ入り)を食べた。11時過ぎには眠たくなり、12時にはベッドに入った。外は雨足が強くなってきたようだ。ミロクを聴きながら眠りに就く。

堀切直人『堀切直人コレクション3 新編 迷子論』からの引用。

○《わたしたちのうちのデーモニッシュな意志は、それが生の頂点において噴出するとき、日常的な「け」の平面に「はれ」の時間を屹立させ、その時間のなかで白熱し、燃え尽くす。「け」の膨大な時間にたいしてほんの瞬間的なものにすぎぬ、その「はれ」の時間は、魂のなかにもぐりこんで内的空間と化して生き残り、以後、その人の魂のなかで内的体験として持続する。「はれ」の時間は、文字通り聖なる時としてのちのちまでも内面において、光輝に包まれながら残存するのだ。》
※植島啓司『宗教学入門』

○《江戸川乱歩の作品群は見かけの多様さにもかかわらず、小児的ナルシシズムのなかに全部吸いこまれてしまう。「現し世は夢、夜の夢こそまこと」を座右銘としたように、彼はナルシスティックなエロティシズムの夢を中断するような外界の現実の騒音を一切遮断して、自分ひとりの夢想の密室のなかで夢の黄金を造出しようとしている。変身願望、隠れ蓑願望、扮装欲求、空間忌避傾向、人形愛好、表象愛、フェティシズム、母体回帰衝動、同性愛、死体愛好、レンズ嗜好、窃視症、夢遊歩行、サド・マゾヒズムなどの、彼の体質から派生してきた性の病理が、あざとい舞台装置をバックに上演される芝居の雰囲気をかもしだす。》

○《わたしたちは『峠の犬』を読んでいって、このラストシーンに行きあたるとき、自然から分離している度合いだけよけいに持ってしまっている人間的意味の支えを奪われて、宙吊り状態の孤独感におちいるが、と同時に、いままで距離を保って外在していた自然がこちらへ堰を切ってなだれこんでくるのを感じないわけにはいかない。意味を失った私たちの心はこの時、自然と融即しているのだ。意味を何ら賦与されることもなしに自己同一的な自然のなかに棲みこんでいるのは動物だけではない。わたしたちのうちなる深層の定住者もまた自然と融着しているのである。つげ義春の描く画面を見よ。人間たちは、細密画のように克明に描きこまれた自然風景の余白のように存在しているではないか。人間は自然に意味を与えて自然を支配する者などではなく、自然の一部にすぎないのだ。くだんの無意味性とは、わたしたちが隠し持っている、この自己同一的な自然のことにほかならなかったのである。》
※保坂和志の小説における描写の大切さを連想する。それは、人間を「中心」からズラす装置である。

○《「迷路、すなわちいっかな足をとどめることなく途上にあるという事実は有限なものを無限なものに変える」(モーリス・ブランショ)。「いっかな足をとどめることなく途上にある」存在である流浪者の孤独は、また定着への欲望は永遠に鎮撫されない。そして、流浪者は失われた自己同一性を求めつづけるが、その探求の行為自体が彼を自己同一性からますます遠ざからせ、自我を二重化せざるを得ない。二重化された自我とは、原房への下降と上昇の運動の円環を、どちらか一方向のみそこから取り出して直線に変え、果ては点に変えようとした時に、そこに生ずる歪んだ空間に移る幻影である。》
※保坂和志の言う「小説の推進力」について考える。テキストが「推進する」とき、そこにはどんな<動詞>の「推進力」が働いているのか。(何かを)探す、(何か・誰かと)闘う、(どこかに)行く、(故郷に)帰る、(異郷を)彷徨う、(誰かに)応じる、(何かを)動かす、遊ぶ、……。

○《無時間の世界に棲む小児は遊びを飽かず繰り返していて、労働なるものの何であるかを理解しない。同じようにつげ義春の作品の登場人物たちは、一切を遊戯の相のもとに捉え、労働に関与しないで日々の生活を送っている、いわば無用者、つまり子供や老人や精神病者や動物などであり、たとえ労働生活の圏内にあっても、勤労の意欲をいっこうにもたずにその日暮らししている一種の階級脱落者である。「記憶を絶する太古の幸福をちゃんと記憶にとどめている人間だけが、私たちの苦情の種たるこの(仕事に対する)拒否を行うことができる。そういう人間は、同類たちのまんなかにありながら異郷に投げ出され、同類たちと同じ人間なのに彼らと心を通じ合うことができない」(E・M・シオラン『歴史とユートピア』)。》

○《祭礼は子供にも大人にも、異界と親密に大っぴらに接触する特権的体験の機会を提供する。祭礼の日の夕闇迫る頃ともなれば、誰しもが賑やかな祭り囃子の音を耳にしては、じっと落ち着いてはいられないほどに浮き足だち、しまいには矢も盾もたまらなくなって家を脱け出すだろう。私たちは神社を指して流れていく人ごみのなかにまぎれこみ、普段は平穏な生活の維持を目的とする日常的な配慮に妨げられて自分から隔てられていた何かこのうえもなく魅惑的なもののなかに自分を余すところなく没入させようという、漠然としてはいるが熾烈な欲望に突き動かされて、神社の境内に通じた道を浮きたつ気分で急ぎ行く。祭礼の宵闇は、異界を厳密に排除して私たちを自明の現実世界に閉じこめる日常性の壁を破って、その破れ目に彼処に通じた常ならぬ道を浮かび上がらせる。その平生は隠されている道が尽きるところに予想される異界の開口部は、神社の参道を行くあまたの人々の想念のなかに、形象こそ曖昧ながら、まざまざと幻視されているだろう。それは、祭りが繰り出す様々のスペクタクルの背後に透視され、しかもスペクタクルの操作によって生み出される祭りの絶頂でついに顕現するであろうと仮想されているのにちがいない。》

