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5月29日(木) 朝、雨、のち曇

朝食は、タコヤキ状のメープルシロップ入パンケーキ、イチゴ、杏仁豆腐、インスタントスープ。9時過ぎ、家を出た。
昨日から、なんとなく体がだるい。風邪のひきはじめかもしれない。
フラナリー・オコナー『賢い血』(須山静夫訳 ちくま文庫)を読む。途中何度か眠気に襲われ、10分くらいの仮眠を取りながら。「神は事実である」という信仰のあり方について想像をめぐらした。信仰者にとって、神は思想や幻想ではなく「事実」である。神は、人間の側から志向し、求められるものではなく、神の側が人間を選ぶのである。人間は、ある時神に選ばれ、いわば神に「ぶち当たって」心身を砕かれる―これが回心と呼ばれる体験である。
昼飯は、栄町ビルにある定食屋のロースカツ定食。
午後、北村薫『北村薫の創作表現講義 ―あなたを読む、わたしを書く』(新潮選書)を読んだ。
名古屋の<バナナレコード>で、サバーバン・ナイト『マイ・ソル・ダーク・ダイレクション』、『WIRE07コンピレーション』を買う。
夜飯は、豚バラ肉、もやし、しめじの炒め物、漬物、ご飯、インスタントの味噌汁。
夜、周期的にうつらうつらしながら、永井龍男『回想の芥川・直木賞』(文芸春秋社)を読む。130ページまで。ネットを周回して、12時過ぎにベッドに入った。喉がいがらっぽくて咳が出る。やばい。

by daiouika1967 | 2008-05-30 10:12 | 日記  

3月15日(土) 晴

9時過ぎ、起床。パンを齧り、インスタントスープを飲む。10時過ぎ、家を出た。
郵便局に行き、確定申告の用紙を区役所宛てに送り、銀行に行き、カードの支払い15万円をおろした。
大名古屋ビル地下の<アルアビス>で、コーヒーを飲みながら、『新潮』4月号から、山田詠美×島田雅彦、保坂和志×岡田利規の対談を読んだ。保坂×岡田の対談はおもしろかった。
―「岡田:僕の芝居では、ある話題について、自分のことではなく、誰々さんの出来事として伝聞で話すということをよくやります。つまり、舞台上のAが舞台上のBに向かって話す内容が自分(A)のことではなく、第三者(C)のことである―すなわち、役者Aは『役者Aを演ずる』のではなく、『役者Cを演ずる役者Aを演ずる』というような状況です。これはブレヒトの手法で、簡単に言うと『自分に与えられたセリフの最後に、『……と、彼(彼女)は言った』と心の中で言う』というものなのですが、実際に試してみるとすごく使える。でも、最初は、その位客観的に演じる方がうまく見える、としか思っていませんでした。それが、リハーサルを重ねていくうちに、同じ内容を話しても、主格を『彼女』にする場合と『私』とした場合では、『彼女は……』と話す方が、その対象となる人物に迫真できることに気づきました。俳優にとっては、『彼女』のこととして話す時よりも『私』のこととして話す方が、よりその人物を自分に近づけなければならないように感じると思うのですが、実際には『彼女』として想定した距離よりも近い距離というのは、存在しないんじゃないかと最近は思っています。『彼女』として話した距離と同じ距離で『私』を扱う」。
虚構の登場人物を、俳優―作者は、どんな距離で捉えるのが適切なのか―「実際には『彼女』として想定した距離よりも近い距離というのは、存在しないんじゃないか」―つまり、自分も含めて第三者として見る視点が必要だということ、そして、「彼」や「彼女」もまた「第三者としての自分」と同じ平面で捉えることのできる距離感覚が必要となる。

昼過ぎ、<ジュンク堂>へ。ジュヌヴィエーヴ・ブリザック『フラナリー・オコナー 楽園からの追放』(香川由利子訳 筑摩書房)、中原昌也『ニートピア2010』(文芸春秋)を買った。
喫茶店で、ジュヌヴィエーヴ・ブリザック『フラナリー・オコナー 楽園からの追放』から読み始める。今日は寝不足なのか、やたらと眠たい。読んでいる途中二度、眼を瞑り、15分程度の仮眠をとった。眠気を堪えて読んでいたせいか、なかなか文章のリズムにのることができなかった。
フラナリー・オコナーの小説は、まだひとつも読んだことがない。しかし、読めばおそらくのめりこむだろう、という直観がある。その直観がどこから来たのかは覚えていないが、たぶん、誰かの文章に彼女の言葉の断片が引用されているのに触れて、ビッときたのだろう。
―「作家は何も理解する必要はないし、そもそも、異常な感情より普通の感情のほうがよく理解できるなどということはない、と彼女は説明している。それに自分には鋭敏さもなければ記憶力もない、と彼女はすぐに自慢する。
感情というものを表現するのに、その感情を感じる必要はありません。見つめるだけでいいのです。それはその感情を理解するということではありません。言い換えれば、自分が理解できないということを理解することなのです」。
―「『小説における現実は明晰で神秘的なものでなければならない。』
『芸術には、内面と外面という二つの世界が微妙に組み合わさる必要がある。二つの世界が、互いを通してありのままに透けて見えるように。』

