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7月29日(火) 晴

網野善彦『「日本」をめぐって ―網野善彦対談集』(洋泉社)を読む。対談相手は、田中優子、樺山紘一、成田龍一、三浦雅士、姜尚中、小熊英二の諸氏。

武術家の甲野善紀がその身体運用の術理を説明するとき、「身体を割る」という比喩を使うことがある。
私たちは、武道の試合をはじめとする戦闘の場面で、ある無意識の定型のなかで、身体を動かしている。
例えば、相手を殴ろうとするとき、パンチの勢いをつけるために、必ず殴る前に一瞬のタメをもたせてから、そのバネを利用して、パンチを繰り出すということをする。
その「タメ」は、時間としてはほんの一瞬のことなのだが、その「タメ」があることで、相手に次の動作の予測を許してしまう。
ボクシングの試合などで、いかに速いパンチであれ、容易にヒットすることがないのは、どれだけ速いパンチであれ、そこに「タメ」がある限り、相手はそのパンチを予測できるからということになる。
「パンチを打つときその前に必ず「タメ」をもたせてしまう」―そうした一連の動きのパターンが、さっき書いた「無意識の定型」ということである。
普通は、武道の試合においては、この定型の範囲のなかで、いかに速い、強い攻撃が可能か、といったことが競われることになる。
しかし、甲野善紀が探求する武術においては、その定型そのものを解体することが目指されている。
つまり、例えばパンチの例で言えば、まったく「タメ」をもたせることなくパンチを打つことができるなら、相手はそのパンチを予測できず、そのパンチを防御することが不可能になる。
理屈はそうなるが、しかし、「タメをもたせずにパンチを打つ」などということは、じっさいにやってみるとわかるが、ほとんど不可能なのである。
この「ほとんど不可能」な「無意識の定型」の解体、その実践が甲野善紀のいう「武術」の実践ということになる。
もちろん、それは「身体で覚える」「身体で気づく」しかないような実践ではあるのだが、甲野善紀が語る武術の術理には、武術の世界を超えて応用しうるイメージに満ちている。
戦闘の場面に限らず、私たちは、日常の所作において、あるいはまた、思考においても、「無意識の定型」に囚われた状態にあるといっていい。
甲野善紀が語る術理には、その一般的な意味での「無意識の定型」をも解体しうる可能性が含まれている、というか、その術理のイメージにはそのようにも読めるだけの拡がりが含まれている。
「身体を割る」という術理もまた、そのような拡がりを含んだイメージである。
「身体を割る」とは、身体を小さなユニットに細分化する、ということだ。
ひとつの動作を行なうとき、その動作の「無意識の定型」に沿って行なうのではなく、その都度、分割された各ユニットを組み合わせて行なうようにする。
そうすることで、無数の定型外の身体運用が創出される可能性が開けてくる。
そのことでまず、その動作は相手にとって予測不可能なものになる。
そして、相手がいない場面においても、「無意識の定型」にもとづいた動作をはるかに超える、「より合理的」な身体運用の方法を探ることもできるようになる。
例えば甲野善紀は、介護などの場面で、腕の力がない人でも、寝たきりの人を軽々と動かしたりする身体運用の方法を開発したりしている。

網野善彦の著作を読むと、私たちが漠然と無意識のうちに持っている、「日本」「民族」「歴史」といった閉塞的な観念が解体され、ある風通しのいい原野に解放されるような心地がする。
網野善彦は、《本来ならば連続していないものを連続しているように見せ、均一でないものを均一に論じくくり上げてしまう》、ある無意識の作為にもとづいた観念的な言説を、歴史的な事実を積み上げていくという方法論を通して、一切解体してしまうのである。

その「原野」には、古代と未来が出会うところに結像する、人間存在の可能性が幻視されるだろう。

夕方、横尾忠則の初の小説集『ぶるうらんど』(文芸春秋)を読む。
死後の世界の物語。
死後の世界は、時空や物体の制約がなくなり、その人の想念だけで世界が出来上がっている。
しかしそれは逆に言えば、その人の想念を超える世界が消滅する、ということになるので、その人の想念を超えることは何も起こりえない、ということでもある。
起こることはすべて自分にとっての「必然」であり、そのすべてに「意味」があるという、パラノイアックな世界。
死後の世界では、だから、つねに自分に向き合っていなければならない。
横尾忠則は、死後の世界をそのように設定することで、そこに自分の脳内を映し出そうとしたのではないか。

<三省堂>に寄り、内田魯庵『思い出す人々』(紅野敏郎編 岩波文庫)を見つける。それとマンガを一冊、白井弓子という人の『天顕祭』(sanctuary books)を買う。
『天顕祭』を読む。いわゆる伝奇ファンタジー。つまらなくはないのだが、いまひとつのりきれなかった。

by daiouika1967 | 2008-07-30 11:01 | 日記