by daiouika1967 | 2008-05-20 08:57 | 日記  

5月18日(日) 晴

11時過ぎに起床し、朝食にランチパックを食べる。妻が散歩に行こうというので、出支度をする。おれは、ささっと着替えるだけのことだから、3分で済む。妻は化粧しなければならないので、30分くらいかかる。妻が準備している間、持て余した時間に、武良布枝(水木しげるの奥さん)の自伝『ゲゲゲの女房』(実業之日本社)を読み始める。60ページほど。12時過ぎ、妻と、散歩に出る。目的地は、妻が昨日調べておいたという日吉公園。住宅地のなかにある小さな公園である。30分歩いて着いた。木陰のベンチに座ると、風が吹き渡って、葉ずれのざわめきが心地よく全身を包む。台風4号が近づいていて、風は強く、雲は速いけれど、暖かく晴れていて、暑くも寒くもない。ベンチに座っているだけで、とろけるような気持ちよさを覚える。ベンチの前には鳩の群れがいて、一羽の鳩が一羽の鳩の周りを、喉の羽毛を膨らませて、踊るように歩いている。妻が、あ、鳩が求愛してるね、と言ったので、その動きの意味が分かった。よく観察してみると、あちらこちらで雄鳩が雌鳩の周りを踊っている。見ていると、すぐにカップルとなるのもいるし、振られつづけるやつもいるようだ。30分くらいぼんやり過ごして、その後、マックスバリュまで歩いた。スガキヤで冷麺とクリーム善哉を食し、Pの餌や食材を買って帰った。家に帰ると3時を過ぎたところ。窓を開けると部屋に風が満ちた。気持ちよくて眠たくなる。うつらうつらしながら、合間に、武良布枝『ゲゲゲの女房』を読み継ぎ、読了した。著者は、基本的に人生受身に徹した、昔の女の人なのだが、水木しげるはそんな奥さんを指して、《家内は、「生まれてきたから生きている」というような人間です。それはスゴイことだと水木さんは思う。》と評している。生きているのは生まれてきたから。じつに深い、というか、その通り、である。妻も、いつのまにか、昼寝していた。川又千秋『幻詩狩り』(中公文庫)の読み残しを読んだ。7時半頃、妻を起して、うどんを作ってもらう。妻は眠りを妨げられると、ちょっと不機嫌になる。そんな気配も察したのだが、無視していたら、すぐにその気配は消えた。夜は、録画してあったドラマを2本。キムタク主演の「チェンジ」、蒼井優主演の「おせん」。おれは12時過ぎに就寝。妻は、明け方目が覚めたときにまだ起きていた。

by daiouika1967 | 2008-05-19 11:41 | 日記  

5月17日(土) 晴

11時過ぎに家を出て、名駅へ。ドトールで、木田元『ハイデガーの思想』(岩波新書)を読む。2件梯子して読了。伏見まで歩き、三度ドトールに入る。堀切直人『堀切直人コレクション3 新編 迷子論』(右文書院)を読む。130ページほど。名駅まで引き返し、<タワレコ>でテープ『ルミナリウム』、ガブリエル・アナンダ『バンブー・ビート』、ウーリッヒ・シュナウス『グッドバイ』、ザ・バックホーン『Best』の4枚を買った。ポイントが8000円分溜まっていたので、支払いは不足分の2千円のみ。夕食は、妻と、近所の焼肉屋に行った。ホルモン、カルビ、ハラミ、ミノ、焼きレバー、生レバー、セセリ、キムチ、冷麺。夜は、DVDで井筒監督『パッチギ』、伊藤俊也監督・梶芽衣子主演『女囚さそり第41雑居房』。2本とも娯楽映画としてのツボをうまく押さえてある。深夜、テレビで『ノブナガ』を眺めつつ、『谷川俊太郎の33の質問 続』から、読み残していた高橋悠治の章を読み、読了する。今日はやたらと消防車と救急車のサイレンの音がする。近所で火事でもあったのかと、妻が窓の外を眺めるが、「何も見えないなぁ」とのこと。部屋のなかでは、Pがニャアニャアニャアニャアずっと鳴いている。「どうした?」と聞くと、一瞬、鳴き止んでこちらの顔を眺めるのだが、すぐにまたニャアニャアニャアニャアが始まる。またたびクッキーをやれば落ち着くかと思いやってみるが効果なし。そのうち鳴きつかれて猫タワーにのぼり眠ってしまった。ようやく静かになった。2時過ぎ、就寝。

木田元『ハイデガーの思想』からの引用。

○《「現存在が存在を了解するときにのみ、存在はある(エス・ギブト)。」
「存在は了解のうちにある(エス・ギブト)」
「現存在が存在するかぎりでのみ、存在は<ある(エス・ギブト)>」
<ある(エス・ギブト)>とルビをふったのは、これが<存在する(ザイン)。という意味での<ある>ではないということを示そうとしてのことである。というのも、もしこれが<存在する>という意味での<ある>だとすると、<存在>がふたたび<存在するもの><存在者>になってしまい、<存在は存在者ではない>という原則に抵触することになる。それを避けようとしてハイデガーは、存在に関しては<ある(エス・ギブト)>という言い方をする。どうしても気になる方は、この<ある(エス・ギブト)>を<与えられる>と読み替えてくださってもよい。これらの命題は、<存在>は現存在のおこなう<存在了解>の働きのうちにあるのだ、ということを言おうとしているのである。
では、<存在了解>とはいかなる働きなのか。これもあまりはっきりしない概念である。ところが、はイデガーは『存在と時間』と同じ時期の『現象学の根本問題』という講義(1927年夏学期)では、これを<存在企投>と言いかえている。この方が分かりやすい。<企投>というこの言葉は、英語ではprojectと訳されるのが普通である。projectには<投射>という意味がある。<存在企投>とは、現存在がいわば<存在>という視点を投射し、そこに身を置くことだと考えればよい。つまり、<存在>とは現存在によって投射され設定される一つの視点のようなものであり、現存在がみずから設定したその視点に身を置くとき、その視点に現れてくるすべてのものが<存在者>として見えてくる、ということである。》

