夏目漱石『明暗』、後半半分を読み読了。未完であるとは知っていたが、ここで終わるか、という途切れ方。サスペンスフルな展開の小説なので、その構造に引っ張られて、続きがあれこれ勝手に頭に浮かぶ。
《「じゃ若いものだけに教えてやる。由雄も小林も参考のために能く聴いとくがいい。一体お前たちは他の娘を何だと思う」
「女だと思ってます」
津田は交ぜ返し半分わざと返事をした。
「そうだろう。ただ女だと思うだけで、娘とは思わないんだろう。それが己たちとは大違いだて。己たちは父母から独立したただの女として他人の娘を眺めた事がいまだかつてない。だからどこのお嬢さんを拝見しても、そのお嬢さんには、父母という所有者がちゃんと食っ付いてるんだと始めから観念している。だからいくら惚れたくっても惚れられなくなる義理じゃないか。何故といって御覧、惚れるとか愛し合うとかいうのは、つまり相手をこっちが所有してしまうという意味だろう。既に所有権の付いているものに手を出すのは泥棒じゃないか。そういう訳で義理堅い昔の男は決して惚れなかったね。尤も女は慥かに惚れたよ。現に其所で松茸飯を食ってるお朝なぞも実は己に惚れたのさ。しかし己の方じゃかつて彼女を愛した覚がない」》
今昔を問わず、男も女も家族や親族といった関係のなかに棲んでいる。もちろん、その関係に与えられた社会的な強制力は、今と昔じゃまったく異なっている。だが、そこでどんな感情が動くかは、やはりそう異なってはいないようにも思う。
例えば娘のいる父親は、自分の娘が他の男と愛し合うことに、ある種の疎外感を覚えるのではないか。ただ、娘は自分の所有物ではないから、その男を盗人呼ばわりすることは、権利上できないというだけのことだ。自分の所有物が盗られたという感情の内実は抑えられねばならない。
どんな女も「ただの女」ではなく「誰かの娘である」と思うと、義理堅くもないおれなどの感性には、その女と愛し合うという行為が、その誰かへの裏切りをはらんでいるというそのことが、なんだかとてもエロチックなものであるように思われる。
蓮見重彦『映画崩壊前夜』(青土社)の後半を読み、読了。
蓮見重彦は、《映画について書いたり語ったりすることは、饒舌を排するために言葉をつらねるといういかんともしがたい矛盾を含ん》だものだと云う。例えば、ジョン・フォードについて語るのは、《ひたすらフォードの画面へと人びとの瞳を誘うため》なのであって、そのためには《口にされる瞬間に言葉が消滅するような》語りに徹しなければならない。
蓮見重彦の映画批評を読むと、その映画が強烈に観たくなるのは、きっとそんなわけなのだ。
《(饒舌を排するために言葉をつらねるという)その矛盾に無自覚な言説は、存在してもよいが、存在しなくてもかまわないものばかりだ》―これは映画と深い関係を結んだ者だけに云い得る言葉であろう。
例えば、ペドロ・コスタ監督『ヴァンダの部屋』について、蓮見重彦はこんな言葉をつらねて、読む者をその映像体験へ誘っている。
《では、180分もの時間をかけて、人はこの途方もない作品の画面に何を見ているのか。崩壊にさらされた存在だけがにないうるなだらかな生の持続である。被写体となる存在は男も女も等しく何かに傷ついているが、健康であることへの郷愁の徹底した不在が、彼らに瞬間ごとの生をなめらかに享受させている。そのままの服装でベッドで寝ていたらしいくたびれた身なりのヴァンダは、誰が買うとも知れないレタスの籠をかかえ、日陰の路地をすりぬけながら、薄暗い戸口から戸口へと律儀に売って歩く。湿った咳をするやせぎすな彼女の周辺では、住宅をはじめとしえt、あらゆるものが音をたてて崩れ落ちてゆく。凶暴な動きのショベルカーが家という家の壁や床を突き崩し、その開口部からいきなりまばゆい逆光がさし込むかと思うと、光源のみえない明かりの中に音もなく塵埃が舞ったりしている。》
《映画における「真摯さ」とは何か。時に無邪気さと境を接していながらも、物語とそれにふさわしい視覚的な造形性との関係を、スクリーン外部漂う同時代的な感性にゆだねようとはしない潔癖さをいう。》
《「スター」とは、その容貌や演技力にもまして、みずからを「善悪の彼岸」に嘘のようなたやすさで位置づけてしまう存在をいう。》
<丸善>で、
『ユリイカ 特集スピルバーグ』(蓮見重彦×黒沢清の対談が載っている)、『別冊映画秘宝 ショック!残酷!切株映画の世界』の2冊を買う。
『ユリイカ 特集スピルバーグ』を開き、目当ての蓮見・黒沢対談を読む。
夜は、Wiiマリオカート。今日はちょっと厭なことがあって、気持ちが沈んでいたのだが、マリオカートはいつもより調子がよかった。
身体を律するには、浮き立つような気持ちでいるより、ちょっと沈んだ気持ちでいる方がいいのかもしれない、などと考える。