以上がオコナー的幾何学の二原則だ」。
―「私たち南部のカトリック信者に言わせれば、間違いはすべてを人間の規模に還元してしまうことにあります、と彼女は説明する。なぜならば、そうすることによって人は、すべてを還元しようとするこの人間という感覚そのものを、次第に失っていくからです。私たちにとって、人間は堕落しているのです。自由主義者の目から見れば、人間は堕落したことなどなく、原罪も犯したこともないから、ひとりで切り抜けられるのです。こうした観点から見ると、悪は住宅や、衛生や、健康の問題に限定され、いつかすべての神秘が消えてしまうでしょう。最後の審判はもはや存在理由を持たなくなります。人間には責任はないのだから。もちろん微妙な違いはあるにしても、現代社会が進み始めているのはこの方向なのです。
懐疑的態度と、不条理と、自由主義的不信仰の支配する世界で書いている、というこの確信は、オコナーの二つの前提の基盤となっている。
こういう状況なので、いっそう強く叫ばなければならないし、特徴を強調して、歪曲し、誇張しなければならないのだ。

洗礼が筋の山場となる小説を書くとき、私は大半の読者にとってはそれが無意味な儀式であると強く意識しているので、読者が感動に揺すぶられ、洗礼に意義を見出さなければならなくなるほどに、苦悩と神秘にあふれたものとなるように気を配らなければならないのです。歪曲は手段であり、誇張は意図されたものだ。誇張は真理を啓示する」。

今日は、7時から、接待がある。栄で待ち合わせをしているので、栄のどこかの喫茶店で、本を読み継ごうと決める。栄まで歩いた。そういえば今日は土曜日で、栄の街は平日よりずっと人出が多かった。空いている喫茶店を捜してしばらく彷徨い、<オアシス>の公園でベンチに座って、しばらくぼうっとした。もうすっかり春めいた陽気ではあるものの、じっと座っているとまだすこしだけ寒い。30分も座っていると体もすっかり冷えてしまった。立ち上がって、<中日ビル>に入っている喫茶店<サンモリッツ>で時間を潰すことにする。
ショートケーキと紅茶を頼んで、中原昌也『ニートピア2010』を読み始めた。
読んでいると、ノイズミュージックを聴いているかのような、過剰な圧がかかってくる。例えば、「誰が見ても人でなし」という短編に、
―「ヘアスタイルは人目につくタイプのものが好まれる/怒声とともに破損された街灯の放置/緊急事態につき自宅の表札を外すよう警告/必死に旗を振る無駄/人生成功の機会永遠に与えられず/飼い猫を白い壁に叩きつける業務/便所の大々的偽装工事/誰の関心も引かぬ手書きの死亡記事/高速道路の中央分離帯に長時間潜む女/陰気な公共建設物の無人落成式/歴史上の偉人らが陽気に復活して通行人から軽蔑の眼差し/繁華街での強制脱糞/死体を使った嫌がらせパレード/自殺者急増地帯拡大の見通し/流行室内装飾が身体に悪影響/性器にカラフルな電飾取り付け手術代行/近隣雑木林が主なペットの墓場/深夜に恐慌状態の盲学校/顔面を傷つけるタオルの絵柄に採用/公園での性犯罪オリンピック開催/……」とこんな文章が延々とつづくくだりがある。この調子が5ページにわたって続いていくのである。
あまり長時間は読み続けられないが、しかし、読んでいると止められくなるような中毒性もある。
245ページまで読み進んだところで、7時になった。

K君とクライアントの3人で、久屋大通にある、ちょっとオシャレ目の居酒屋へ向かった。クライアントはちょっとオタクっぽい、おとなしい人である。このメンバーだと、おれが話題を切り回す役柄になる。その役柄を、適当にそつなくこなし、10時過ぎに解散した。
11時過ぎ、帰宅した。テレビを眺め、Pと遊んで、1時過ぎ、就寝。

by daiouika1967 | 2008-03-17 09:50 | 日記