○《一般に動物は、多少の幅はあるにしても狭い現在を生きることしかできず、したがって現に与えられている環境に閉じ込められることになる。そこには過去も未来もないのである。ところが、神経系の発達がある域を越えた人間は、記憶や予期の働きによって、過去や未来という次元を開くことができる。もっと正確に言えば、現在のうちに、あるズレ、差異化(デリダの言う<差延(ディフェランス)>が起こり、そこに過去とか未来と呼ばれる次元が開かれてくる。そうした次元へ関わる関わり方が記憶とか予期とか呼ばれるのである。そうすることによって人間は、現に与えられている環境構造のうちに生きながらも、そこにかつて与えられたことのある環境構造や、与えられうる可能な環境構造を重ね合わせ、それらをたがいに切り替え、相互表出の関係におき、そうすることによって、それらさまざまな環境構造のすべてをおのれの局面(アスペクト)としてもちながらも、けっしてそのどれ一つにも還元されることのないような参照項Xを構成して、現に与えられている環境構造をそのXのもちうる可能な一つの局面として受けとることができるようになる。
こうして人間は、動物のように自分の生きている環境構造をそれしかないものとして受けとるのではなく、他にもありうる環境構造の可能な一つとして捉え、いわばそこから少し身を引き離すことができるようになる。その参照項Xが<世界>と呼ばれるのである。したがって、<世界>とは、さまざまな環境構造を相互に関連させることによって構成される高次の<構造>だと言えよう。
このようにさまざまな構造をさらに高次に構造化する働き、さまざまな関係をさらに高次の関係のもとに関係づける働きを、神経生理学や動物行動学の領域で<シンボル機能>と呼ぶ。<世界>とは、言いかえればそうした機能によって構成される<シンボル体系>のことなのである。
<世界開在性>とか<世界内存在>というのは、人間がそうした<世界>という構造を構成し、それに適応しながら生きる生き方、存在の仕方を指すと考えてよい。このような高次の機能によって、現存在が現に与えられている環境から身を引き離すその事態を、ハイデガーは<超越>と呼んでいる。現存在は、<生物学的環境>から<世界>へと超越するのである。

by daiouika1967 | 2008-05-19 09:56 | 日記  

5月16日(金) 晴

午前中はパソコンの前で、日記つけ、ネットの周回。午後1時、家を出て、クライアントの会社を訪問、1時間ほど打ち合わせをする。悪徳弁護士の事務所に行き、パソコンを借りて、打ち合わせの内容をまとめておく。昼ご飯は、悪徳弁護士の事務所に置いてあったアンパンをもらって済ました。3時過ぎ、上前津まで歩き、<サウンドベイ>へ。ミロク『グリーン・アンソロジー』、キセル『旅』、テープ『リデュー』、ラウンジのコンピ『コペンハーゲン・エアポート・ターミナル2』を購入する。それから<海星堂>に行き、北山修『幻滅論』(みすず書房)、岩田慶治『草木虫魚の人類学』『カミと神』(講談社学術文庫)、谷川健一『神・人間・動物』(講談社学術文庫)、『日本の地名』『続 日本の地名』(岩波新書)、木田元『ハイデガーの思想』(岩波新書)を購入する。JRで名駅に戻り、<アルアビス>でグレープフルーツジュースを飲んでうとうと。今日は夏のような暑さで、歩いていると汗まみれ、喉も渇く。高島屋のデパ地下でカレイの煮付けとよもぎ餅を買って帰った。夕食はカレイの煮付け、とろろ、にんにくの漬物、豆、ひじき、サラダ。夜は『BONE』のVol.4~6までを観る。強烈な眠気をこらえつつ、ときどきうとうとしたりしながら、12時過ぎに観終わった。すぐに就寝。なかなか寝付けなかったが、布団でごろごろしていると気持ちが良かった。

by daiouika1967 | 2008-05-18 10:04 | 日記  

5月15日(木) 晴

気持ちよく晴れた。10時頃起床し、朝食にサラダとインスタントのポタージュ、黒糖パンを2ヶ食す。パソコンに向かい、日記つけ、ネットの周回。11時半頃、家を出る。名駅~伏見の喫茶店で、三國連太郎・沖浦和光『「芸能と差別」の深層』(ちくま文庫)を読み継ぎ、読了した。栄まで歩き、<バナナレコード>へ。大滝詠一『ナイアガラ・トライアングル』Vol.1、Vol.2、『イーチタイム』、テーム・テムリッツ『愛の爆弾』を買った。名古屋まで歩いて引き返し、<三省堂>。何も買わず、近所のスーパーに寄ってサラダ用の野菜やら切らしていた調味料やらを買って帰った。夕食は、妻が拵えた桜海老ともやしの炒め物。食後に鬼饅頭。夜はテレビを眺めながら、パソコンの前に座り、アイリバーの中身を入れ替えたり、コンビニで500円で買った『実録サイコ画像』を読んだりして過ごした。1時半、就寝。

●木田元と保坂和志との対談で、保坂和志が、「小説の推進力」ということについて語っている。
《人がどうして最期まで小説を読むかというのを考えてみると、それは推進力によると僕は思ったんです。推進力というとき、物語はその一つの可能性でしかない。私小説みたいなのは、もうちょっと覗き見的な、興味を煽るようなことが推進力になっている。
僕は小説をほとんど読まずにきて、とくに二十代後半からはニーチェなんかを読みかじったりしたけれど、そういう書物は当然、物語という推進力で読むんじゃなくて、もっと別の知的な関心で読むわけですから、本を読み通すという意味では、それも推進力になっている。もう一つ、推進力には惰性というのもあって、たとえば文体のテンポがいいと、惰性でいける。それも推進力だと思うんです。
そんなことを総合して、不幸を出さず、ダラダラした語り口のやつが喋って、その惰性に任せていく。で、語り口を穏かにしたらいろんな人間が自然と出入りするようになって、それがそのまま『プレーンソング』の、自分のアパートに人が入ってくるというのと、小説世界に人が出入りするのとがパラレルな感じになってきたんですね。》
小説に「推進力」をもたせるには、様々な方法がある、「物語」はその方法のひとつでしかない。「小説に推進力を持たせる」というのは、文章にあるテンションを持続させるということで、そのための方法として、保坂はその例として「ゴシップ的興味」「知的興味」「文体のテンポ」等を挙げている。

小説の構想時。「線を引く」のではなく「磁場を設定する」というイメージ。
音楽的な比喩。リズム(文体のテンポ)、ハーモニー(知的興味)、メロディ(物語)。

《以前は自分の身体性のほうから書くことにこだわってたんですけど、『季節の記憶』では、外の、宇宙論とか生物学のような理科系の知識を入れることにしたんです。星の距離とか、遺伝子の問題とかは、自分の経験からはまったくわからない。もう本当に経験からは絶対にわかりようがない。けれど、現代の人間はみんな知識としては自分で見るより確かなくらいよく知っている。それを散歩ばかりしている日常的な世界のなかに無理に落とし込んで、不可能な二つをなんとかつなげようと―経験からは全然わからない星の距離を当てはめながら星を眺めたらどうなるかというふうな―共存しない気分をなんとか共存させようとしているのが、『季節の記憶』の基本トーンの一つかな。》
文章のなかで、次元の異なる二つの領域(ここでは、「身体性」と「外の知識」)を、一つの流れにつなげていく。
だいたい語り手の僕もトンチンカンなところがあるから、人の気持ちをすぐに分かるわけじゃなくて、いちいち斟酌していくんですね。ブラックボックスのなかをつつくように。こう言ったら、反応がこう返ってきた、この人のなかの仕組みはどうなっているんだろうとたえず考えている。共通了解が足りないからほとんどの見方が、メカニズムを考えるという書き方になる。
『季節の記憶』で言えば、散歩しながら見ている山とか海とかが、僕にとっては感動を与えるものじゃなくて、メカニズムとして記述していく対象となってるんです。(中略)
それがひょっとすると読んでるときの時間と、なにか関係してくるのかもしれないですね。相手のことがすぐに分かったりすると、物語的な時間の契機になるかもしれないけれど、分からなくてメカニズムをずーっと考えてるから、普通の小説なら次の転換のきっかけになるようなものも全部、平板にどーんといく。でもそれを、メカニズムとしてこっちが一生懸命考えていけば、読んでる人も退屈な平板とは思わずにすむんじゃないかなと、これは希望的観測ですけど。》

●木田元は福田和也との対談で、哲学の根拠はもはや芸術にしかない、という旨のことを語っている。哲学とは事物の「根源」に遡ろうとする思考の働かせ方のことだが、その「根源」は、哲学的な言説の内部には存在しない。現代という時空のなかでは、芸術的な創造行為のなかに、かろうじてその「根源」の痕跡を認めることができる。芸術的な創造行為、あるいはある種の「狂気」、「動物性」「反・反動物性」。
《現代哲学が芸術を拠り所にしなければものを考えられなくなっているのは確かです。ただ、現代哲学という言い方は少し矛盾していて、現代哲学がやろうとしているのは哲学批判なんです。その批判さるべき哲学をどこからどこまでと考えるかは難しい問題なんですが、少なくともプラトン/アリストテレスからヘーゲルぐらいまでをひっくるめて批判しようという、ニーチェから始まった企てを現代の思想家は引き継いでやろうとしています。当然そこでは、哲学の言葉を使ってはもう語れないわけです。すると、もう頼るところは芸術しかない。しかも、これはハイデガーもメルロ・ポンティもそうなんでしょうけれども、芸術には人間の一番根源的な経験が、直接ではなくても、うまく透かし見れば見える程度に残っているという気があるのでしょう。芸術家のあり方なのか、あるいは芸術作品のあり方なのか、そこが分かれるでしょうけれども、そこに存在の根源性を探し求めるしかないという発想はありそうですね。》

●渡辺哲夫の云う「歴史の<外>へ跳躍する契機である<瞬間の狂気>」という概念を思い出しつつ、木田元の<瞬間>という概念の解説を読む。
《十九世紀の半ば頃、つまりニュートン力学が体系的に完成された時期に、時間が等質的な点の線状の継起だというニュートン流の絶対時間の概念がかなり普及してきて、それに対する抵抗が強く出てくる。キルケゴールはまさにそれで、少し遅れてドストエフスキーもそうだしニーチェの永劫回帰だってそう、ベルクソンになるともっとはっきりしますし、ハイデガーもそうです。現在が全く等質的な点の一つにすぎなくなってしまうニュートン流の時間概念に抵抗しようとしたキルケゴールは、『不安の概念』の註の中で、瞬間というのはアトポンな時間、ア・トポスな時間、つまり場所(トポス)なき時間だと言っています。つまり線状の等質的な系列の中に位置を持たない時間なんです。そうした瞬間とは、一種の切断であり、それによって未来と過去を全く違ったものとしてしまうような、つまり線上の時間の外にあって時間を切断し、その質を変えてしまうようなそんな機能を、キルケゴールは瞬間という概念に託していたのでしょう。》

●ハイデガーは、『存在と時間』においては、人間存在を「了解しうるもの」と見なしている。「了解しうる」とは、自らの意志によって自らの存在様態を改変しうる、ということでもある。しかし、それは、近代主義によって近代主義を乗り越えようとする自己撞着に陥った考えだと、木田元は言う。ハイデガー自身もそのことには気づいていた。いわゆる「転回」後のハイデガーは、「存在了解から存在の生起へ」という概念でそのことを言っている。

『存在と時間』では、ハイデガーは、人間は自らによる企図で、非本来的な時間に在る自分を脱却し、本来的な時間に立ち返ることができる、という考えを展開する。
《ハイデガーの分析によると、非本来的な時間性とは、未来はまだない、過去はもうすぎさってない、あるのは現在だけだという、現在だけが突出した時間の展開の仕方で、それを場にすると、存在を現前   性として見るような存在了解が生起することになる。『現象学の根本問題』の中で、現前性というのは作り上げられていつでも使用可能な状態で目の前にあることだと言って、そこでしか言っていないと思いますが、ハイデガーは被制作性と現前性とを繋いでみせています。
一方、本来的な時間性の方は、まず自分の究極の可能性である死に先駆ける、そうしてみると、自分の生きてきた過去、つまり<既在>が取りあげ直され、それに違った意味が与え直される、つまり反復される。そして現在は<瞬間>、つまり自分の置かれている歴史的な状況に豁然と眼を開くこととして生きられる。そうした時間化の仕方だと言われています。これは<将来>と<既在>と<瞬間>と、つまり未来と過去と現在とが緊密に連動して生起し、しかも将来が優越しているような時間化の仕方です。》

しかし、この「本来的な時間への立ち返り」は、人間が自らの自由意志によって為されうるものではないのだ、と「転回」後のハイデガーは考えるようになる。
《『存在と時間』の時点では存在了解、存在企投という言葉を使っていて、存在という視点の設定は人間の自由にある程度は委ねられており、多少、能動的に切り換えることもできるのだと考えていた。しかしまさにそこにこそ決定的な自己撞着が生じる理由があった。存在という視点の設定という出来事は人間、現存在の中で起こるのだけれども決して人間が意志的にやっているようなものではない。もしその視点の設定の切り換えが起こるとしても、どうしてそれが起こるのかとても人間には分からない。存在という視点の設定という出来事は、そうした切り換えが起こることによって人間のあり方が根本から変えられてしまうような、そういう決定的な出来事なのだと。それをハイデガーは<存在の生起>という言い方で呼んでいるのです。<存在了解>から<存在の生起>へ。これが<転回>と言われるものであり、この時点でいわゆる前期・後期に分節されるのではないでしょうか。》

《せっかく非本来的な人間存在と本来的な人間存在とを区別して、人間存在を本来性に立ち返らせようとしたわけなんだから、当然その本来的な人間存在の存在理解に向かって存在の意味を問いかけなければならないんだろうと思う。そのういう本来的な時間性が場面になっているような、そういう存在理解をモデルにして存在概念を構成することができるとしたら、存在=現前というのとは違った存在概念が手に入れられるのではないか、と考えてたんだろうと思うんだ。つまり、非本来的な時間性というのは現在が優位をもっているからこそ、それが場面になって行なわれる存在理解においては、「在る」(ザイン)ということが「現に在る」(プレゼンツ)として理解されるわけだけれど、現在と未来と過去とが緊密な統一をなしている本来的時間性が場面となって在るということの意味が理解されることになれば、それがもっと違ったものとして理解されることになり、その存在理解をモデルにして存在論が構築されるとすれば、伝統的な存在論とはまるで違った存在論が形成されることになるわけだろう。(中略)
ところが、現在と過去と未来とが緊密に結びつき、未来が優位をもつ本来的時間性が場面になって「在る」が理解されるとなるとどういうことになるか。まあ「成る」(ウェルデン)だろうと思うんだね。どうもそれ以外には考えられない。存在=現前性ではなくて、存在=生成ということになり、そうした新しい存在理解をもとにした存在者全体との新しい関わり合いが可能なのではないかと、あの時点でハイデガーは考えていたんじゃないかと思う。ということはつまり、在るということが成るということだとしたら、在るとされるあらゆるもの、ありとしあらゆるものが生成しつつあるものだということになるわけだから。》

by daiouika1967 | 2008-05-17 09:16 | 日記  

5月14日(水) 朝のうち雨 昼前から晴

10時過ぎに起床。シャワーを浴び、朝食にベビーリーフとスクランブルエッグのサラダを拵え、ご飯とインスタントのしじみ汁、デザートにスイカ。パソコンに向かって、日記つけ、ネットの周回(内田樹のブログ。最近のチベット問題に絡んだ中国関係の報道を見ていていると、登場するすべての立場の人びとが、被害者として自己規定している、そもそもあらゆる権利主張は、被害者の立場を「先取り」するという立ち位置を前提とするものだが、しかし、この「それぞれが被害者として自らの正当な権利の回復を主張する」というスタイルそのものが、もはや失効しているのではないか、それぞれの立場の人間が、自らを加害者として捉える視点をもつことが必要なのではないだろうか)、午後1時に家を出た。名駅のドトールで『木田元対談集 哲学を話そう』(新書館)の続きを読む。松山巌、保坂和志、辻井喬、高田珠樹、生松敬三。夕方<ジュンク堂>へ行き、三國連太郎・沖浦和光『「芸能と差別」の深層』(ちくま文庫)、フラナリー・オコナー『賢い血』(須山静夫訳 ちくま文庫)を買う。<ジートレス>で、『「芸能と差別」の深層』を読み始め、70ページほど。マックスバリュに寄り、食材を買って帰った。夕食はホタテの刺身、かつおのたたき、焼きタラコ、冷凍の惣菜で、筍の煮付け、蓮根の煮付け、たたき牛蒡、青菜の炒め物を少量ずつ。夜はパソコンに向かって、90分ほど仕事をし、それからDVDを2枚観た。『快楽学園 禁じられた遊び』。1980年公開の日活浪漫ポルノ。監督神代辰巳、脚本荒井晴彦、原作ひさうちみちおという豪華な面子。冒頭の教室の場面(反抗する生徒に教師達が殴りかかる)は、永井豪『ハレンチ学園』のようなハチャメチャさで、じつに愉しめた。山下敦監督『リンダ・リンダ・リンダ』。高校の学園祭の数日間が描かれる「青春ドラマ」。登場人物の内面を説明するための過剰な演技や余計なカットがなく、最期まで的確な描写が持続していて、そのことがリアリティを生み、最期の感動を生んでいる。風呂に入って、2時半頃、ベッドに入った。

●渡辺哲夫は、
《<瞬間の狂気>であるカンダーリとこれをしっかりと受容し続けている<祝祭性の伝統>はともどもに言語的に媒介されない。それは、せいぜい事後的にかろうじて神話的に媒介され、揺れながら言語表現にもたらされうるのみである。》
として、<瞬間の狂気>(今、ふと思ったのだが、栗本慎一郎が『鉄の処女』で思想家を区分する基準として提出した「無意識の感受性」という概念の「無意識」とは、この<瞬間の狂気>のことではないか?)を言語で表現することは、もともと「不可能事」であると云っている(バタイユの云う「非-知」の領域に属している)。
しかし、言葉、すくなくとも詩的―神話的な言葉を発する者は、そもそも「言葉では言い得ないこと」を表現しようという欲望に駆られて、その不可能事への欲望に引かれるようにして言葉を発しているのではないか。

渡辺は、エドガード・モーガン・フォースターの「プロット」についての論考を援用する。引用箇所をそのまま孫引きする。
《まずプロットを定義しましょう。われわれはストーリーを、「時間の進行に従って事件や出来事を語ったもの」と定義しました。プロットもストーリーと同じく、時間の進行に従って事件や出来事を語ったものですが、ただしプロットは、それらの事件や出来事の因果関係に重点が置かれます。つまり、「王様が死に、それから王妃が死んだ」といえばストーリーですが、「王様が死に、そして悲しみのために王妃が死んだ」といえばプロットです。時間の進行は保たれていますが、ふたつの出来事のあいだに因果関係が影を落とします。あるいはまた、「王妃が死に、誰にもその原因がわからなかったが、やがて、王様の死を悲しんで死んだのだとわかった」といえば、これは謎を含んだプロットであり、さらに高度な発展の可能性を秘めたプロットです。それは時間の進行を中断し、許容範囲内で、できるだけストーリーから離れます。王妃の死を考えてください。ストーリーなら「それから?」と聞きます。プロットなら、「なぜ?」と聞きます。これがストーリーとプロットの根本的な違いです。》
プロットとは、その表現のなかに、出来事の流れ(ストーリー)の時間とは別次元の時間を導入するための方法なのである。そしてそもそも、出来事の流れ(ストーリー)が「流れ」として認知されるためには、そこにその「流れ」を支えるプロットがなくてはならない。
《木村敏氏はポール・リクールの論に言及しつつ、物語のプロットを、現在の直下の「非クロノロジカルな次元」の「記憶」ではあるまいか、と思索しているが、これはフォースターよりも時間論的に厳密な見解である。わたくしなりに木村氏の見解を要約するならば、プロットは「物語、歴史」としてのストーリーがそこに依拠することによってまとまりうる「根拠」であり、ストーリーは「(プロットという)根拠(への依拠)関係」にある限りにおいてまとまりうる、ということになる。さらに言うならば、ストーリーは「クロノジカル」な「歴史性」の次元にとどまるが、プロットは「歴史性の外部」から「歴史性」をまとめ上げてくる<瞬間的>な「記憶」なのである。このことをフォースターは「(プロットは)時間の進行を中断し」と表現している。》

by daiouika1967 | 2008-05-15 22:58 | 日記  

5月13日(火) 晴のち曇 夜になって雨

目覚めて、日記をつけ、ネットを周回し(四川省の被害者数また増えてるな…)、朝ごはんにはベビーリーフのサラダ、卵かけご飯、インスタントのしじみ汁。食べながら親父が出ている番組を眺める。11時に家を出て、図書館へ。借りていた本の貸し出し期限が明日に迫っていた。5冊返し、6冊借りる。中村雄二郎『精神のフーガ -音楽の相のもとに』(小学館)、スティーブン・ミズン『歌うネアンデルタール -音楽と言語から見るヒトの進化』(早川書房)、『心の先史時代』(青土社)、正高信男『ヒトはいかにしてヒトになったか -ことば・自我・知性の誕生』(岩波書店)、八木晃介『<癒し>としての差別 -ヒト社会の身体と関係の社会学』(批評社)、『木田元対談集 哲学を話そう』(新書館)。そのまま閲覧室で、渡辺哲夫『祝祭性と狂気 -故郷なき郷愁のゆくえ』(岩波書店)を読んだ。名駅まで歩いて<アルアビス>でビニエとコーヒーを注文し、『木田元対談集』を読み始める。三浦雅史、福田和也、笠井潔との対談を読む。帰りに<69>に寄り、鈴木茂『バンドワゴン』を購入した。夕飯は、妻が拵えた豚肉ともやしとにらの炒め物。夜、DVDでアメリカのドラマ『BONE』を3巻分、6話を観た。1話ずつで完結していくので、続きが気になって観るのを止めることができないといった、いわゆる「はまる」という状態にはならない。2時就寝。外は激しく雨が降っている音がする。

●朝起きると、とりあえずその瞬間は気分がいい。爽快感のようなものがある。意識がだんだんとはっきりしてくる。今日は何をしなきゃいけないんだ?……思い出そうとして、特に予定がないことが確認できると、その爽快感はしばらく持続する。春、暑くも寒くもない陽気だったりすると、終日気分がいいまま過ごすことができるときもある。

●沖縄には、カミダーリーと呼ばれる「巫病」(巫女になる人間が体調を崩す症状)がある。精神科医が彼らを診るなら、その症状から、統合失調症と診断することになるだろう。しかし、精神科医である渡辺哲夫は、カミダーリーに罹った人びとを、治療の対象としては捉えていない。
渡辺哲夫は、沖縄の病院で働きだしてすぐ、母親に連れられてきたひとりの青年を診る機会を得る。青年は、《意識は清明だが随意的言動が困難になる軽い混迷に近い状態》で、統合失調症者特有の異様な雰囲気を発散していたという。渡辺は、その青年の語る内容に、驚愕を覚えることになる。
《わたくしにとって青年の発言は驚くべきものであった。誤解されることを承知したうえでなお、さわやかな印象を受けた、とすら記しておきたい。というのも、首都圏内の臨床現場で際限もなく出遭ってきた狂気の世界の千篇一律とも言うべき人間的背俗臭、世俗的欲望臭がまったくなかったからである。わたくしにとって首都圏において経験された、いわゆる統合失調症者の妄想や幻覚の世界には、迫害者として、監視者として、理不尽な支配者として、いつも必ず人間的他者の他者性が露骨に現れていた。(中略)他者の他者性におけるこの途方もない人間臭、世俗的欲望の臭気こそがこの病気の特徴なのか、広義の対人関係に苦悩する「対人関係中毒」あるいは「対人関係嗜癖」とでも言うべき傾向が統合失調症のもっとも目立つ現象的な特徴なのか、とすら思っていた。
ところが、この青年はわたくしの三十年以上におよぶ経験を一瞬のうちに否定した。青年の世界には、人間以外のもの、「小鳥」、「黒い霊(黒い影)」しか登場していない。「オヤジのイビキ」も世俗的迫害を意味せず、「霊の話し声」となる。いっさいが、自然的、あまりに自然的、霊的、あまりに霊的なのである。

《本土首都圏の患者の体験野にあっては、患者と自然神的・先祖神的<神霊性>のあいだに人間的他者との世俗的欲望関係という壁がある、沖縄の患者の体験野にあっては、患者と世俗的欲望のあいだに、自然神的・先祖神的<神霊性>が強く介入してくる、と言ってもよかろう。
南の島の祝祭的世界にあっては、他者の他者性が、神秘的<神霊性>を帯びた不死の大自然の次元、さらには大自然の森のなかのウタキ(御嶽)に、あるいはニライカナイという海上の彼方の他界に、さらには天空の異界に帰郷していった不死の死者たちの霊の次元で生成している。そうであれば、そこから差異化され、個別化され、限定されてくる自己の自己性も濃密な<自然性>、<動物性>、<神霊性>を帯びてくるのは当然だろう。この<動物性>、<神霊性>に満たされた不死の祝祭性は、各自の身体に密着するこの自然的<動物性>、先祖神的<神霊性>に、すなわち、あえて言うなら不死の「生命それ自身」という深い次元に、ほとんど無媒介的に触れて生きている人びとにとって自明過ぎることなのだろう。》
沖縄という時空には、狂気を、孤絶した個人から解放し、ある世界観のなかに位置づける仕掛けが組み込まれている。そのような「伝統」がある。ある世界観のなかで隣人と共有された狂気、……しかしそれはもはや狂気と呼ぶべきものではないのかもしれない。

この「伝統」は、人と人との関係がつねに「自然」や「神霊」に媒介されてある共同体において、人びとの間で共有され、継承されていく。
《そのような<伝統>が、カンダーリをカンカカリャへと媒介・架橋してゆく力として、南の島の死者たちと生者たちによって、伝統的に共有されて現在の直下の<記憶>になっていると考えるしかないだろう。そう考えなければ、カンダーリがカンカカリャを、ということは<瞬間>が「歴史」を、生み続けている現実を目の前にして、われわれは<瞬間>と「歴史」を二元的に確定しようとする硬化した思考で立ち往生するしかあるまい。(中略)
南の島の大自然の<神霊性>、自然神と先祖神の<神霊性>によって貫かれているカンダーリからカンカカリャへの転身を媒介しつつ可能にし続けている特異な「歴史性」、言うならば「生産労働の歴史」の持続を超越しつつ「生産労働の歴史」の外部あるいは直下に潜んでいる<もう一つ別の歴史>とも言うべき何かを見出さなければ、もう先に進めないところまでわれわれは至っている。》

この「もう一つ別の歴史」とは何なのか。渡辺は問いを進める。
《わたくしは、ここで二つの歴史の概念を考えなければならなくなった。一つは、「生産労働の歴史」の概念、もう一つはいまここでは南の島の伝統としか換言できない<歴史>の概念である。
前者は未来における救済を願って過去の知恵の蓄積を媒介にしつつ現在時の生命の沸騰を抑圧し、未来の目標のためにこの生命の炎を未来時に売り渡す。ここでは、猶予なき生命の沸騰の<瞬間>は適温化されて「生産労働の歴史」の単なる一幕と化してしまう。労働現場と化した現在時には大自然の<神霊性>も先祖神の<神霊性>もない。言うならば<企て>の連続としてある「生産労働の歴史」は水平的・線状的な歴史の概念である。
けれども、後者の<歴史>は、大自然の<神霊性>が、死者たちの声が、先祖神の守護が、現に生きている人間に、言わば直下から突き上げてくる、静かで穏かなカンツキャギのごとき異なった<歴史性>を帯びていると考えなければなるまい。これは言うならば表層的ないし水平的な「生産労働の歴史」に、内奧の深淵から垂直的に突き上げてくる<歴史>の概念である。(中略)
この二様の異なった概念は、ここで、「生産労働の歴史」と<祝祭性の伝統>と簡潔に分けられてもよかろう。
そうであるならば、カンダーリという名の<瞬間の狂気>を「歴史」に組み込み、さらにカンカカリャの<神霊性>へと言語的・伝承的に媒介しつつ導く力は、<祝祭性の伝統>にこそ潜んでいるのであって、他のどこにもないのである。この<伝統>は、死者たちと生者たちの共棲的な<祝祭性>の場所であり、死者たちから伝承として贈与され続ける言葉の<祝祭性>であり、かつまた大自然の<神霊性>の<祝祭性>を享受する<伝統>でもあろう。

「祝祭性の伝統」という場のなかで、狂気は、もはや狂気と呼ぶべきものとは異なった在りようをしている。「狂気」の体験、すなわち、自らの身体のうちに「歴史の外」=「瞬間」に突き抜ける力が溢れ出す、という体験は、自然や神霊と繋がるための超越を実現する。
渡辺は、ヘーゲル-バタイユ的な「動物性」という概念を援用して、こう論じている。
「<動物性>を乗り越えて「進化」して<人間>となったわれわれという存在は<反・動物性>と規定されうるだろう。ここで、この「反」は、<動物性>の否定、隠蔽、抑圧、忘却、歪曲、追放、また、<動物性>の超越や言語的に媒介された歴史化、さらには<動物性>からの疎外、異化など、じつに多様な含みをもつけれども、<反・動物性>が原初において楽園を追放された者の特性であることは言うまでもあるまい。<反・動物>たるわれわれは、楽園を、故郷を、さらには自然に密着した太古の世界を、大自然を、輝く太陽を懐かしむ。だが、この郷愁の念が激しい衝動となれば、われわれは<動物>に戻れるのだろうか。不可能である。少なくとも異様に歪んだ形でしか<動物>に近づけない。この衝動の帰結は、<人間>否定、すなわち<反・動物>否定、<反・動物>超越とならざるをえない。
それゆえ、<動物性>への歪み捩れた帰郷は、<反・反・動物性>と言うべき奇怪な特性に支配された存在になること以外にないのである。この奇怪さが醜悪となるか、神聖となるか、これはいまのところ解らない。
ただ、ここで言えるのは、<狂気>、<動物性>、<反・反・動物性>という三つの属性は、相互に緊密に巻きつき合っているのだろう、この三つの生命様態は<反・動物性>のはるか彼方にあるだろう、あるいは、はるかな直下の内奥の深淵にあるだろう、との強い予感である。また同時に、この三つの生命様態は<反・動物性>の次元で体験され、思考され、表現にもたらされるしかないゆえ、つねに<反・動物>に固有の言葉と歴史性・意味性に媒介されざるを得ず、言わば間接態の生命としてしか理解されえない原理的困難も、すでにして規定される。》

by daiouika1967 | 2008-05-15 00:36 | 日記  

5月12日(月) 曇のち晴

昼前に家を出て、名駅の喫茶店で、谷川健一『私の民俗学』(東海大学出版会)を読む。1987年刊行、朝日カルチャーセンターの講義録。<アルアビス>でカジキのフライを挟んだパニーニ、サラダ、アイスコーヒー、チーズケーキのランチを食べてから、午後、<ジュンク堂>へ。渡辺哲夫『祝祭性と狂気 -故郷なき郷愁のゆくえ』(岩波書店)を買う。それから大須まで歩いて<ノムラ書店>を覗く。あいかわらず安い。小島信夫『現代文学の進退』(河出書房新社)が500円で出ているのを見つける。『谷川俊太郎の33の質問・続』(ちくま文庫)、庄野潤三『文学交遊録』(新潮文庫)、現代詩文庫(思潮社)から3冊―金子光晴、山之口獏、辻征夫(続)。すべて合わせて1700円という安さ。名駅まで歩いて引き返し、喫茶店で『谷川俊太郎の33の質問・続』を読み始める。手塚眞、野田秀樹、伊藤比呂美、高橋源一郎の回を読む。夕方、マックスバリュに寄り、サラダ用の野菜とPの餌を買って帰った。夜は妻がアマゾンで取り寄せたDVD『宮廷料理人ヴァテール』を観た。フランス映画史上でも破格の制作費約40億円をつぎ込んで17世紀フランスの宮廷の祝宴が再現されている。妻は例えば大奥だとか、“豪華絢爛”なものが好きなので、この映画は十分楽しんで観ていたようだった。ただ、たしかにセットには金がかかってるんだろうなというのは分かるのだが、観ていて圧倒されるような豪奢な雰囲気はいっこうに伝わってこない。監督であるローランド・ジョフィに才能がないということだろう。ドラマの展開もじつに冗長。それでも、妻が楽しんでいるようだったので、いっしょに観ている限り退屈ということはなかった。夜、眠たくなるまでのあいだ、『谷川俊太郎の33の質問』を読み継いだ。川崎徹、鈴木ユリイカ。

谷川健一『私の民俗学』(東海大学出版会)からの引用、メモ。

《海の漁の場合でも山の猟の場合も同じですが、そばに居合わせた者に獲物を分配するしきたりがあるのです。この分配の慣行は古代に遡るにつれて、きわめて厳密になっていきます。たとえば、鹿児島県の黒島などでは、とれた魚をかつては村中の者に全部分配いたしました。赤ん坊にまで分配するのです。この分配というのは民俗学的に非常に重要なテーマだと私は思います。要するにその背景には人間の収得した獲物は神のものだ、という観念が前提としてあるわけですね。狩猟なら山の神、海の漁なら海の神に獲物を献げまして、その後に、みんなに平等に分配していく、という平等の原則が働いている。これは共同作業の場においては、共同の観念がかつて生きていた時代があった、ということを意味しています。我々はこれを記憶しなければならないと思います。
現代の私たちはとかくその場その場で、非常に利己的に生きておりますけれども、かつては赤ん坊でも、力のない者でも、とにかくそこに居合わせた者に収穫物を分け与えるという平等の精神があったということを忘れてはならないでしょう。これは、生活の場に共同作業があり、そしてまた自分たちが一つの神につながっているという観念があってこそ、可能なのであります。

《ヨーロッパのキリスト教神学では、神・人間・動物というはっきりした区分がありまして、そこには越えがたい一線があることは、すでにご存知だと思います。それに比べまして、日本の常民の世界では動物と人間との間に越えがたい一線はない。また、上下の関係もない。さらには人間と神の間でも上下の関係、越えがたい一線がないことになります。日本の神は、人間の生死を司る絶対的で普遍的な全能の神ではないということになるわけです。
そうした神と人間と動物の三者の関係が一つの世界を構成するのですが、その三者の交渉の学が民俗学であるということも言えるかと思います。「民俗学とは何か」といいますと、その自然的な人間と神と動物の交渉の学問、コミュニケーションの学問であるということが言えるだろうと思います。》
“普通の生活を営む”ということのなかに、“自然”や“神”とつながる回路が、既に常に組み込まれている。“常民”とは、ある習慣的な方法を通じて、“神”や“自然”とコミュニケーションできる人びとのことである。いわゆる近代的なインテリジェンスは、常民がもっていた無意識の回路を切断してしまう。民俗学の可能性は、そうした近代的なインテリジェンスに対抗するオルタナティブな知のスキルとして存立しうるということにあるだろう。
神と人間と他の生物たちとの交渉の学問が民俗学であり、そのなかでいちばん重要なことは相手を食べる行為と相手と婚姻するという行為の二つであるだろうと私は思っております。その行為を機軸に、神・人間・動物の三者が円環状をなして交渉を行なう。それが民俗学であると思うのです。

《私は沖縄の海岸に立ちますと、いつも感動を覚えます。現世と他界とが、一度に見えるからです。
「他界と現世が一度に見える」。これは非常に複雑な、あるいは純粋な感動をもたらしてくれる。そのときに、自分の頭に浮かんでくる言葉は、「かなし」という言葉です。この言葉には愛着と悲哀の双方の意味がこめられています。現世への執着と他界への悲哀とでも申しましょうか。
他界には自分たちの先祖や親しい人、両親や、亡くなった近親者たちがいるという愛着というか、かなしさがあり、それに現世の生活の悲哀が入りまじっておとずれてくる。それが沖縄の空間の持つ特色ではないかと私は思うわけです。
沖縄では二元論的な世界が一つの空間に同居して目の前に展開している。》

by daiouika1967 | 2008-05-13 10:10 | 日記  

5月10日(日) 曇のち晴

11時に起きて、終日DVD三昧。途中で飯を食ったりPのうんこをかたしたりしつつ、『鉄コン筋クリート』『最期の誘惑』『白昼の暴行魔』『サイドカーに犬』と続けて観た。『鉄コン筋クリート』は松本大洋の原作は発売当初に読んで絵もキャラもとても斬新に感じたのを憶えている。アニメでは、主人公のシロとクロの声は、シロが蒼井優、クロが二宮和也。これがぴったりはまっていた。妻も気に入ったようだった。『最期の誘惑』を観るのは4、5回目。キリストといえばウィリアム・デフォーの顔が浮かぶようになってしまった。ピーター・ガブリエルのサウンドトラックに感涙。『白昼の暴行魔』は、1978年公開のイタリア映画。《3人組の銀行強盗が逃げ込んだ海辺の別荘。そこは、女教師と5人の女子学生が勉強のために借りていたものだった。かよわい女生徒たちを目の前にして、男たちは欲望をむき出しにするが、実は尼僧だった女教師の抵抗と、リーダーの男のシニカルな態度が微妙な均衡を保つ事になる。だが、恐怖に絶えかねた少女たちが脱走を試みようとした時、そのバランスが一挙に崩れさるのだった…》というストーリー。サウンドトラックはモンドでキッチュなラウンジミュージック。『サイドカーに犬』―原作の長島有の小説は読んでいる。読みながら自分が子どもだった頃感じていた空気感(大人に対する複雑な感情だとか)が甦ってくるような、淡白だが不思議な効果のある小説だった。映画でも、その効果は失われていなかった。監督は根岸吉太郎。こんな空気感が表現できる監督だったんだと初めて認識する。『狂った果実』『遠雷』『探偵物語』といった辺りの作品を見直してみようかなと思う。

by daiouika1967 | 2008-05-12 10:53 | 日記